第十一話 皇女、受け入れる
桜桃が離宮の扉を開けると、自分を待つ衛兵たちが立ち並んでいた。
「明朝処刑が決まりましたので、牢へお戻りいただきます」
桜桃はの体が硬直した。動かなかった。いや、動かせなかった、と言う方が正しかった。
──決まった。
その言葉が冷たく胸へ落ちていく。
重い音を立てて、背後の扉が静かに閉まる。
牢へ向かう途中のざわめきの質が、数日前とは明らかに違っていた。
落ち着きのない、慌ただしい足音が急激に増えていく。
廊下を駆け抜けていく緊迫した声。短い叫びとなって響く、何らかの命令。
どこかで乱雑に書類が落ちた、乾いた音が室内にまで聞こえてきた。
桜桃は思わず足を止めた。だが、衛兵に鋭く促され、再び歩き出す。
すれ違いざま、行き交う者たちの小さな囁きが、耳に滑り込んできた。
「桜桃姫を推す者が、裏で集まっているらしい」
「昊夜殿下を支持する者たちも、このまま黙ってはおるまい」
「このままでは国が割れるぞ……」
桜桃の足が、再びぴたりと止まった。
「歩け」
衛兵に冷たく促される。
桜桃は歩き出したが、その耳だけは、今聞いた言葉からどうしても離れられなかった。
──国が割れる。
母は、桜桃なら「変えられる」と言ってくれた。
なのに、自分がただ表舞台に現れたというそれだけで、この国は真っ二つに割れようとしているというのか。
息がにわかに浅くなった。
あの異常なざわめきは、自らの処刑が正式に決まったからなのか。それとも……もうすでに、どこかで誰かが剣を抜いてしまったからなのか。
分からない。何も分からないということが、今は一番怖かった。
もし、もう宮城の外で本格的な争いが始まっているのだとしたら。もし、因州や武州で嫌というほど見てきたあの血生臭い光景が、今度はこの帝都で繰り返されようとしているのだとしたら。
その引き金を引いた理由は――他でもない、桜桃自身だ。
桜桃は強く目を閉じた。
記憶の底から、父・星河帝の声が、ふと浮かび上がってきた。
『残せ』
あの紅蓮の炎に包まれた夜、父が遺した最期の声だった。
残すのだ、とあの時は強く思った。
それなのに、今や自分自身が、国を焼き尽くしかねない最大の火種になっている。
胸が引き裂かれそうに締め付けられた。
朝凪が牢へやって来て言った言葉を思い出す。
『必ずここから出します』
その声には、いささかの迷いもなかった。
けれど、桜桃は、深い迷いへと突き落とされた。
――私は本当に、ここから外へ出てもいいのだろうか。
***
刑場は、まだ静かだった。
夜更けの深い闇の中、風に揺れる松明の火だけが赤々と周囲を照らしている。
刹那は、その不気味な明かりを目指して、引き寄せられるように歩いた。
近づくにつれて、夜の静寂を切り裂くような、木を打つ荒い音が響いてきた。
小気味悪く響く槌の音。板を運ぶ作業の足音。職人たちが一言も交わさず、黙々と作業を続けている。
広場の中央には、不気味な骨組みが立ち上がりつつあった。まだ半分ほどしか組み上がっていない。それでも、それが夜明けに何のためのものとして完成するかは、誰の目にも明らかだった。
石畳の上に組まれる、一段高い処刑台。その中央には、冷厳にそびえる断頭台が設置されようとしていた。
刹那は、その台座をじっと見据えた。
そこへ据えられるであろう重い刃が、すでに木箱に収められた状態で壇の片隅に置かれている。
罪人の首を、一刀のもとに、そして無慈悲に断ち切るための冷たい鉄だった。
広場の周りには、すでに厳重な警備の兵が配置されていた。さらにそれだけでなく、明朝の処刑を一目見ようと、早くも場所取りを始めている民たちの姿まであった。
火の灯りの下、何人かが身を寄せ合って小声で囁き交わしている。
「明日だってな」
「噂は本当だったか」
刹那は、その生々しい声を聞いた。
不意に、足が止まった。
(――本当に、殺すのか)
分かっていたはずだった。決まったと報せを聞いた時から、その覚悟はしていたはずだった。
それでも、頭の中で理屈として理解することと、目の前で実際に組み上がっていく死の骨組みを見ることは、全く意味が違っていた。
刀、警備、そしてそれを囲む群衆。そのすべてが、残酷な一枚の絵となって、初めて刹那の現実の中に押し寄せてきた。
これは、本当に起きる。明日の朝、この場所で、桜桃に執行されるのだ。
刹那は、痛いほど拳を握りしめた。
「……ふざけるな」
重い声が、漏れた。
その怒りが誰に向けられたものなのか、自分でも分からなかった。
身勝手な貴族にか、理不尽な法にか。それとも、目の前でただ立ち尽くすことしかできない、無力な自分自身にか。
護ってやる――何度も、そう言ったはずだった。
白砂で、蘇原で、あの廃寺で、あの濃い霧の中で。姫を守ることこそが自分の役目だ、と何一つ迷うことなく、そう言い切った。
なのに、今。
刹那は、刻一刻と形を成していく断頭台の骨組みを見つめていることしかできなかった。
今ここで刀を抜いて斬りかかれば、たちまち大勢の兵に取り押さえられて終わる。自分一人の武勇で、どうにかできる局面ではなかった。
貴族でもない、文官でもない、近衛でもない。今の刹那には、何の肩書きもなかった。
肩書きがなければ、朝廷の評議に入ることも叶わない。理不尽を叫ぶ場所さえ与えられないのだ。剣の腕がいくら傑出していても、この仕組みそのものを止める力には、どうしてもならなかった。
(俺は、今まで何をしてたんだ)
その問いが、激しい後悔とともに何度も頭の中で繰り返された。
自分はただ、朝凪に言われるがまま彪に手紙を書き、持ってきてもらった告発状を昊夜に届けただけだ。
朝凪も昊夜も、ここ何日も眠らずに動き回っている。
あの二人は、剣以外の場所で、それぞれの命を削って戦っているのだ。
それは刹那には、逆立ちしてもできない戦い方だった。
あの二人が、これまでどれだけの重圧と責任を背負って彼女を守ろうとしてきたか、刹那は生まれて初めて、皮膚に刺さるような実感として理解した。
刹那は、もう一度、高く組まれていく梁を見上げた。
槌の音は、まだ止まらない。乾いた板が、また一枚、職人の手によって運ばれていく。
(――絶対に、死なせない)
あの霧の中で彼女に誓った言葉が、熱い血の巡りとともに戻ってくる。
無事に送り届けてやる、と言った。その約束は、まだ終わっていない。
刹那は激しく踵を返した。
冷たい夜気の中、職人たちが打ち鳴らす槌の音が、いつまでもその背中で響き続けていた。
***
刹那は静まり返った宮城の廊下を歩いていた。
目当ての人間は、すぐに見つかった。朝凪だ。
人気のない廊下の端、微かな灯火の下で、朝凪はひたすら筆を走らせていた。
足音を立てて近づく。朝凪はその気配に気づいていたはずだったが、手元の紙面から頑なに顔を上げようとはしない。
「明日だ」
刹那が、冷徹な事実だけを告げた。
「知っている」
「間に合うのか」
朝凪は答えなかった。
刹那はその沈黙に、言葉にできない奇妙な違和感を覚える。いつもなら、朝凪はどれほど不機嫌であっても、問われれば一言なりとも返す男だ。
短く突き放すにせよ、何かしらの反論がある。それが、全く返ってこない。
刹那は不審に思い、朝凪の横顔をじっと覗き込んだ。
表情そのものは変わっていない。だが、その目が決定的に違っていた。
――焦っている。
朝凪がここまで余裕を失い、剥き出しの焦燥を宿している顔を、刹那は生まれて初めて見た。
誰もいない暗い廊下で、ただ一人で文書を書き綴りながら、その激しい感情が隠しようもなく滲み出ている。制御しようとして、どうしても制御しきれていない。
それほどまでに、この男は追い詰められているのだ。
「……どうするんだ」
朝凪の手がぴたりと止まる。
「どうするも何もない」
「いや、お前――」
「見て分からないか」
朝凪は初めて、ゆっくりと顔を上げた。
その双眸には、焦燥と、すべてを賭した覚悟だけが宿っている。
「時間がないんだ」
その一言に、刹那は言葉を飲んだ。
朝凪は書き上げた紙を素早く畳み、懐へ押し込むと、音を立てて立ち上がる。
「今は話している暇がない」
刹那はその横顔を見つめ、小さく、しかし深く息を吐き出した。
「……悪かった」
朝凪の戦い方を止める気などない。ただ、限界まで引き絞られた弦のようになっているこの男の背中に、刹那は静かに声をかけた。
「朝凪。姫は、大丈夫だ」
朝凪の足が、その場に釘付けにされたように止まる。
「絶対に死なせやしない。俺が保証する」
「……根拠は」
「俺が傍にいる。何があっても、絶対に守り抜く」
朝凪は、しばらくそこから一歩も動かなかった。
やがて、胸の内でせき止められていた熱い息を、ゆっくりと、深く吐き出す。
「……そうか」
「ああ」
再び、二人の間に静寂が落ちる。
冷たい夜風が石造りの廊下を吹き抜け、壁の灯火を大きく揺らした。
不思議と、さっきまで張り詰めていた朝凪の肩の力が、ほんのわずかに緩んでいた。
刹那はその確かな変化を、黙って見届ける。
やがて、朝凪は顔を伏せたまま、かすれた声で呟いた。
「……行け」
「なんでだよ」
「姫様の傍にいると、たった今自分で言っただろう」
刹那は少し間を置いてから、自嘲気味に小さく笑った。
「そうだな」
踵を返し、暗い廊下を歩き出す。
数歩ほど進んだところで、振り返ることもせず、背中越しにぶっきらぼうに言い放った。
「絶対に間に合わせろよ、朝凪」
朝凪は答えなかった。
ただ一歩、未来を引き寄せるように力強く踏み出す。
二人の男の足音が、静かな廊下の向こうへとそれぞれの戦場へ向けて消えていった。
***
夜明け前。また見慣れた石壁。また冷たい鉄の枷。また高窓からのぞく、心細く細い光。
何もかもが変わらない牢獄へ、桜桃はまた戻ってきた。寝台に腰掛けたまま、静かにその時を待つ。
その時、静まり返った廊下から、足音が響いた。
どこか軽くて、乱暴な、聞き慣れた足音。
金属が擦れ合う鍵の音とともに、重い鉄扉が開いた。
「よう」
入ってきたのは、刹那だった。
桜桃はゆっくりと目を上げた。刹那はいつものように、どこか飄々とした、何でもないような顔をして立っていた。
だが、桜桃はすぐに気づいた。壁に背を預けようとした彼のその手が、震えていることに。
刹那は壁に寄りかかり、腕を組んで桜桃を見下ろした。
「顔色悪いな」
「……刹那も人のことは言えないわ」
刹那は少し黙り込んだ。それから、わざと退屈そうに、どうでもいいことを告げるような口調で言った。
「昊夜も朝凪も、裏で必死に動いてる」
桜桃は刹那の瞳を見つめた。
「うん」
「だから、余計な心配なんてすんな」
「……心配なんてしてない」
「嘘つけ」
桜桃はきまずそうに、少しだけ目を逸らした。
「……ほんの少し、しているかもしれない」
「正直でよろしい」
刹那は口の端を小さく上げて笑うと、壁に背を預けたまま天井を見上げた。
「あいつらが動いてるんだ。大丈夫だろ」
「……うん」
「あの二人が本気になったら、何があっても止まらない。お前も知ってるだろ」
「ええ、知ってる」
桜桃は小さく微笑んだ。
刹那はしばらく黙っていた。天井の一点を見つめたまま、微動だにしない。
やがて、押し殺したような声で言った。
「まあ……もし、あいつらが間に合わなかったとしても、俺が全部ぶち壊して、お前を連れて逃げてやる」
桜桃が息を呑んで刹那を見た。刹那はまだ、天井を見つめたままだった。
「……どうやって?」
「さあな」
「無茶でしょう」
「まあな」
「すぐに捕まるわよ」
「捕まる前に、遠くまで逃がせばいいだけだ」
淡々と言い放った。だがその横顔は、本当にその無茶をやり遂げかねない狂気を孕んでいた。
桜桃はしばらく刹那を見つめていた。その荒削りな優しさに、胸がじわりと温かくなっていく。
「……ありがとう」
「礼なんていらん」
「でも、言いたいの」
刹那は少しだけ間を置いた。それから、静かに、優しく言葉を返した。
「……だったら、気の済むまで言えばいい」
桜桃は小さく笑った。さっきまで強張っていた心が、少しだけ、本当に少しだけ解き放たれた気がした。
「刹那」
「……どうした」
桜桃はしばらく黙り込んだ。大切な言葉を一つひとつ選ぶように、静かに目を伏せる。
やがて、覚悟を決めたように小さく口を開いた。
「お願いがあるの。昊夜様に、伝えてほしいことがあるの」
刹那が不審そうに眉を上げた。
「なんだ」
桜桃は深く、静かに息を吸い込んだ。少しだけ、声が震えた。
「……もし、私を処刑することで、この国が割れずに済むのなら、私は、それを大人しく受け入れます」
刹那の表情が、凍りついたように止まった。




