第七話 皇女、涙をこぼす
藤花殿の奥にある椎香の私室は、昼間だというのに薄暗かった。
見かねた侍女の沙羅が格子窓を開けようとしたが、椎香がそれを遮った。
「いいわ」
「ですが、お体に障ります」
「いいと言っているの」
沙羅はそれ以上逆らえず、黙って下がった。
椎香は座ったまま、微動だにせず自らの腹にそっと手を当てる。まだ外から見て分かるほどの膨らみはない。だが医官は確かに告げたのだ。間違いなく、懐妊していると。
その二文字が、頭の中で幾度も幾度も回り続けている。
本来なら喜ぶべきことなのだと分かっていた。
夫である疾風は心から喜んでくれたし、沙羅たちも一様に声を上げて祝福した。未散までがわざわざ部屋を訪れ、「よかったわ。これであなたの立場は安泰よ」と穏やかな声で告げた。
その時、椎香は笑った。確かに笑うことができた。
だが、こうして一人きりになると、あの時の笑みはどこかへ消えてしまう。
ふいに吐き気に襲われ、椎香が上体を起こすと、沙羅が駆け寄って桶を差し出し、背中をさすった。
「ありがとう」
「皇孫様のためですから……」
沙羅の言葉に、椎香は深く目を伏せる。
(皇孫……)
子が生まれれば、自分の立場は安泰になる。その子が帝位に近づけば近づくほど、自分もまた守られる存在になる。皆が口々にそう言い、皆が椎香という人間ではなく、ただ腹の中にいる子ばかりを見ている。
(この子は、私のものなのに)
部屋の外から、侍女たちのひそひそ話が聞こえてきた。
「六花という神祇官の話聞いた?」
「狄族へ嫁いだのに、逃げ帰ってきたんでしょう」
「それが罪に問われているそうよ。処刑されるのかしら……」
狄族へ嫁いだ桜桃を連れ帰ったのが、朝凪だということも椎香の耳には届いていた。
『それは、あなたが決めるべきことだからです』
かつて自分が疾風との縁談を止めてほしいと頼んだとき、朝凪はそう言った。
意外だった。あの人が誰かの婚姻に自ら踏み込み、まして連れ帰るところまでやるとは思っていなかった。
そしてもうひとつ。
彼女が皇統順位の最も高い前帝の娘だと知ったのは、捕縛の報せとほとんど同時だった。
椎香はきつく目を閉じた。
まぶたの裏に、桜桃の顔が鮮明に浮かび上がる。「六花」という名で、神祇官として無邪気に笑っていたあの顔が。
(六花はずっと、私たちを騙していたの?)
違う。そんなことを思いたいのではない。
良くないことばかり考えてしまうのは、きっと体調が悪いせいだ。
椎香は横になり、無理やり意識を閉ざそうと目をつぶった。
***
女はゆっくりと振り返り、佇む桜桃を真っ直ぐに見つめた。
その瞬間。桜桃の頭の中は、真っ白に染まった。
記憶にある面影よりも、白い髪が随分と増えていた。
頬の輪郭は驚くほど細くなり、目元に刻まれた皺も増えている。
それでも、一目で分かった。
「……」
声が出なかった。喉が激しく震えているのに、言葉が形にならない。
女もまた、しばらくの間、微動だにせず動かなかった。ただじっと桜桃を見つめていた。その瞳が、かすかに、静かに揺れていた。
長い、長い沈黙だった。
天幕の外で風が鳴る。高い窓から差し込む一筋の光が、小刻みに揺れていた。
やがて、女の唇が、小さく動いた。
「……大きくなったのね」
その声を耳にした瞬間。
桜桃の目から、堰を切ったように涙が零れ落ちた。
止められなかった。拭っても拭っても、次から次へと溢れ出してくる。
みっともない、と心のどこかで思った。こんな場所で、こんな予期せぬ形で再会したというのに。泣くつもりなんて、毛頭なかったのに。
それなのに、涙を止める術を身体が忘れてしまったようだった。
女は決して先を急かさなかった。ただ静かに、慈しむような眼差しで桜桃を見守っていた。
桜桃はやがて、震える足をなんとか動かし、一歩を踏み出した。また、一歩。
女のすぐ目の前まで辿り着いた時、糸が切れたように膝が折れた。床に座り込んだまま、桜桃は涙に濡れた顔を上げる。
「……お母様」
掠れた声だった。
女の目が、優しく細められた。その目元が、赤く染まっていく。
「ええ」
たった一言、我が子を肯定する言葉。
なのに、桜桃の喉の奥で、せき止めていた何かが一気に崩れ去った。嗚咽が漏れそうになるのを、唇を強く噛み締めて必死に堪える。
聞かなければならないことがある。話さなければならないことがあるはずだ。
「……ずっと、どこにいたの。療養中だって……」
震える声で、ようやく絞り出した。
子供のような問いだと分かっていた。それでも、胸の底から真っ先に出てきた言葉は、これしかなかった。
母はしばらくの間、黙っていた。やがて、静かに、言い聞かせるように告げる。
「ここよ。ずっと、ここにいたわ」
桜桃はがっくりと項垂れた。
ここに。ずっと、ここに。
自分と同じ宮城の、すぐ地続きの場所に。
それを何一つ知らずに、自分はすぐそこにいたのだ。その事実が、じわりと重く沈んでいく。
「……知らなかった」
「知らなくていいように、していたのよ」
母の声はどこまでも穏やかだった。
「あなたが知れば、きっとここへ来ようとするでしょう?」
「……来てほしくなかったの?」
「来てほしかったわ」
一拍の沈黙。
「だからこそ、来させなかったの」
桜桃は顔を上げた。真っ直ぐに母の瞳を見つめる。
「……謀反の後も、ずっとここにいるの?」
「ええ」
「出られないの?」
「出ようとしていないのよ」
桜桃はしばらくの間、その言葉の意味をじっと受け止めていた。
「……なぜ」
母は少し間を置いた。それから、視線を静かに窓の外へと向けた。
「ここが、あの人の用意してくれた場所だから」
それだけだった。その先の続きを、母は口にしなかった。桜桃もまた、それ以上は何も聞かなかった。
選んだのだ。
誰かに強いられた結果ではなく、自らの意志でここに留まることを選んだ。
その選択の重さが、静かに桜桃の胸へと落ちていく。
桜桃は言葉を失ったまま、しばらくの間、母の静かな横顔を見つめ続けていた。
***
花梨はまだ、満足に体を動かすことができなかった。
受けた傷が完全には癒えていない。医官からは「何があっても安静に」ときつく言われている。
だが、ただ横たわっているだけでは、頭が働きすぎて仕方がなかった。考えたくもないことまで、次から次へと考えてしまう。
侍女の紬が部屋に文を持ってきたのは、昼過ぎのことだった。
柳からのものだった。
『体の具合はどうだ』という、ただそれだけの短い文だった。
いかにも柳らしかった。短くて、余計なことは何も書かれていない。それだけで十分に気持ちは伝わると信じているような人だ。
その返事を書いていると、廊下で聞き慣れた昊夜の足音が響いた。
彼は毎日、欠かさず部屋へやって来る。
だが、来るたびにその顔色が少しずつ悪くなっている気がした。まともに眠れていないのだろう。食事も摂っていないに違いない。それでも、何かに突き動かされるようにして動いている。
花梨は向かっていた文机を脇へと置いた。
「今日も来てくださったんですね」
「ああ」
昊夜は部屋に入ってきたものの、いつものように壁際に佇んだ。決して座ろうとはしない。いつも、そうだった。
花梨はしばらくの間、昊夜の横顔をじっと見つめていた。
「……随分、必死なんですね」
「そうか」
「ええ」
花梨は穏やかに、静かに言葉を続けた。
「処刑されそうな人がいれば、必死になるのは分かります。人が死ぬのは、誰だって止めたいですよね。……誰だって」
花梨は視線を手元へと落とした。だが、その声の響きが少しだけ変わる。決して責めているわけではないが、事実を静かに告げるような声だった。
「でも、昊夜様は今まで、何度も人を切り捨ててきましたよね」
壁際に立つ昊夜の身体が、微かに強張った気がした。
「切り捨てなければ、もっと多くの人が死ぬことになるからと。そう自分に言い聞かせて、切り捨ててきたはずです」
花梨はもう一度、昊夜を見た。
「違いますか」
昊夜は答えない。否定もしなかった。
花梨は続けた。
「なのに、今回は切り捨てない」
「……」
「本当に、必死になっている。……あれだけのことをしても、まだ何一つ足りないというように、必死に動いている」
部屋に深い静寂が落ちた。花梨は昊夜の横顔を見つめ続けていた。
普段の彼とは、何かが決定的に違っている。
まるで、彼女のために、自分のすべてを賭けてでもいるような──。
花梨は静かに目を伏せた。
不思議と、彼女を責める気持ちは湧いてこなかった。「六花ちゃん」は本当に良い子だと思っていたし、それは今でも変わらない。
ただ、胸に、ちくりとした小さな痛みがあった。名前もつけられないくらい、ささやかで、けれど確かな痛みが。
花梨は少し間を置いてから、はっきりとした声で言った。
「六花ちゃんを、助けてあげてください」
昊夜が、弾かれたように花梨を見た。
花梨はただ静かに、優しく笑ってみせた。
「必ず、助けてあげてくださいね」
その言葉には、いささかの不純物も混ざっていなかった。妬みも、皮肉も、何一つない。ただ、真っ直ぐな願いだけだった。
昊夜はしばらくの間、花梨の顔を見つめていた。やがて、短く、それだけを応じた。
「……ああ」
花梨は満足したように頷いた。
昊夜はそれきり、静かに部屋を出て行った。足音が廊下の奥へと遠ざかっていく。
花梨は一人になった。
文机の上には、柳からの文が残されている。花梨はそれをもう一度手に取った。
『体の具合はどうだ』
花梨は小さく笑い、それから、格子窓の外へと目を向ける。空は重く曇り、冷たい風が吹き抜けていた。
「……大丈夫よ」
誰に言うわけでもなく、ぽつりと呟いた。
目の奥が、少しだけ熱くなる。だが、決して涙は流さなかった。泣くようなことでもない、と自分に言い聞かせていた。
花梨は再び文机に向かった。そして、柳への返事を書き始める。
「大丈夫です。もう少しで動けます」
短くそう書き記した。それから、少しだけ手元を止めて考え、その後に一行だけ言葉を足した。
「柳お兄様と郁李お兄様はお元気ですか」
筆を置く。
開いた窓から風が吹き込み、彼女の袖を優しく揺らした。
花梨はそっと目を閉じ、その心地よい冷たさを肌で受け止めていた。




