第十二話 元近衛中将、近衛を去る
牢の中が、静まり返った。
刹那はしばらくの間、何も言わなかった。しばらく桜桃を見つめ、やがて、低い声で問いかける。
「……本気で言ってるのか」
桜桃は静かに、けれど真っ直ぐに頷いた。
「外の声が聞こえたの。私を担ぐ人がいる。昊夜様を担ぐ人がいる。このままではまた、争いになるって」
膝の上で強く握りしめた指先に、一段と力がこもる。
「因州も、羽州も、武州も……ようやく前を向き始めたばかりなのに。私のせいで、また多くの血が流れるというのなら。……昊夜様がかつて言っていたことが、ようやく分かったの。一人の命を切り捨てて、百人の命を救う。……あの方は、ずっとその耐え難い苦しさを一人で背負っていたのね」
刹那は痛みに耐えるように目を閉じた。そして、深く、長く息を吐き出す。
「朝凪には、その話を言ったのか」
桜桃は少しだけ、困ったように眉を下げて笑った。
「朝凪に、こんなこと言えるわけないでしょう? 言ったらすごく怒るもの。だから……刹那にしか、言えない」
刹那は即座に言葉を返した。
「悪いが、俺だって怒るぞ」
桜桃は不意を突かれたように少し驚き、それから、本当に困ったように笑ってみせた。
「そうよね」
「当たり前だ」
刹那はこれ以上ないほど苦しげに声を絞り出した。
「そんな言葉、昊夜に伝えられるわけねぇだろ」
「……分かってる。でも、あなたも言ってたでしょう? 昊夜様の、大を救うために小を切り捨てるやり方は、決して間違いじゃないって」
刹那は言葉を失い、喉を詰まらせた。
桜桃はどこまでも静かに、自らの覚悟を諭すように続けた。
「私も、今は本当にそう思うの」
「……」
「もしそれしか、誰も血を流さずに済む道がないのなら。お願い、刹那。昊夜様に伝えて。私は、受け入れます、と」
刹那は、胸が張り裂けんばかりに、深く、深く息を吐き出した。
「……本気なんだな」
「ええ」
桜桃のまっすぐな眼差しを見て、刹那は拳を強く握りしめたまま、彼はしばらくの間、その場から動くことができなかった。
「……でも」
桜桃はそこで一度言葉を切った。
膝の上で固く握りしめていた指が、ほんの少しだけ緩む。
そして、刹那だけに届くほどの小さな声で、その続きを告げた。
黙って聞いていた刹那は、やがて、長く息を吐き出すと、これまでの苦しげな表情をようやく緩めた。
「……分かった」
それからこれ以上ないほどの優しい顔で笑った。
「昊夜に伝えてやるよ。そのときは、朝凪にも昊夜にも邪魔はさせない。それが姫の望みなら、俺がこの国を割らさないようにしてやるよ」
桜桃は心から安堵したように、笑顔を浮かべた。
***
吹き荒れる夜風が低く鳴り響く中、朝凪は回廊を歩いた。
朝凪には、今夜、自分の手で区切りをつけなければならないことがあった。
南の外門に着いたのは、夜更けだった。
微かに明かりの灯る詰所の中に、見知った顔がある。当番の門兵だった。朝凪が門番に身をやつしていた頃に、何度か組んだことのある男だった。
男は朝凪の姿に気づいて、怪訝そうに眉を上げた。
「……お前、こんな時間に何してるんだ」
「辞めます」
「は?」
朝凪は懐から、几帳面に折り畳んだ数枚の紙を取り出した。
「引き継ぎを書きました。外門の鍵の保管場所と、交代時の確認手順。あとは頼みます」
男は呆気にとられながらその紙を受け取り、朝凪の顔をまじまじと見つめた。
「……随分と急だな」
「ええ」
兵は少しの間を置いた。それから、宮城を騒がせている噂を思い出したように言った。
「あの侍女さん……捕まったんだってな」
朝凪は答えなかった。
「……あんた、ずっと見てたよな」
「見ていません」
「見てたよ。毎日、あの子が通るたびに」
「仕事です。周囲の警戒を怠らなかっただけです」
「門番の警戒対象に、侍女は含まれないだろ」
朝凪はやはり答えなかった。
門兵は観念したように、折り畳んだ紙を懐に収めた。
「そもそもお前、正式に任命もされてなかっただろ」
「はい」
「なのに、わざわざ引き継ぎまで書いてくるのか」
「性格ですので」
「生真面目すぎるんだよ、お前は」
門兵は呆れたように笑い、頭を掻いた。
「じゃあまあ、退官扱いにしとくわ」
唐突な言葉に、朝凪はわずかに眉を動かす。
「……元々、名簿に名前もありませんので」
「いや、あるぞ」
「……え?」
「朝凪中将。休職扱いになってたぞ」
朝凪は思わず門兵の顔を見た。
「……気づいていたのですか」
「元近衛中将が門に立ってりゃ、そりゃ気づくだろ。何も言わなかっただけだ」
門兵は呆れたように笑った。
「まぁ、他の奴らはどうだか知らねぇがな」
朝凪は返す言葉を失った。
自分では、ただの門兵として紛れ込んでいたつもりだった。誰にも知られず、桜桃を見守るために。
「……休職扱い、ですか」
「ああ。昊夜様の指示らしい」
近衛中将は、あの夜に終わったものだと思っていた。自分は勝手に門へ立ち、独り桜桃を見守っていただけだと。名など、とっくに消えているものだとばかり考えていた。
だが、昊夜はその名を残していた。
「……そうでしたか」
「まあ、今さらだけどな」
「ええ。……今さらです」
朝凪は小さく笑い、深く一礼した。
「お世話になりました」
「……おう」
朝凪は静かに歩き出した。暗闇へ溶けていくその背中は、いつもと何一つ変わらない。
それでも門兵は、不思議と分かってしまった。
あれは、もう二度と近衛へ戻らない男の背中だった。
「……気をつけろよ」
背中越しに響いた声に、朝凪は答えなかった。
***
宮城は未だ深い闇に包まれている。
それでも執務室は、煌々と灯された火が消えていなかった。山のように積まれた書、乱雑に広げられた地図、夜通し誰かが激しく出入りしていた痕跡が、室内の緊迫感を物語っている。
昊夜は机に向かったまま、一枚の書を凝視していた。まともに眠っていないその顔には、隠しきれない色濃い疲労が刻まれている。
その時、襖が乱暴に開け放たれた。
「入るぞ」
「……刹那か」
返事を待つこともなく、刹那は荒々しい足取りで入ってきた。昊夜は手元の書からゆっくりと目を上げた。
「姫に会ってきた」
短く、ぶっきらぼうに告げる。
昊夜の表情が変わった。
「どうだった」
刹那はすぐに答えなかった。ただ黙ったまま、鋭い視線で昊夜を見つめている。
「……何があった」
昊夜が一段と低い声で問う。
刹那は心の奥の澱みを吐き出すように、大きく息を吐いた。
「姫が、お前に伝えてくれってよ」
「何をだ」
昊夜が弾かれたように立ち上がる。
刹那は苦渋を滲ませた顔のまま、搾り出すように言った。
「もし、自分をこのまま処刑することで、この国が二つに割れずに済むのなら受け入れる、ってさ」
重たい沈黙が、一瞬にして部屋を支配した。昊夜の瞳が、凍りついたように止まる。
「……そうか」
その声の響きは、いつもよりずっと重かった。
「外の噂を聞いたらしい。自分を担ぎ出す奴と、お前を支持する奴のせいで、また国が割れて争いになる。だから……あいつ、お前が言っていたことが、やっと分かったって言ったんだ」
刹那は拳を強く握りしめた。
昊夜は何も言わなかった。ただ、静かに、痛みに耐えるように目を閉じる。
「一人の命を斬って、百人の命を救う。……お前、姫にまで……そんなこと、背負わせてんじゃねぇよ」
昊夜は否定しなかった。否定できる資格など、今の自分にはないことを誰よりも分かっていたからだ。長い、重苦しい沈黙が二人の間に流れる。
やがて、刹那は堪えかねたように視線を逸らし、小さく舌打ちをした。
「……ただ、あいつ、『それしか道がないのなら』って言ったんだ」
昊夜がゆっくりと顔を上げる。
刹那は、噛み締めるように言葉を続けた。
「暴動になんてさせなければいい。……国を割らせないための、別の道が、必ずあるはずだって」
二人とも動かなかった。夜明け前の、肌を刺すような冷たい空気が部屋を満たしていた。
昊夜は静かに目を伏せた。桜桃が残したその言葉だけが、消えない楔のように深く沈んでいった。
やがて、昊夜は力強く目を開けた。
迷いを振り払うように立ち上がり、強い決意を宿した瞳で、まっすぐ前を見据え、執務室を後にした。
***
朝凪は一度、自宅へ戻った。
部屋の隅に置かれた長持の蓋を開く。
奥にしまわれていたのは、濃灰の近衛の上衣だった。埃一つ積もっていない。再び着ることはないと思いながらも、手入れだけは欠かさなかったものだ。
静かに袖を通す。肩へ馴染む重みは、一年前と何も変わらない。朝凪は一度だけ目を閉じ、深く息を吐き出すと、腰に刀を差した。
向かうは近衛府。
とうに近衛ではなくなったつもりでいた。
たとえ除名されてようと、いずれは自分の手で区切りをつけなければならないと思っていた。
それでも、今日まで先延ばしにしてきた。戻るつもりなど、なかったはずなのに。
朝凪は見慣れた回廊を静かに歩いた。
たどり着いたのは、かつて自分が使っていた執務室だった。
八重御所の変以降、一度も足を踏み入れていない。
今夜こそ、その区切りをつけなくてはならない。
静かに襖を開ける。
そこは今や、近衛中将である昊夜の執務室になっている。
かつて几帳面に整えられていた机は、今では書状や稟議書が幾重にも積み重なり、机の端から今にも崩れ落ちそうになっている。
思わず苦笑が漏れた。
「……らしいな」
机の脇に、見覚えのある帳面が置かれている。
朝凪は一瞬だけ視線を向けたが、手に取ることはしなかった。
そして、積み上げられた書類を崩さないよう机の端へそっと辞表を置いた。
指先が襟元へ伸びる。そこには、中将の証である二輪の桜章が、静かな光を放っていた。
近衛として積み重ねてきた歳月が、この小さな紋章に刻まれている。近衛を去るということは、この誇り高き桜を、自らの手で剥ぎ取るということだった。
朝凪はその桜を、焼き付けるようにじっと見つめた。
やがて、静かに留め具を外す。小さな音とともに、桜が制服から離れた。
手のひらに載せた桜章は驚くほど軽かった。だが朝凪には、この国で何よりも重い勲章のように思えた。
彼は上衣を丁寧に畳んで机の脇に置き、その隣に官印を添えた。
もう近衛ではないと言いながら、こうして桜章を外すまで自分はまだ何ひとつ返していなかった。
朝凪は手の中の二輪の桜を見つめ、静かに懐へ収めた。
今度こそ、自分の意思で近衛を去る。
「……失礼いたします」
深く一礼し、踵を返す。
これから自分がしようとしていることは、桜桃を護るためだ。
迷いはなかった。
だが――。
不意に、古い記憶がよぎった。
『朝凪』
そう呼ばれて、振り返れば 桜桃が笑っていた。
それだけの記憶だった。
何年前のことだったのかも、思い出せない。
朝凪は静かに目を伏せる。
暗闇に消えていく自分の足音を聞きながら、まるで、自分の何かが静かに終わっていくような、そんな気がしていた。
朝凪は、そのまま宮内省へと足を向けた。
宮内卿の赤楊は、姿を見せた朝凪の顔を見て、目を見開いた。
朝凪は先ほど書き上げた文書を、一切の迷いなく差し出す。
「正式に、願い出ます」
赤楊はしばらく紙を眺めた。
それから朝凪の顔に視線を動かし、そして、もう一度紙を見た。
朝凪が静かに、だが強い圧をもって告げる。
「急いでください」
その重みに呑まれるように、赤楊はその文書をしっかりと握りしめると、一礼するやいなや、慌てて回廊へと駆け出した。
***
夜開け前。桜桃は死装束である白い衣を着せられ、手首に冷たい枷をはめられた。
侍女が無言のまま、震える手でその衣の乱れを整えていく。その沈黙のなかでも、桜桃は決して俯かなかった。ただじっと、格子窓の外を見つめていた。
地平線の彼方から、空が白々と明けていく。
まぶたの裏に、あの薄暗い離宮で聞いた母の言葉が鮮明に蘇る。
『お父様は変えきれなかった。でも、最後まで決して諦めなかったわ』
桜桃は静かに、深く息を吸い込んだ。
『変えます』
自分が母の前で口にした、あの偽りのない言葉だけを、消えない灯火のように胸の奥底へと据え置いた。
「時間です。参ります」
迎えの武官が、感情を排した短い声で告げた。
桜桃は毅然と頷いた。
「はい」
ゆっくりと歩き出す。
牢の廊下は、今日に限ってひどく長く感じられた。一歩進むたびに、鉄の枷が容赦なく手首の肌に食い込んでいく。
冷たく、重い。
それでも、桜桃は一度だって足を止めようとはしなかった。
やがて牢を出ると、一台の輿が静かに据えられていた。
飾り気のない黒漆の輿だった。
四方には刑部の役人が控え、その外側を衛兵たちが無言で取り囲んでいる。
「……お乗りください」
役人の静かな声が響いた。桜桃は一度だけ空を見上げた。
夜明けの淡い光が、宮城の屋根を白く照らし始めている。
その光を胸に刻むように見つめると、桜桃は静かに輿へ足を掛けた。
身を収めると、黒い御簾がゆっくりと下ろされる。
外の景色は細い隙間からしか見えない。
「出せ」
短い号令とともに、輿がゆっくりと持ち上がった。




