第十三話 皇子、直談判する
日向が虚空帝の寝所の扉の前に立つと、近衛たちは無言で道を開けた。日向は静かに、その薄暗い室内へと足を踏み入れた。
部屋には、微かに心を落ち着かせる香が焚かれている。
虚空帝は窓際に腰掛け、酒杯を傾けたままじっと外の闇を見つめていた。日向が入ってきた気配を察しても、振り返ろうとはしない。
「……お前か」
低く、くぐもった声だった。
「狄族の兵を退かせたそうだな」
「ああ」
「報告は受けた」
虚空帝はゆっくりと振り返る。
「……代わりに、昊夜が苦しくなったな」
日向は答えない。
「分かっていて行ったのだろう」
「……ああ」
日向は小さく頷き、虚空帝の前へと進み出た。
虚空帝は酒杯を持ったまま、やはり窓の外から視線を外さない。
絢爛豪華な帝の衣を纏っていても、彼はどこかこの玉座という場所に馴染みきれていないように見えた。政変から一年が経っても、その違和感は消えない。
他ならぬ本人こそが、それを一番よく知っているのだろう。
「何の用だ」
「咲耶のことを、聞きに来た」
その瞬間、室内の空気が一変した。
虚空帝の指先が止まる。
「……昊夜の母のことか」
「ああ」
「なぜ、今更そんな話を」
「今だからだ」
虚空帝は答えない。日向は淡々と、しかし確実に言葉を重ねた。
「咲耶は地方豪族の出身だった」
「……知っている」
「三十年前に、滅ぼされた一族の娘だ」
「知っている」
「そして、その一族を滅ぼしたのは――お前の父、雷焔様だった」
虚空帝の目が、窓の外を向いたまま鋭く細くなった。
「……俺の父の話をしに来たのか」
「そうだ」
「やめろ」
だが、日向は一歩も引かなかった。
「咲耶は、雷焔様を心の底から憎んでいた。家族を奪われ、故郷を奪われ、すべてを奪われたのだから」
「知っている」
短い拒絶のような返答だった。
日向は少し間を置いた。
「……知っていたのか」
「なんとなく、分かっていたさ」
静かな声だった。すべてを諦めているような、あるいは、ずっと一人でその重荷を抱えてきたような響きがあった。
日向は虚空帝を見据えた。
「咲耶は雷焔様を毒殺した罪で、処刑された」
虚空帝は何も言わない。
日向は一拍置いて、核心を突いた。
「本当に、咲耶が雷焔様を殺したのか?」
虚空帝の瞳が、微かに揺れた。日向はそれ以上、その過去の真実について追及することはしなかった。
部屋に、重苦しい沈黙が落ちる。
やがて、日向がぽつりと言った。
「お前は、帝王学を学んでいないな」
唐突な言葉だった。虚空帝が、ここで初めて日向に視線を向けた。
「……なんだ、急に」
「謀反が起きる前、お前はただの末端の皇族に過ぎなかった。誰も、お前がこの国の帝になるとは思っていなかったはずだ」
虚空帝の目が、自嘲を帯びて少し揺れる。
「……ああ、俺自身もそう思っていたさ。自分がこの座に就くなどとはな」
「だからこそ、聞ける」
「何を」
「帝として何が正しいかじゃない。一人の人間として、何が正しいかだ」
虚空帝はしばらく黙っていたが、やがて、小さく息を吐く。
「……嫌なことを聞く」
「今更だろう」
「そうだな」
短く笑った。その笑みは、帝のものではなく、一人の男のものだった。
再び視線を窓へ戻した虚空帝が、ぽつりと呟く。
「俺は、この一年で一つだけ学んだ」
「なんだ」
「この国は、都合の悪い人間から消えていく。狄族も。如月も。飛燕も。……そして今は、桜桃か」
部屋に静寂が落ちる。虚空帝はゆっくりと日向へ向き直った。
「お前は、俺に何をさせたい」
日向は迷わなかった。
「桜桃様を解放しろ。処刑を止める詔を出せ」
「……それが、人として正しいと?」
「ああ」
日向は一歩も引かない。
「また真実を闇へ埋める気か。咲耶の時のように」
虚空帝の瞳が揺れた。
長い沈黙が流れる。
やがて虚空帝は静かに目を閉じた。
日向はそれを見届けると、踵を返して扉を開け、寝所を後にした。
引き止めようとする声は、聞こえなかった。
***
未散は、夜明け前から起きていた。窓際に座り、白んでくる空を見上げていた。
六花が、元皇女である桜桃だと知ってから、未散は数日もの間、その事実を頭の中で幾度も幾度も反芻していた。
六花が。あの大人しそうな、神祇官の娘が。
侍女として働く六花の姿を初めて目にした時から、ずっと喉の奥に小骨が引っかかっているような違和感があった。どこかで見たことがある。誰かに、酷く似ている、と。
それが誰なのか、どうしても思い出せなかったが、正体が明かされてようやくすべてが繋がった。
あの女だ。
先帝の皇后だった、あの憎き女。
かつて、あの女の姿を見るたびに、未散の胸は不快なざわつきを覚えた。
到底敵わないと、本能が察していたのだ。洗練された所作も、気品に満ちた言葉選びも、人を惹きつける天性の何かさえも。自分とはあまりにも、世界の階梯が違いすぎた。嫉妬することさえ惨めに思えるほどに。
だから、大嫌いだった。
そして。
同じように、咲耶のことも嫌いだった。
あの完璧な皇后とは違う。咲耶は決して、手の届かない遠い存在ではなかった。同じ宮にいて、同じ男を見つめて、同じ場所で睦まじく笑い合っていた。自分と地続きの場所にいるからこそ、余計に目障りで、嫌だった。
雷焔が死んだ時、誰が毒を盛って殺したのか、本当のところは誰にも分からなかった。
だが、咲耶にはあまりにも明確な動機があった。
一族を容赦なく滅ぼされた、生き残りの娘。誰もが彼女を疑った。未散もまた、真っ先に彼女を疑った。
いや、本当は、疑いたかっただけなのかもしれない。
実際に咲耶が手を下したのかどうか、そんな真実はどうでもよかった。けれど、咲耶が犯人であれば、自分にとってこれ以上なく都合がよかった。咲耶であってほしかったのだ。
だから、未散は何も言わなかった。無実を訴える彼女を、助けようともしなかった。
結果、咲耶は罪人として散った。
あの目障りな皇后も、やがて表舞台から消え去った。
血生臭い嵐が過ぎ去り、気がつけば、最後まで残っていたのは自分だけだった。
欲しくてたまらなかったものが、向こうから勝手に転がり込んできたのだ。
念願の、皇后の座。
ようやく手に入れた絶対的な場所。
あの時、自分はあの女たちに勝ったのだと、確かにそう確信していた。少なくとも、あの瞬間までは。
だからこそ、未散は権力を得ると同時に、後宮のあらゆる記録を閉ざした。あの女たちがここに存在していたという痕跡を、金汚い他人の目には触れさせたくなかった。
正史の記録の中にも、市井の噂の中にも、誰かのくだらない思い出の中にも。何一つとして、あの一族の残滓を残したくはなかった。
それなのに。
あの女の娘が、今になって幽霊のように目の前に現れた。
宮城にいる有象無象の視線が、一斉に桜桃へと向いていく。卑しい期待が向き、この国の未来までもがあの子へ向かおうとしている。
それはまるで、とっくに消し去ったはずのあの忌々しい女たちが、再びこの宮城へと舞い戻ってきたかのようだった。
咲耶。彼女は確かにその名のように美しく咲き誇ったけれど、散っていった。
あの皇后も、すべてを失って消えた。
けれど、自分は違う。
決して散らない。何が起きようと、散らずにこの地位まで這い上がってきたのだ。
今更。今更になって、あの小娘に、すべてを奪われてたまるものか。
***
日向と入れ替わるように、昊夜は虚空帝の寝所へと足を踏み入れた。
気配を察し、虚空帝がゆっくりと向き直る。
昊夜はその厳しい視線を受け止めながら、臣下の礼を執ることもせず、真っ直ぐに言い放った。
「処刑を止めてください」
「理由を言え」
「桜桃姫に科されている罪は、既に二つが晴れています」
虚空帝は一切の感情を排した顔で、黙って聞き続けている。
「一つ、狄族との婚姻を拒んだ件。これは狄族側が婚姻そのものを拒否したと証言が取れています。二つ、斎宮へ男を手引きした件。こちらも斎宮から話を聞きました。桜桃姫の関与は認められておりません」
「残るは」
「皇統を欺いた罪です」
昊夜は一度深く息をつき、言葉を重ねた。
「桜桃姫はあの八重御所の変で、命を狙われました」
「……」
「多くの皇族が殺される中、桜桃姫もまた、命を奪われる側にいたのです。だからこそ、生き延びるために身を隠さざるを得なかった」
昊夜は真っ直ぐに虚空帝の瞳を射抜いた。
「命を狙われ、生きるために身を隠していた。……それが、処刑の理由になりますか」
静寂が室内に落ちる。それでも虚空帝は表情を少しも変えない。
「……それだけか」
昊夜は首を振った。
「いいえ。そもそも、桜桃姫は加害者などではない。八重御所の変、如月殿の死亡、放たれた刺客、狄族の反乱、――そのすべての裏に、雲英の影があります。桜桃姫は、その仕組まれた陰謀の被害者なのです」
「証拠は」
「評定の間を使わせていただけるのであれば、そのすべてをお示しできます」
虚空帝はゆっくりと立ち上がり、重い足取りで窓際へと向かった。
「すでに銀牙殿が動いています」
昊夜は背中に向けて言葉を追う。
「白蔵家も、青陽家も、朱明家もです。四大貴族の連名による、再調査要求が既に提出されました」
「……それでも、貴族たちの暴走は止まらん」
虚空帝は静かに息を吐き出した。
「ここで俺が処刑を差し止める詔を出せば、俺の立場が揺らぐ」
「揺らぐかもしれません」
「お前は、それでもいいと言うのか」
「罪のない人間が死ぬよりは、遥かにいい」
虚空帝はしばらくの間、窓の外を見つめ続けていた。濃い紺色の空が、地平線から少しずつ白み始めている。
やがて、呟くように言った。
「……それは私情か」
昊夜は一瞬、言葉を詰まらせたが、すぐに視線を強くした。
「私情ではありません」
「本当か」
「命を狙われて逃げただけの者を罰する国が、正しい国だとは思いません。それは私情などではなく、この世の『真実』です」
虚空帝がゆっくりと振り返り、昊夜を見た。その瞳の奥には、確かな光があった。自らの問いに対して、一切の揺らぎのない答えが返ってきた時の顔だった。
しかし、虚空帝の口から出たのは、冷酷な現実だった。
「……お前は、桜桃姫の婚約者候補だったな」
昊夜の肩が、弾かれたように跳ねた。
「それが、今なにか関係あるのですか」
「分からんか。婚約者候補という立場にあるお前が彼女を擁護することは、律令により『婚約者の地位を利用した法の歪曲』となるぞ。お前がいくら私情ではないと主張したところで、周囲からは『私情』として見なされる」
昊夜は、何も言い返せなかった。
ただ苦虫を噛み潰したような顔のまま、拳を握りしめて黙り込むしかなかった。法の壁が、あまりにも重くのしかかる。
「もう、誰の力でも止められる空気ではないな」
虚空帝は再び窓の外へと目を向けた。
「俺一人では、動かせん」
その諦念を孕んだ言葉が、部屋に重く落ちた。
その時だった。
閉ざされた扉の外から、赤楊の緊迫した声が響いた。
「陛下、朝凪殿が……二官八省の長官立ち会いのもと、緊急の謁見を求めております」
昊夜は弾かれたように扉のほうを見た。
「朝凪が、か」
「はい。急ぎで、とのことです」
昊夜の目が鋭く細くなった。
なぜ、この切迫した夜明け前に朝凪がここへ来る。直接帝への謁見を求めるなど、ただ事ではない。
何かがある。
「……通せ」
虚空帝の静かな声が、室内に響いた。
その一言を受け、赤楊は二官八省の長官たちへ急ぎ召集をかけた。




