第八話 皇女、父を知る
桜桃と母はむきあったまま、しばらく、二人とも黙っていた。
母が文机の上の湯呑みをそっと手に取る。茶を一口、静かに含む。その丁寧な所作の一つひとつが、桜桃の記憶の中にある姿と何一つ変わっていなかった。ずっとこの閉ざされた場所にいても、この人はあの頃のままだった。
桜桃は床に座ったまま、膝の上できつく手を握った。
聞かなければならないことがあった。
「……お父様のことを聞かせてほしいんです」
母は湯呑みをそっと置いた。
「何が聞きたいの?」
「どんな人だったのか、を」
母は少し間を置いた。そして、高窓の外へと視線を向ける。雲の低い、灰色に淀んだ空だった。
ゆっくりと、大切な言葉を一つずつ選ぶような声だった。
「あの人はね、どこまでも、帝であろうとしたのよ」
桜桃は黙って耳を傾けていた。
「常に民を見ていた。血筋ではなく、人そのものをね。だからこそ、変えようとしていたの。この国が、あまりにも長く抱え込んできた歪みを」
「歪み……?」
「血で人を縛りつける仕組みを。生まれた家によって、その人の行く先まで決められてしまう国を」
「変えられたの?」
母はすぐには答えなかった。
膝の上で重ねられた指先が動く。
「変えきれなかったわ」
「なぜ……」
「帝だったからよ」
思いがけない答えに、桜桃は顔を上げた。
「あの人が背負っていたのは、一人や二人の人生ではない。この国そのものだった。変えたいものがあっても、明日からすべてを変えることはできない。救いたい者がいても、その一人を救うことで国が傾くのなら、手を離さなければならないこともある」
母の声は静かだった。
「優しい人だったわ。けれど、優しいだけの人ではなかった。必要なら、誰かに恨まれる決断もした。誰かを切り捨てることもあった。それでも、自分が帝である以上、その責から逃げようとはしなかった」
「お父様が……」
「ええ。だから、どこまでも帝だったのよ」
母はそこで、ほんの少し目を伏せた。
「それでも、諦めなかった。自分には変えきれないと分かっていても、少しでも次へ進めようとしていた。自分の代で終わらなくても、その次の誰かが、もう少し先へ行けるように」
その言葉が、薄暗い空気のなかにいつまでも残った。
桜桃はしばらくの間、身動きができなかった。
これまで、父の話を詳しく聞いたことはほとんどなかった。あの宮城が赤く焼けた夜から、誰もが父の話をすることを恐れ、語れる人など周囲にいなかったからだ。
なのに今、目の前で母が、帝ではなく、一人の人間として父を知っていた者の言葉で、その生き方を語っている。
「……苦しくなかったの? お父様は。変えようとしてもがき続けて、それでも変えきれなくて」
「苦しかったと思うわ。引き裂かれるほどにね」
「それでも、続けたの?」
「ええ、続けたのよ」
「なぜ……」
母はしばらく黙っていた。高窓から差し込む一筋の光が、時間の経過とともにゆっくりと床の上を動いていく。
やがて、母は静かに告げた。
「諦めてしまえば、そこで全てが終わるからよ」
「終わる、とは」
「変わる可能性が、よ」
桜桃の胸が、どくんと強く脈打った。
「この国がいつか変わるかもしれないという可能性そのものが、完全に潰えてしまうから」
母の目は、遠くを見つめていた。かつての夫である星河帝の背中を見ているのか。それとも、もっと先の未来を見ているのか。
「あの人は信じていたのよ。いつか必ず、誰かがこの国を変えると」
沈黙が二人の間に落ちた。
桜桃は、ただ母の瞳をじっと見つめ返していた。
──誰かが。
その剥き出しの言葉が、桜桃の胸の奥深くへと、ゆっくりと、だが二度と消えないほど強く沈んでいった。
***
処刑の保留から五日が経った。
朝議へ向かう支度を整えていた昊夜へ、千弦が静かに歩み寄った。
「斎宮様が帝都に向かっていると伝令が届きました」
昊夜はぴたりと足を止めた。
「そうか」
「……ですが、間に合うでしょうか」
「いつ発った?」
「三日前のようです」
昊夜はしばらく黙って考えを巡らせる。
「斎宮は狄族の娘だ。馬術の心得もある。馬を限界まで飛ばせば、明後日には帝都へ着くはずだ」
「明後日……」
「問題は、それまで処刑を延ばせるかだ」
昊夜は静かに息を吐き出す。
「今日の朝議が、すべての正念場になる」
そう言い残し、昊夜は厳達とした足取りで回廊を歩き始める。千弦も深く一礼し、その背後に従った。
朝議の広間には、これまで以上に冷たい空気が漂っていた。
居並ぶ大臣たちの視線が集まる中、治部省の清明が静かに歩み出て口を開く。
「治部省よりご報告いたします。二日前、我が国へ進軍していた狄族の兵が退きました。これに伴い、国交上の緊張は解消されたものと判断しております」
その一言で、広間が一斉にざわめいた。
昊夜は唇を引き結んだ。
(……来たか)
昨日まで強力な盾として使えた「狄族との外交問題」が、今この瞬間に消滅した。
それを待っていたかのように、一人の貴族が鋭く進み出る。
「では、桜桃姫の件をこれ以上保留する理由はございますまい」
「その通りだ」
「国内の動揺も抑えられた。証拠も既に揃っている」
「一刻も早く処断すべきかと」
賛同の声が波のように次々と上がる。
貴族たちの顔には、もはや妨げるものはないという余裕があった。
昊夜は静かに立ち上がった。
「まだだ」
たった一言。しかしその圧倒的な気迫に、広間は再び水を打ったように静まり返る。
「刑部による事件の再調査は、まだ完了していない」
蘇芳が険しく眉を寄せた。
「しかし、狄族との問題は収束いたしました。最大の懸念が消えた今、処刑を阻む理由はありません」
「だからこそだ」
昊夜は一歩、冷たい床を踏みしめて前へ出る。
「外交問題が解決した今だからこそ、我らは余計な憂いなく、この事件そのものを徹底的に、白日の下に晒すことができる」
「……っ」
「拙速な裁きを下せば、かえって朝廷の正統性を汚すことになりかねない」
反対側から、別の重臣がすかさず声を飛ばす。
「ですが、これ以上の引き延ばしに何の意味があるというのです」
昊夜は視線だけでその男を射抜いた。
「意味がないと、誰が決めた」
その凍り付くような鋭い声に、広間の空気が一瞬で張り詰める。
「元皇女を処刑するのだ。そこに一つでも疑義が残るなら、徹底的に潰すのが法務の筋目ではないのか」
「……」
堂内に、低いざわめきが広がった。
理屈としては正しい。だが、それが処断を引き延ばすための論であることは、この場にいる誰もが分かっていた。
重苦しい沈黙の中、上座の帝がゆっくりと口を開く。
「……あと何日必要だ」
昊夜は一瞬だけ思考を巡らせる。
(あと一日。いや……最低でも二日)
だが、その猶予を乞う言葉を、昊夜は飲み込んだ。今ここで日数を提示すれば、貴族たちに隙を突かれる。
「――評定の間を開きます。すべての証拠を、その場で明らかにいたします」
証拠は、まだ手元に完全に揃っているわけではない。
そのわずかな逡巡を見透かすように、帝は静かに下命した。
「……よい。証拠が揃い次第、直ちに評定を開け」
「御意」
昊夜は深く頭を下げた。
***
朝凪は、机いっぱいに広げた書状をゆっくりと見渡した。
何度も並べ替えた末に、ようやく一筋の道が見えてきている。これだけの論理を組み立てれば、雲英を追い詰めることは可能だ。
そう確信できるだけの準備は整った。
だが、朝凪の表情に晴れ間は戻らない。
琥珀や彪はまだ帝都へ到着していない。
斎宮も、急報を送ったとはいえ、間に合う保証はどこにもない。
清明の調査も、まだ完全に終わったわけではない。
どれか一つでも欠ければ、この評定は開けない。
「……」
昊夜がどれほど朝議で時間を稼いでくれたとて、それには限界がある。
もし証拠が揃う前に処刑が命じられれば。あるいは、評定を開く前に雲英の手で押し切られれば、ここまで積み上げたものすべてが、意味を失う。
朝凪は静かに息を吐き出した。
「……別の道を用意しなくてはならない」
評定が開かれずとも、桜桃を救い出せる道。
──法で止めるしかない。
朝凪は書庫の奥深く、埃の積もった棚から分厚い律令の解説書を何冊も引き出した。
国法が記された竹簡を一枚ずつ繰り、指先で皇族の処断に関する条文をなぞっていく。
『皇族の犯した罪は、宮内省の評定による』
『死罪に相当する咎であっても、帝の勅許がなければ執行を命じることはできない』
『潔斎の期間中、あるいは国家の重大な神事の直前においては、いかなる処刑もこれを禁じる』
どれも、処刑を覆すほどの、決定的な大義名分にはなり得なかった。雲英の張り巡らせた網を破るには、どれも生ぬるい。
墨の掠れた難解な法文を、朝凪は一字一字、暗闇の中で貪るように目で追った。
そのとき、指先が一節に止まった。
その一文を、二度読む。
朝凪は、ゆっくりと目を閉じた。
本を静かに閉じ、書物を元の棚に戻すと、書庫を後にした。




