第十四話 元近衛中将、最後の一手
夜明け前の紫宸殿へ、重臣たちが次々と姿を現す。
扉が開き、朝凪が入ってきた。
彼は横に立つ昊夜を一瞥すると、迷いのない足取りで虚空帝の前へと進み出た。そして、これ以上ないほど美しく、深く一礼した。
「拝謁の栄を賜り、誠に恐悦至極に存じます」
昊夜は黙ってその背中を見ていた。
朝凪が何をしようとしているのか、まだ分からない。だが、その横顔は、今まで一度も見せたことのない表情をしていた。あらゆる迷いを削ぎ落とし、ただ純粋な「覚悟」だけが全面に出ている。
朝凪はゆっくりと顔を上げた。
「陛下、申し上げたいことがあります」
「何だ」
朝凪は懐から、几帳面に折り畳まれた紙を取り出した。それを虚空帝へ差し出す。
虚空帝が受け取り、指先で広げる。その瞬間、帝の鋭い目がさらに細くなった。
「……来栖宮の戸籍か」
「はい」
一瞬、昊夜の息が止まった。
朝凪は淡々と、しかし恐ろしいほどの重みを持って言葉を続けた。
「来栖宮家の蓮火として、皇籍復帰を願い出ます」
場が、凍りついたように静まり返った。
昊夜は信じられない思いで朝凪を見た。
──来栖宮。
八重御所の変よりさらに前、陰謀によって歴史の闇へと消えた悲劇の宮家。その唯一の生き残りが、他ならぬ朝凪だったのだ。
朝凪は真っ直ぐに虚空帝を見つめていた。
「来栖宮の冤罪を証明する文書が、ここにあります」
彼は懐から、別の紙の束を取り出した。
「父が陥れられた告発状と、証言の矛盾を精査したものです。当時の関係者は八重御所の変で死亡しており、告発の根拠は今や、存在しません」
虚空帝はその文書を受け取り、じっと視線を落としたまま、しばらく黙り込んでいた。
虚空帝は細く息を吐き、隣に立つ二人へ視線を向けた。
「……雅、清明。確かか」
朝凪は無言で懐からもう一つ、小さな包みを取り出した。
丁寧に包まれた布を開くと、そこには来栖宮家の印章と、家督を示す証書が収められていた。
清明はそれを両手で受け取り、一つひとつ確かめていく。
やがて静かに頷いた。
「……間違いありません」
雅も印章へ目を落とし、口を開く。
「神祇殿の記録とも一致しております。確かに、この方は来栖宮家の蓮火殿です」
室内に小さなどよめきが走った。
虚空帝はようやく朝凪をまっすぐ見据えた。
「……なぜ、今まで名乗り出なかった」
「皇籍に戻るつもりが、なかったからです」
朝凪は一拍置いた。その瞳に、静かな光が宿る。
「今も、皇族になりたくて戻るわけではありません」
「では、なぜ今、それを暴く」
「正当な異議を申し立てる者が、必要だからです」
蓮火の声は、驚くほど静かだった。
「律令の規定によれば、正当な血統を持つ皇族が、他の皇族の処断に対して正式に異議を申し立てた場合、帝の直接裁可なくしてその執行は不可能となります」
虚空帝を見る眼差しには少しも揺らぎがない。朝凪は一歩踏み出し、澄んだ明瞭な声で告げた。
「来栖宮家の蓮火として、桜桃姫の処断に、正式に異議を申し立てます」
昊夜が微かに目を見開いた。
(……これだったのか)
それは、今の昊夜には使えない、法の盲点を突いた最後の手札だった。
もし軍籍にあり、かつて婚約者候補でもあった昊夜が強引に処刑を差し止めようとすれば、それは『軍部による不当な政治介入』『私情による律令の歪曲』と糾弾され、桜桃を救うどころか昊夜自身の皇位継承権も軍権もすべて剥ぎ取られる破滅の道だった。だから、昊夜は動けなかったのだ。
虚空帝が目を細め、値踏みするように問いかける。
「……私情ではないな?」
「私情ではありません」
朝凪は、髪の毛一筋ほどの躊躇もなく即答した。
「相手が誰であろうと、皇族の処断に正当な疑義があるのであれば、私はまったく同じことを申し上げます」
その堂々たる大義名分の前に、昊夜はそっと目を伏せた。
(嘘をつけ)
心の中で、静かに呟く。それがどれほど深い私情から来るものか、ずっと近くで彼を見てきた昊夜には痛いほど分かっていた。
昊夜はゆっくりと口を開いた。
「……近衛はどうした」
「昨日付で辞しました」
朝凪は昊夜の方を向き、その問いを受け止めた。
「近衛は、皇族を護るためのものです。その役目を果たせぬのであれば、私が身を置く理由はありません」
婚約者候補でもなく、軍籍でもない。来栖宮は傍系であり、皇位継承順位は極めて低い。だからこそ、純粋に律令に基づいた「法に則った正当な手続き」として、何者にも邪魔されずに異議を申し立てることができる。
昊夜がどうしても持てなかった最後の一手を、朝凪は、すべてを捨てて手に入れてみせたのだ。
虚空帝は、しばらく黙って朝凪を見つめていたが、やがて口を開いた。
「……一度、裁可が下りていてもか」
「異議申し立て以前の御裁可です。執行には、改めて陛下の御裁可を」
「ならば、ここで俺が改めて裁可すれば、処刑できるということだな」
広間に、緊張が走った。
「はい」
朝凪は一切の躊躇なく答えた。
強い光を宿した瞳で虚空帝を見据える。
「ですが、その前に――すべてをお聞きになった上で、ご判断ください」
虚空帝はしばらくの間、何も言わず、ただ静かに朝凪を見つめ続けていた。
***
広場を支配する空気は、鉛のように重かった。
桜桃は、高く組まれた壇上に毅然と立っていた。手首に食い込む鉄の枷が、容赦なくその肌を苛む。
眼下を見渡せば、地を埋め尽くさんばかりの民や兵、そして貴族たちの姿があった。地鳴りのような怒号が、容赦なく彼女に浴びせられる。
「処刑しろ!」
「不浄の血が皇統を乱すぞ!」
「国を揺るがす火種を今すぐ消せ!」
それでも、桜桃は決して俯かなかった。ただあの薄暗い離宮で見た、気高く生き抜いた母の顔を強く思い出す。
『変えます』
その誓いだけが、激しい怒号の渦巻く中で、胸の中に確固たる芯として在り続けていた。
処断役の武官が、厳かに前へ出た。
一歩踏み出すと、高らかに声を張る。
「これより、帝の勅命により、罪人・咲宮桜桃の処断を執り行う」
広場に緊張が走る。
刹那は、広場の端で微動だにせず佇んでいた。熱狂する群衆のなかに深く気配を潜め、その鋭い目だけが、一点曇りなく壇上の桜桃を捉えている。
武官が無慈悲な金属音を響かせ、抜刀する。鋭い白刃が朝日を浴びて、ぎらりと冷たく光った。
刹那の手が、自然と腰の刀の柄へとかかる。指先には皮膚が弾けんばかりの力がこもっていた。
(昊夜、朝凪――)
心の中で、届くはずのない二人の名を呼ぶ。
(まだか……!)
群衆の壁を肩で強引に割るようにして、刹那もまた地を這うように一歩、前へ出る。
(……もし、あいつらが来なかったら)
刀の柄を握りしめる手の内に、じっとりとした嫌な汗が滲む。
武官が間合いを詰めるように重い一歩を踏み出した。
刹那ももう一歩。邪魔な人の波をすり抜け、気づけば壇のすぐ手前、いつでも跳べる距離まで近付いていた。
(来なかったら、その時は――)
頭の中で、組み上がった壇の構造を測り、斬るべき場所を計算する。
階段は三段。壇の高さは一間ほど。全体を支えている柱は四本。手前にある主柱の二本を全力で叩き斬れば、壇そのものが自重で崩壊する。
崩れた瞬間に飛び込み、桜桃をその腕に抱えて――そのままどこへ走る。
広場の北側、あそこは兵の配置が最も薄い。あそこなら強行突破できる。
逃走路を確かめるように視線を走らせたその時、人垣の向こうに、日向の姿が見えた。
いつからそこにいたのか。群衆から離れた場所に立ち、黙ったまま壇上を見据えている。
ふと、その視線が刹那へ向いた。ほんの一瞬だった。
日向の目が、刹那の腰元へ落ちる。
刀の柄を握りしめた手を見て、それから北側へと視線を移した。
何も言わない。
だが、日向はゆっくりと立つ場所を変えた。
北側に控える兵たちと、刹那との間へ。
刹那は何も聞かなかった。日向も何も告げなかった。
前を向き、最悪の思考を巡らせながら、さらにもう一歩、前へ。
(……約束だからな)
そこに、もはや迷いなど微塵もなかった。
来なければ、自分のこの刀で、あの禍々しい壇ごとすべてをぶち壊す。
もし失敗しても、姫を一人で逝かせない。ただ、それだけのことだ。
桜桃は、迫り来る死を前にしてもなお、目を閉じなかった。
ゆっくりと澄んだ空を見上げる。白々と明けていく空を、どこからか紛れ込んだ狂い咲きの桜の花びらが一枚、風に流されてひらひらと舞っていく。
武官が完全に刀を構え、その切っ先を定めた。
刹那が足を踏み出した。
桜桃の呼吸が、静かに、優しく止まる。
――その、瞬間だった。
地平の彼方、遠くから地を揺らす激しい馬蹄の音が響き渡った。
一頭や二頭ではない。瞬く間にそれは幾重にも重なり、遠雷のような轟きを伴って広場へ迫ってくる。
「何だ……?」
誰かが呟いた。地平の彼方に砂煙が上がった。
「止まれ! 止まれ!」
広場の入口で兵たちが声を張り上げる。
「処断の最中だ! 何人たりとも通すな!」
兵たちの怒号が飛び交うが、駆けてくる駿馬の勢いは一切衰えない。
民衆が割れるその向こう、銀の鳳凰が五弁の桜を抱く、近衛の誇り高き『鳳桜紋』の旗が、激しく翻るのが見えた。
刹那が目を見開いた。
「――来た」
旗が朝日を受け、鮮烈な光を放つ。
その旗の下、騎馬の先頭を走るのは昊夜だった。
泥を跳ね上げた衣も構わず、片手で手綱を引き絞り、もう一方の手には鳳桜紋の大旗を掲げている。
昊夜は大きく息を吸い込んだ。
「――刑を止めろ!!」
後ろから必死に追う近衛も、喉を引き裂かんばかりに叫ぶ。
「帝の詔である! 処刑を直ちに中止せよ!」
広場全体が、落雷に打たれたように激しく揺れ動いた。
壇上の武官の手が、ぴたりと止まる。
刹那は足を止めた。
人垣の向こうで、日向もまた、静かに構えを解いた。
周囲を囲む貴族たちの間に、驚愕と狼狽のざわめきが瞬く間に広がっていった。
朝日を背負い、鳳桜紋の大旗を翻しながら、昊夜はそのまま壇上へと馬を寄せると、速度も落とさずに馬背から飛び降りた。
後続の近衛が追いつき、昊夜は鳳桜紋の大旗を傍らの旗手へ放るように返した。
そして、そのまま壇上へ駆け上がると、身を挺するようにして桜桃の正面に立ち塞がる。
「……ふっ、間に合ったな」
息を切らし、掠れた声で、昊夜は口元を緩めた。
桜桃は、目の前に現れた彼の姿をしばらくの間、ただ呆然と見つめていた。その確かな温もりを前にして、視界が急激に熱くなっていく。
「……遅いです」
震える声で、それだけを返した。
昊夜は苦笑すると、手にしていた詔の書面を、眼下の広場に向けて堂々と広げてみせた。
「虚空帝の詔である! 皇統騒乱の真偽、未だ定まらず! 故に、本件の処断はすべて保留とする!」
その凛とした声音が、広場の隅々にまで不敵に響き渡る。
貴族が、顔を真っ赤にして壇上へ叫んだ。
「納得がいかん! 執行を止めるというのなら、相応の証拠を見せろ!」
昊夜は鋭い眼差しでその貴族を見下ろし、静かに、しかし断固として言い返した。
「証拠なら、これより開かれる評定の間ですべてお示しする。この詔を疑うというのであれば、帝へ直接お訊ねいただこう」
その絶対的な威風の前に、反論できる者は誰もいなかった。誰もがその場に立ち尽くし、動くことさえ叶わない。
昊夜は刑吏から鍵を受け取ると、桜桃の手首を縛る枷へと手をかけた。
カチャリ、と重苦しい音を立てて、彼女を縛りつけていた冷たい金具が静かに外れ、地面へと落ちる。
自由になった両手を、桜桃はそっと胸の前へと持ってきた。その白い手首には、痛々しく擦れた赤い枷の跡がくっきりと残されていた。
昊夜はその傷痕を一瞬だけ見つめたが、何も言わなかった。
桜桃もまた、何も言わずにただその跡を見つめた。言葉はなくとも、二人の間には確かな何かが通い合っていた。
広場の端でそれを見届けた刹那は、握りしめていた刀の柄からゆっくりと手を離すと、ふぅっと長い息を吐き出して天を仰いだ。肩の力が、一気に抜けていくのを感じていた。
少し離れた場所で、日向は壇上から静かに目を逸らした。そして、踵を返し、騒めく群衆の中へと姿を消した。
同じ頃。朝凪は一人宮城に残り、遠くにある広場の方角を、静かに見つめていた。
やがて、広場の方角から、処断中止を知らせる甲高い鐘の音が三度響いた。
朝凪は、強く握りしめていた拳を、ゆっくりと、静かに開いた。
広場に、さっと一陣の清々しい風が吹き抜けた。
朝日に照らされた狂い咲きの桜の花びらが、美しく宙に舞い踊る。
過酷な夜が明け、この国を揺るがした長い、長い朝が、ようやく終わろうとしていた。




