第十話 皇女、処断決まる
白蔵家の天澄の屋敷に、銀牙が現れたのは夕刻のことだった。
取り次ぎの者が血相を変え、慌てて彪のところへ走ってきた。
「玄英家の当主が、お見えになっております」
彪は少し間を置いた。
「通せ」
客間で待っていた銀牙は、彪が入ってきても立ち上がろうとはしなかった。座ったまま、静かに彪の姿を視線で捉える。
彪もまた、銀牙を真っ直ぐに見据えた。
どちらも、すぐには口を開かなかった。四大貴族の当主同士が顔を合わせれば、普段なら腹の探り合いから始まるのが常だ。だが、今日は違っていた。
「来ていたのか」
彪が先に沈黙を破った。
「お前こそ」
「急いだのでな」
「俺も急いだ」
二人は向かい合って座した。
茶が運ばれてくる。だが、どちらもそれに手をつけようとはしない。
先に銀牙が口を開いた。
「琥珀を連れてきたと聞いたぞ」
「ああ」
「チビ助は元気か」
「元気だ。相変わらず口が悪い」
「俺に似たんだな」
「お前には似ていない」
銀牙は卓上の茶へ手を伸ばしかけ、ふと思い出したように彪を見る。
「チビ助と桜桃の婚姻は、日向殿の策か」
「最初の策は、婚姻ではなかったがな」
銀牙の手が止まった。
「違うのか」
「琥珀を狄族へ返し、神祇官を一人遣わせる。それを足掛かりに和平の話を進める。日向殿が持ちかけたのは、そこまでだ」
「では、婚姻は」
「族長だ。日向殿にも言わず、いきなり朝廷へ要求を突きつけたらしい」
「……だが、日向殿は止めなかったんだろう」
「そうだな」
「随分な博打に付き合わされたな」
「否定はしない」
「元皇女を素性も明かさず神祇官として狄族に送るとは。外せば戦になることくらい、分かっていただろうに」
「……族長が動いたらしいな」
「ああ。おかげで国境沿いの兵を動かす羽目になった」
彪は驚いたように目を見開いた。
「備州まで来たのか」
「越境はしてない。だが、あれだけの軍勢が国境へ向かってくれば、こちらだけ平然としているわけにもいかん」
「それは……災難だったな」
「誰のせいだと思っている」
「私ではない」
銀牙は苦々しく顔を歪める。
「で、つい先ほど報せが入った。狄族の軍勢は帝都へ向けて進んでいたが、進軍を止めたそうだ」
「止めたのか」
「日向殿がな」
「……よく斬られなかったな」
「まったくだ」
銀牙はようやく茶へ手を伸ばし、深く息を吐いた。
「博打というより、もはや己の命を賭け金にしているな」
「昔からそういう男だ」
「知っている。だから質が悪い」
銀牙は茶を一口飲み、眉間の皺を深くした。
「本人だけが賭け金なら、まだ好きにすればいい。毎度、周囲まで盤上に乗せる」
彪は呆れたように笑った。銀牙は笑わなかったが、その声音は和らいでいた。
普段、二人の間にはもっと棘がある。互いの家の利害が、いつも微妙にぶつかり合っているからだ。だが、今日は流れる空気が違っていた。
彪が、緊張の走る部屋の空気を断ち切るように本題を切り出した。
「四大貴族の連名で、議決に待ったをかける」
「そのつもりでここへ来た。玄英の名は、もちろん出す」
銀牙は鋭い眼差しで彪を見据える。
「青陽は」
「清明殿経由で動かす」
「朱明は」
「日和に頼む」
「日和が動くか」
「動く理由がある」
「六花の件か」
彪は静かに、深く頷いた。
銀牙が腕を組みながら言う。
「……六花が自らの命をかけて守り抜いた相手を、みすみす見殺しにはできん、ということか」
「そういうことだ」
銀牙は小さく、しかし重みのある息を吐き出す。
「日和は、強い女だな」
「そうだな」
「自分の姪の死を知ったばかりだというのに、受け入れる暇もない」
「受け入れるのではない」
彪は静かに、だが決して揺るぎない口調で言い放った。
「六花の意志を継ぐのだ」
銀牙は黙って彪を見つめた。その言葉の持つ重みが、しばらくの間静まり返った客間に漂い続ける。
やがて銀牙は卓の上の茶を手に取り、静かに一口含むと、小さく呟いた。
「お前が桜桃を助けようとするのは意外だな」
「……私情で肩入れしているわけではない」
「そうか?」
「桜桃姫を処刑すれば、この国は罪人ではない者が消される国だと証明される。それだけだ」
銀牙は鼻を鳴らし、笑った。
「相変わらず、回りくどい男だ」
彪は答えず、じっと銀牙の顔を見据えた。
普段の飄々とした、どこか掴みどころのない面影はない。今の銀牙の横顔には、隠しようのない真摯さが宿っていた。
「……お前こそ、素直に言えばいいものを」
彪の静かな指摘に、銀牙の動きが止まる。
「何がだ」
「姪御を助けたいのだろう」
銀牙は答えようとしない。彪は追撃するように言葉を継いだ。
「桜桃姫の母は、お前の姉だろ」
銀牙はふっと視線を外し、窓の外へと目を向けた。橙色に染まっていた夕空が、ゆっくりと深い闇に呑まれていく。
「姉は今も、離宮に幽閉されている」
それは、ひどく静かな声だった。彪は少し間を置いてから尋ねる。
「……出られないのか」
「出ようとしていない」
「なぜだ」
銀牙はしばらく答えなかったが、やがて、窓の向こうの暗闇を見つめたまま、ぽつりと言葉を零した。
「玄英家を、中央の権力争いから遠ざけるためだ」
「……」
「星河様は、姉を深く愛しておられた。だからこそ、周囲はそれを恐れたのだ」
彪は黙ってその言葉を受け止める。
「政略のために無理に迎えられた妃ではなかった。四大貴族の娘でありながら、星河様ご自身が心から望んで迎えられた方だったからな」
「それが、なぜ問題になる」
「問題になるさ」
銀牙は冷ややかに笑う。
「人は、偏愛された者を恐れる」
「……」
「姉が望めば、星河様は耳を傾ける。姉が頼めば、玄英家は特別に優遇される。姉が我が子のために動けば、その子はあまりにも強大な後ろ盾を得る。つまり――」
「玄英家が、皇統そのものに手を伸ばしたと、周囲に邪推されたわけか」
夕日が、銀牙の横顔を寂しげに照らし出す。
「事実かどうかなど関係ない。そう見られること自体が、当時の朝廷では決定的な毒だった。だから姉は、自ら望んで離宮へ移ったんだ」
「そうか……」
「玄英家もまた、それに応じて中央から退いた」
銀牙は自嘲気味に、苦く唇を歪める。
「姉が再び表舞台に出れば、また同じ疑いの目が向けられる。だからあそこに残り続けた。星河様のために。桜桃のために……そして、一族である玄英家のためにな」
銀牙は視線を正面へと戻し、まっすぐに彪を見た。
「俺は、何もできなかった。姉を守るつもりでいながら、結局は何も救えなかったんだ」
彪はしばらく銀牙を見つめていたが、それ以上の詮索はしなかった。
「その姉の娘が処刑されそうになっていると聞いて、居ても立ってもいられなくなった……それだけだ。素直じゃないのは、自分でも分かっている」
「知っている」
「理由はそれだけだ」
「それで十分だ」
二人はしばらくの間、言葉もなく夕暮れの空を共有していた。
やがて、彪が静かに、呟くように口を開く。
「私はお前が嫌いだ」
「知ってる」
「だが今回は」
銀牙が再び彪を見る。その瞳の奥には、確かな決意を宿していた。
「一致団結するしかなさそうだな」
「……仕方ない」
銀牙は少しの間を置いてから、小さく頷いた。
その瞳の奥には、二度と揺らぐことのない、鋭い光が灯っていた。
***
桜桃は母と離宮で過ごしている間、母の言葉を胸の中で何度も繰り返していた。
──いつか、誰かが変えると。
風が鳴った。高窓から差し込む一筋の光が、小さく揺れている。
桜桃は静かに口を開いた。
「……私は、変えられるかしら」
声が、思ったよりも小さく響いた。誰かへの問いかけというよりは、独り言に近かった。
母はまっすぐ桜桃を見た。すぐには答えなかった。急かすわけでも、否定するわけでもなく、ただその覚悟を測るようにじっと見つめていた。
桜桃は言葉を紡ぎ続けた。
「お父様でも変えられなかった。帝であっても、変えきれなかった。なのに私が……皇女としてまともに生きることすらできなかった私が、本当に変えられるとは、どうしても思えなくて」
言葉にしてしまってから、桜桃は思わず唇を噛んだ。
あまりにも弱いことを言った、と後悔した。こんな場所で、こんな形でようやく再会できたというのに。弱音を吐くつもりなんてなかったのだ。
なのに、母の前ではどうしても堰き止められなかった。
母はしばらくの間、黙っていた。文机の上に置かれた湯呑みを、静かに見ている。やがて、ゆっくりと桜桃へ視線を戻した。
「あなたはね、お父様と、同じところがあるわ」
桜桃が顔を上げると、母は桜桃を見つめた。
「人を見るのよ。血筋ではなく。立場でもなく。その人そのものの本質をね。六花として生きていた時も、ずっとそうだったでしょう?」
桜桃は思わず息を呑んだ。胸が激しく震える。
「……どうしてそれを」
この人は、一体どこまで知っているのだろう。この閉ざされた場所から、今まで何を見つめてきたのだろうか。
「弟から時々文が届くのよ」
「銀牙叔父様が……」
母は穏やかに笑うと、言葉を続けた。
「でも、あの人と違うところもある。あの人は、帝として世界を変えようとした。けれどあなたは、人として変えようとしている」
桜桃は身動きができなかった。
「帝の器なんてものは、後からいくらでも学べばいいのよ。でも、人の本質を見極める目は、どれだけ学んでもなかなか持てるものではない。……あなたはもう、それを十分に持っているわ」
桜桃の目が、急激に熱くなっていく。
「……お母様、私は」
声が激しく震えた。堪えようとした。けれど、堪えきれなかった。
「変えます」
その言葉が口を突いて出た瞬間、自分自身でも驚いていた。
それは決して、大それた宣言ではなかった。誰かへの誓いでもない。ただ、心の底から命の叫びのようにそのまま出てきた言葉だった。
「変えます」
もう一度、はっきりと口にした。今度はもう、声は震えていなかった。
「この国を。血で人を縛りつけるあの仕組みを……お父様が最後まで変えきれなかったあの遺志を、私が」
母はしばらくの間、そんな桜桃の姿をじっと見つめていた。その目が、静かに細くなっていく。皺の増えた目元が、赤く染まっていた。
やがて母は、小さく微笑んだ。それは桜桃の記憶の中にある姿と、全く同じ笑い方だった。
「……あなたは、あの人よりも、ずっと強くなれる気がするわ」
桜桃の目から、大粒の涙が零れ落ちた。今度はもう、堪えようとはしなかった。
泣きながら、それでも桜桃は決して俯かなかった。母の瞳を真っ直ぐに見据えたまま、泣いた。
母が静かに立ち上がった。ゆっくりと歩を進めて桜桃の前まで来ると、そっと優しく手を伸ばす。
そして、桜桃の頭にそっと触れた。
酷く、温かかった。ただそれだけだった。そこにはもう言葉なんて必要なかった。それでも、長い間失われていたはずの確かな絆が、今まさにこの場所に在った。
二人はしばらくの間、そのままでいた。
外からは、今も遠くに地鳴りのようなざわめきが聞こえてくる。
処刑、皇統、血。
だが、今この狭い部屋には、どれもが届いてはいなかった。
やがて、母が静かに手を引いた。
桜桃はゆっくりと立ち上がり、涙を拭った。母はもう窓の方を向いていた。いつものように、背筋を凛と伸ばして、静かに座っている。
桜桃は一度だけ、その小さくも尊い背中を見つめた。
それから、扉へ向かって歩き出す。
扉の取っ手に手をかけた、その時だった。
「桜桃」
母の声が背後から響いた。
桜桃は足を止めた。そして、振り返る。
母は窓を向いたまま、身じろぎひとつしなかった。
「生きなさい」
桜桃はしばらくの間、その動かない背中をじっと見つめていた。やがて、静かに、けれど強く答えた。
「……はい」
扉を開けた。
夕日が、薄暗い室内に一気に差し込んでいた。
***
同じ頃、朝堂院では緊急の評議が開かれていた。
広間に重い空気が流れる。誰もすぐには言葉を発しようとしなかった。
蘇芳が静かに口を開いた。
「昊夜様。昨日は再調査のため、猶予を求められました。我らも、それを受け入れ、一日待ちました」
昊夜は無言のまま頷く。
「ですが、この件をこのまま保留し続ければ、朝議は連日この議題だけに費やされる。地方から届く稟議も、重要な人事も、すべてが後回しです」
別の公卿もすかさず声を重ねる。
「各州の守護からも催促が届いております」
「国政が止まっております」
「これ以上、一人の罪人の審議だけに朝廷を縛り付けるわけには参りません」
広間に、処刑を急ぐ賛同の声が波のように広がっていく。
昊夜は意を決したように静かに立ち上がった。
「……承知している」
昊夜は真っ直ぐに上座の帝を見据えた。
「証拠は間もなく揃います。明日、評定の間を――」
「昊夜様」
雲英の穏やかな声が、その言葉を静かに遮った。
「六日待ちました。ここまで十分に時間は与えられたはず。もう、これ以上の猶予は必要ないかと存じます」
雲英は微笑みを崩さないまま、上座の帝へと向き直った。
「どうか、明朝の処刑執行をご裁可くださいませ」
上座の虚空帝が、重々しく目を伏せ、やがて口を開く。
「……明朝、執行とする」
そのたった一言で、広間の空気は音を立てて完全に凍りついた。
昊夜は、悔恨を押し隠すように瞼を一度だけ強く閉じた。
あと一日だった。
明朝までには斎宮が到着する。
そして、彪と琥珀が持ち込んだ告発状を、清明が今まさに調べ上げている。筆跡さえ完全に一致すれば、雲英を評定の間に引きずり出す決定的な切り札が揃う。
それだけの時間だった。
だが、雲英もまた、その裏の動きに勘づいていたのだ。
「明朝」という非情な一言で、雲英はその最後の一日を鮮やかに潰して見せた。
昊夜はゆっくりと目を開く。
すぐ隣には千弦が控えている。言葉はない。ただ、主の決断を待つように静かに昊夜を見つめていた。
「……行くぞ」
まだ終わったわけではない。昊夜は鋭く身を翻した。




