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狂桜華《きょうおうか》~亡国の姫は、名を捨て帝を目指す~  作者: 澪
第六章 桜桃という名の罪【皇女断罪編】

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第十話 皇女、処断決まる

 白蔵家の天澄の屋敷に、銀牙が現れたのは夕刻のことだった。


 取り次ぎの者が血相を変え、慌てて彪のところへ走ってきた。


「玄英家の当主が、お見えになっております」


 彪は少し間を置いた。


「通せ」


 客間で待っていた銀牙は、彪が入ってきても立ち上がろうとはしなかった。座ったまま、静かに彪の姿を視線で捉える。


 彪もまた、銀牙を真っ直ぐに見据えた。


 どちらも、すぐには口を開かなかった。四大貴族の当主同士が顔を合わせれば、普段なら腹の探り合いから始まるのが常だ。だが、今日は違っていた。


「来ていたのか」


 彪が先に沈黙を破った。


「お前こそ」


「急いだのでな」


「俺も急いだ」


 二人は向かい合って座した。


 茶が運ばれてくる。だが、どちらもそれに手をつけようとはしない。


 先に銀牙が口を開いた。


「琥珀を連れてきたと聞いたぞ」


「ああ」


「チビ助は元気か」


「元気だ。相変わらず口が悪い」


「俺に似たんだな」


「お前には似ていない」


 銀牙は卓上の茶へ手を伸ばしかけ、ふと思い出したように彪を見る。


「チビ助と桜桃の婚姻は、日向殿の策か」


「最初の策は、婚姻ではなかったがな」


 銀牙の手が止まった。


「違うのか」


「琥珀を狄族へ返し、神祇官を一人遣わせる。それを足掛かりに和平の話を進める。日向殿が持ちかけたのは、そこまでだ」


「では、婚姻は」


「族長だ。日向殿にも言わず、いきなり朝廷へ要求を突きつけたらしい」


「……だが、日向殿は止めなかったんだろう」


「そうだな」


「随分な博打に付き合わされたな」


「否定はしない」


「元皇女を素性も明かさず神祇官として狄族に送るとは。外せば戦になることくらい、分かっていただろうに」


「……族長が動いたらしいな」


「ああ。おかげで国境沿いの兵を動かす羽目になった」


 彪は驚いたように目を見開いた。


「備州まで来たのか」


「越境はしてない。だが、あれだけの軍勢が国境へ向かってくれば、こちらだけ平然としているわけにもいかん」


「それは……災難だったな」


「誰のせいだと思っている」


「私ではない」


 銀牙は苦々しく顔を歪める。


「で、つい先ほど報せが入った。狄族の軍勢は帝都へ向けて進んでいたが、進軍を止めたそうだ」


「止めたのか」


「日向殿がな」


「……よく斬られなかったな」


「まったくだ」


 銀牙はようやく茶へ手を伸ばし、深く息を吐いた。


「博打というより、もはや己の命を賭け金にしているな」


「昔からそういう男だ」


「知っている。だから質が悪い」


 銀牙は茶を一口飲み、眉間の皺を深くした。


「本人だけが賭け金なら、まだ好きにすればいい。毎度、周囲まで盤上に乗せる」


 彪は呆れたように笑った。銀牙は笑わなかったが、その声音は和らいでいた。


 普段、二人の間にはもっと棘がある。互いの家の利害が、いつも微妙にぶつかり合っているからだ。だが、今日は流れる空気が違っていた。


 彪が、緊張の走る部屋の空気を断ち切るように本題を切り出した。


「四大貴族の連名で、議決に待ったをかける」


「そのつもりでここへ来た。玄英の名は、もちろん出す」


 銀牙は鋭い眼差しで彪を見据える。


「青陽は」


「清明殿経由で動かす」


「朱明は」


「日和に頼む」


「日和が動くか」


「動く理由がある」


「六花の件か」


 彪は静かに、深く頷いた。

 銀牙が腕を組みながら言う。


「……六花が自らの命をかけて守り抜いた相手を、みすみす見殺しにはできん、ということか」


「そういうことだ」


 銀牙は小さく、しかし重みのある息を吐き出す。


「日和は、強い女だな」


「そうだな」


「自分の姪の死を知ったばかりだというのに、受け入れる暇もない」


「受け入れるのではない」


 彪は静かに、だが決して揺るぎない口調で言い放った。


「六花の意志を継ぐのだ」


 銀牙は黙って彪を見つめた。その言葉の持つ重みが、しばらくの間静まり返った客間に漂い続ける。


 やがて銀牙は卓の上の茶を手に取り、静かに一口含むと、小さく呟いた。


「お前が桜桃を助けようとするのは意外だな」


「……私情で肩入れしているわけではない」


「そうか?」


「桜桃姫を処刑すれば、この国は罪人ではない者が消される国だと証明される。それだけだ」


 銀牙は鼻を鳴らし、笑った。


「相変わらず、回りくどい男だ」


 彪は答えず、じっと銀牙の顔を見据えた。

 普段の飄々とした、どこか掴みどころのない面影はない。今の銀牙の横顔には、隠しようのない真摯さが宿っていた。


「……お前こそ、素直に言えばいいものを」


 彪の静かな指摘に、銀牙の動きが止まる。


「何がだ」


「姪御を助けたいのだろう」


 銀牙は答えようとしない。彪は追撃するように言葉を継いだ。


「桜桃姫の母は、お前の姉だろ」


 銀牙はふっと視線を外し、窓の外へと目を向けた。橙色に染まっていた夕空が、ゆっくりと深い闇に呑まれていく。


「姉は今も、離宮に幽閉されている」


 それは、ひどく静かな声だった。彪は少し間を置いてから尋ねる。


「……出られないのか」


「出ようとしていない」


「なぜだ」


 銀牙はしばらく答えなかったが、やがて、窓の向こうの暗闇を見つめたまま、ぽつりと言葉を零した。


「玄英家を、中央の権力争いから遠ざけるためだ」


「……」


「星河様は、姉を深く愛しておられた。だからこそ、周囲はそれを恐れたのだ」


 彪は黙ってその言葉を受け止める。


「政略のために無理に迎えられた妃ではなかった。四大貴族の娘でありながら、星河様ご自身が心から望んで迎えられた方だったからな」


「それが、なぜ問題になる」


「問題になるさ」


 銀牙は冷ややかに笑う。


「人は、偏愛された者を恐れる」


「……」


「姉が望めば、星河様は耳を傾ける。姉が頼めば、玄英家は特別に優遇される。姉が我が子のために動けば、その子はあまりにも強大な後ろ盾を得る。つまり――」


「玄英家が、皇統そのものに手を伸ばしたと、周囲に邪推されたわけか」


 夕日が、銀牙の横顔を寂しげに照らし出す。


「事実かどうかなど関係ない。そう見られること自体が、当時の朝廷では決定的な毒だった。だから姉は、自ら望んで離宮へ移ったんだ」


「そうか……」


「玄英家もまた、それに応じて中央から退いた」


 銀牙は自嘲気味に、苦く唇を歪める。


「姉が再び表舞台に出れば、また同じ疑いの目が向けられる。だからあそこに残り続けた。星河様のために。桜桃のために……そして、一族である玄英家のためにな」


 銀牙は視線を正面へと戻し、まっすぐに彪を見た。


「俺は、何もできなかった。姉を守るつもりでいながら、結局は何も救えなかったんだ」


 彪はしばらく銀牙を見つめていたが、それ以上の詮索はしなかった。


「その姉の娘が処刑されそうになっていると聞いて、居ても立ってもいられなくなった……それだけだ。素直じゃないのは、自分でも分かっている」


「知っている」


「理由はそれだけだ」


「それで十分だ」


 二人はしばらくの間、言葉もなく夕暮れの空を共有していた。

 やがて、彪が静かに、呟くように口を開く。


「私はお前が嫌いだ」


「知ってる」


「だが今回は」


 銀牙が再び彪を見る。その瞳の奥には、確かな決意を宿していた。


「一致団結するしかなさそうだな」


「……仕方ない」


 銀牙は少しの間を置いてから、小さく頷いた。

 その瞳の奥には、二度と揺らぐことのない、鋭い光が灯っていた。


 ***


 桜桃は母と離宮で過ごしている間、母の言葉を胸の中で何度も繰り返していた。


 ──いつか、誰かが変えると。


 風が鳴った。高窓から差し込む一筋の光が、小さく揺れている。


 桜桃は静かに口を開いた。


「……私は、変えられるかしら」


 声が、思ったよりも小さく響いた。誰かへの問いかけというよりは、独り言に近かった。


 母はまっすぐ桜桃を見た。すぐには答えなかった。急かすわけでも、否定するわけでもなく、ただその覚悟を測るようにじっと見つめていた。


 桜桃は言葉を紡ぎ続けた。


「お父様でも変えられなかった。帝であっても、変えきれなかった。なのに私が……皇女としてまともに生きることすらできなかった私が、本当に変えられるとは、どうしても思えなくて」


 言葉にしてしまってから、桜桃は思わず唇を噛んだ。


 あまりにも弱いことを言った、と後悔した。こんな場所で、こんな形でようやく再会できたというのに。弱音を吐くつもりなんてなかったのだ。


 なのに、母の前ではどうしても堰き止められなかった。


 母はしばらくの間、黙っていた。文机の上に置かれた湯呑みを、静かに見ている。やがて、ゆっくりと桜桃へ視線を戻した。


「あなたはね、お父様と、同じところがあるわ」


 桜桃が顔を上げると、母は桜桃を見つめた。


「人を見るのよ。血筋ではなく。立場でもなく。その人そのものの本質をね。六花として生きていた時も、ずっとそうだったでしょう?」


 桜桃は思わず息を呑んだ。胸が激しく震える。


「……どうしてそれを」


 この人は、一体どこまで知っているのだろう。この閉ざされた場所から、今まで何を見つめてきたのだろうか。


「弟から時々文が届くのよ」


「銀牙叔父様が……」


 母は穏やかに笑うと、言葉を続けた。


「でも、あの人と違うところもある。あの人は、帝として世界を変えようとした。けれどあなたは、人として変えようとしている」


 桜桃は身動きができなかった。


「帝の器なんてものは、後からいくらでも学べばいいのよ。でも、人の本質を見極める目は、どれだけ学んでもなかなか持てるものではない。……あなたはもう、それを十分に持っているわ」


 桜桃の目が、急激に熱くなっていく。


「……お母様、私は」


 声が激しく震えた。堪えようとした。けれど、堪えきれなかった。


「変えます」


 その言葉が口を突いて出た瞬間、自分自身でも驚いていた。


 それは決して、大それた宣言ではなかった。誰かへの誓いでもない。ただ、心の底から命の叫びのようにそのまま出てきた言葉だった。


「変えます」


 もう一度、はっきりと口にした。今度はもう、声は震えていなかった。


「この国を。血で人を縛りつけるあの仕組みを……お父様が最後まで変えきれなかったあの遺志を、私が」


 母はしばらくの間、そんな桜桃の姿をじっと見つめていた。その目が、静かに細くなっていく。皺の増えた目元が、赤く染まっていた。


 やがて母は、小さく微笑んだ。それは桜桃の記憶の中にある姿と、全く同じ笑い方だった。


「……あなたは、あの人よりも、ずっと強くなれる気がするわ」


 桜桃の目から、大粒の涙が零れ落ちた。今度はもう、堪えようとはしなかった。


 泣きながら、それでも桜桃は決して俯かなかった。母の瞳を真っ直ぐに見据えたまま、泣いた。


 母が静かに立ち上がった。ゆっくりと歩を進めて桜桃の前まで来ると、そっと優しく手を伸ばす。


 そして、桜桃の頭にそっと触れた。


 酷く、温かかった。ただそれだけだった。そこにはもう言葉なんて必要なかった。それでも、長い間失われていたはずの確かな絆が、今まさにこの場所に在った。


 二人はしばらくの間、そのままでいた。


 外からは、今も遠くに地鳴りのようなざわめきが聞こえてくる。


 処刑、皇統、血。


 だが、今この狭い部屋には、どれもが届いてはいなかった。


 やがて、母が静かに手を引いた。


 桜桃はゆっくりと立ち上がり、涙を拭った。母はもう窓の方を向いていた。いつものように、背筋を凛と伸ばして、静かに座っている。


 桜桃は一度だけ、その小さくも尊い背中を見つめた。

 それから、扉へ向かって歩き出す。


 扉の取っ手に手をかけた、その時だった。


「桜桃」


 母の声が背後から響いた。


 桜桃は足を止めた。そして、振り返る。

 母は窓を向いたまま、身じろぎひとつしなかった。


「生きなさい」


 桜桃はしばらくの間、その動かない背中をじっと見つめていた。やがて、静かに、けれど強く答えた。


「……はい」


 扉を開けた。

 夕日が、薄暗い室内に一気に差し込んでいた。


 ***


 同じ頃、朝堂院では緊急の評議が開かれていた。


 広間に重い空気が流れる。誰もすぐには言葉を発しようとしなかった。


 蘇芳が静かに口を開いた。


「昊夜様。昨日は再調査のため、猶予を求められました。我らも、それを受け入れ、一日待ちました」


 昊夜は無言のまま頷く。


「ですが、この件をこのまま保留し続ければ、朝議は連日この議題だけに費やされる。地方から届く稟議も、重要な人事も、すべてが後回しです」


 別の公卿もすかさず声を重ねる。


「各州の守護からも催促が届いております」


「国政が止まっております」


「これ以上、一人の罪人の審議だけに朝廷を縛り付けるわけには参りません」


 広間に、処刑を急ぐ賛同の声が波のように広がっていく。


 昊夜は意を決したように静かに立ち上がった。


「……承知している」


 昊夜は真っ直ぐに上座の帝を見据えた。


「証拠は間もなく揃います。明日、評定の間を――」


「昊夜様」


 雲英の穏やかな声が、その言葉を静かに遮った。


「六日待ちました。ここまで十分に時間は与えられたはず。もう、これ以上の猶予は必要ないかと存じます」


 雲英は微笑みを崩さないまま、上座の帝へと向き直った。


「どうか、明朝の処刑執行をご裁可くださいませ」


 上座の虚空帝が、重々しく目を伏せ、やがて口を開く。


「……明朝、執行とする」


 そのたった一言で、広間の空気は音を立てて完全に凍りついた。


 昊夜は、悔恨を押し隠すように瞼を一度だけ強く閉じた。


 あと一日だった。


 明朝までには斎宮が到着する。


 そして、彪と琥珀が持ち込んだ告発状を、清明が今まさに調べ上げている。筆跡さえ完全に一致すれば、雲英を評定の間に引きずり出す決定的な切り札が揃う。


 それだけの時間だった。


 だが、雲英もまた、その裏の動きに勘づいていたのだ。


「明朝」という非情な一言で、雲英はその最後の一日を鮮やかに潰して見せた。


 昊夜はゆっくりと目を開く。


 すぐ隣には千弦が控えている。言葉はない。ただ、主の決断を待つように静かに昊夜を見つめていた。


「……行くぞ」


 まだ終わったわけではない。昊夜は鋭く身を翻した。


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