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狂桜華《きょうおうか》~亡国の姫は、名を捨て帝を目指す~  作者: 澪
第六章 桜桃という名の罪【皇女断罪編】

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第七話 皇女、涙をこぼす

 藤花殿の奥にある椎香の私室は、昼間だというのに薄暗かった。


 見かねた侍女の沙羅が格子窓を開けようとしたが、椎香がそれを遮った。


「いいわ」


「ですが、お体に障ります」


「いいと言っているの」


 沙羅はそれ以上逆らえず、黙って下がった。


 椎香は座ったまま、微動だにせず自らの腹にそっと手を当てる。まだ外から見て分かるほどの膨らみはない。だが医官は確かに告げたのだ。間違いなく、懐妊していると。


 その二文字が、頭の中で幾度も幾度も回り続けている。


 本来なら喜ぶべきことなのだと分かっていた。


 夫である疾風は心から喜んでくれたし、沙羅たちも一様に声を上げて祝福した。未散までがわざわざ部屋を訪れ、「よかったわ。これであなたの立場は安泰よ」と穏やかな声で告げた。


 その時、椎香は笑った。確かに笑うことができた。


 だが、こうして一人きりになると、あの時の笑みはどこかへ消えてしまう。


 ふいに吐き気に襲われ、椎香が上体を起こすと、沙羅が駆け寄って桶を差し出し、背中をさすった。


「ありがとう」


「皇孫様のためですから……」


 沙羅の言葉に、椎香は深く目を伏せる。


(皇孫……)


 子が生まれれば、自分の立場は安泰になる。その子が帝位に近づけば近づくほど、自分もまた守られる存在になる。皆が口々にそう言い、皆が椎香という人間ではなく、ただ腹の中にいる子ばかりを見ている。


(この子は、私のものなのに)


 部屋の外から、侍女たちのひそひそ話が聞こえてきた。


「六花という神祇官の話聞いた?」


「狄族へ嫁いだのに、逃げ帰ってきたんでしょう」


「それが罪に問われているそうよ。処刑されるのかしら……」


 狄族へ嫁いだ桜桃を連れ帰ったのが、朝凪だということも椎香の耳には届いていた。


『それは、あなたが決めるべきことだからです』


 かつて自分が疾風との縁談を止めてほしいと頼んだとき、朝凪はそう言った。


 意外だった。あの人が誰かの婚姻に自ら踏み込み、まして連れ帰るところまでやるとは思っていなかった。


 そしてもうひとつ。


 彼女が皇統順位の最も高い前帝の娘だと知ったのは、捕縛の報せとほとんど同時だった。


 椎香はきつく目を閉じた。


 まぶたの裏に、桜桃の顔が鮮明に浮かび上がる。「六花」という名で、神祇官として無邪気に笑っていたあの顔が。


(六花はずっと、私たちを騙していたの?)


 違う。そんなことを思いたいのではない。

 良くないことばかり考えてしまうのは、きっと体調が悪いせいだ。


 椎香は横になり、無理やり意識を閉ざそうと目をつぶった。



***


 女はゆっくりと振り返り、佇む桜桃を真っ直ぐに見つめた。

 その瞬間。桜桃の頭の中は、真っ白に染まった。


 記憶にある面影よりも、白い髪が随分と増えていた。


 頬の輪郭は驚くほど細くなり、目元に刻まれた皺も増えている。


 それでも、一目で分かった。


「……」


 声が出なかった。喉が激しく震えているのに、言葉が形にならない。


 女もまた、しばらくの間、微動だにせず動かなかった。ただじっと桜桃を見つめていた。その瞳が、かすかに、静かに揺れていた。


 長い、長い沈黙だった。

 天幕の外で風が鳴る。高い窓から差し込む一筋の光が、小刻みに揺れていた。


 やがて、女の唇が、小さく動いた。


「……大きくなったのね」


 その声を耳にした瞬間。


 桜桃の目から、堰を切ったように涙が零れ落ちた。


 止められなかった。拭っても拭っても、次から次へと溢れ出してくる。


 みっともない、と心のどこかで思った。こんな場所で、こんな予期せぬ形で再会したというのに。泣くつもりなんて、毛頭なかったのに。


 それなのに、涙を止める術を身体が忘れてしまったようだった。


 女は決して先を急かさなかった。ただ静かに、慈しむような眼差しで桜桃を見守っていた。


 桜桃はやがて、震える足をなんとか動かし、一歩を踏み出した。また、一歩。


 女のすぐ目の前まで辿り着いた時、糸が切れたように膝が折れた。床に座り込んだまま、桜桃は涙に濡れた顔を上げる。


「……お母様」


 掠れた声だった。


 女の目が、優しく細められた。その目元が、赤く染まっていく。


「ええ」


 たった一言、我が子を肯定する言葉。


 なのに、桜桃の喉の奥で、せき止めていた何かが一気に崩れ去った。嗚咽が漏れそうになるのを、唇を強く噛み締めて必死に堪える。


 聞かなければならないことがある。話さなければならないことがあるはずだ。


「……ずっと、どこにいたの。療養中だって……」


 震える声で、ようやく絞り出した。


 子供のような問いだと分かっていた。それでも、胸の底から真っ先に出てきた言葉は、これしかなかった。


 母はしばらくの間、黙っていた。やがて、静かに、言い聞かせるように告げる。


「ここよ。ずっと、ここにいたわ」


 桜桃はがっくりと項垂れた。


 ここに。ずっと、ここに。


 自分と同じ宮城の、すぐ地続きの場所に。


 それを何一つ知らずに、自分はすぐそこにいたのだ。その事実が、じわりと重く沈んでいく。


「……知らなかった」


「知らなくていいように、していたのよ」


 母の声はどこまでも穏やかだった。


「あなたが知れば、きっとここへ来ようとするでしょう?」


「……来てほしくなかったの?」


「来てほしかったわ」


 一拍の沈黙。


「だからこそ、来させなかったの」


 桜桃は顔を上げた。真っ直ぐに母の瞳を見つめる。

「……謀反の後も、ずっとここにいるの?」


「ええ」


「出られないの?」


「出ようとしていないのよ」


 桜桃はしばらくの間、その言葉の意味をじっと受け止めていた。


「……なぜ」


 母は少し間を置いた。それから、視線を静かに窓の外へと向けた。


「ここが、あの人の用意してくれた場所だから」


 それだけだった。その先の続きを、母は口にしなかった。桜桃もまた、それ以上は何も聞かなかった。


 選んだのだ。


 誰かに強いられた結果ではなく、自らの意志でここに留まることを選んだ。


 その選択の重さが、静かに桜桃の胸へと落ちていく。


 桜桃は言葉を失ったまま、しばらくの間、母の静かな横顔を見つめ続けていた。


***


 花梨はまだ、満足に体を動かすことができなかった。


 受けた傷が完全には癒えていない。医官からは「何があっても安静に」ときつく言われている。


 だが、ただ横たわっているだけでは、頭が働きすぎて仕方がなかった。考えたくもないことまで、次から次へと考えてしまう。


 侍女の紬が部屋に文を持ってきたのは、昼過ぎのことだった。


 柳からのものだった。


『体の具合はどうだ』という、ただそれだけの短い文だった。


 いかにも柳らしかった。短くて、余計なことは何も書かれていない。それだけで十分に気持ちは伝わると信じているような人だ。


 その返事を書いていると、廊下で聞き慣れた昊夜の足音が響いた。


 彼は毎日、欠かさず部屋へやって来る。


 だが、来るたびにその顔色が少しずつ悪くなっている気がした。まともに眠れていないのだろう。食事も摂っていないに違いない。それでも、何かに突き動かされるようにして動いている。


 花梨は向かっていた文机を脇へと置いた。


「今日も来てくださったんですね」


「ああ」


 昊夜は部屋に入ってきたものの、いつものように壁際に佇んだ。決して座ろうとはしない。いつも、そうだった。


 花梨はしばらくの間、昊夜の横顔をじっと見つめていた。


「……随分、必死なんですね」


「そうか」


「ええ」


 花梨は穏やかに、静かに言葉を続けた。


「処刑されそうな人がいれば、必死になるのは分かります。人が死ぬのは、誰だって止めたいですよね。……誰だって」


 花梨は視線を手元へと落とした。だが、その声の響きが少しだけ変わる。決して責めているわけではないが、事実を静かに告げるような声だった。


「でも、昊夜様は今まで、何度も人を切り捨ててきましたよね」


 壁際に立つ昊夜の身体が、微かに強張った気がした。


「切り捨てなければ、もっと多くの人が死ぬことになるからと。そう自分に言い聞かせて、切り捨ててきたはずです」


 花梨はもう一度、昊夜を見た。


「違いますか」


 昊夜は答えない。否定もしなかった。

 花梨は続けた。


「なのに、今回は切り捨てない」


「……」


「本当に、必死になっている。……あれだけのことをしても、まだ何一つ足りないというように、必死に動いている」


 部屋に深い静寂が落ちた。花梨は昊夜の横顔を見つめ続けていた。


 普段の彼とは、何かが決定的に違っている。


 まるで、彼女のために、自分のすべてを賭けてでもいるような──。


 花梨は静かに目を伏せた。


 不思議と、彼女を責める気持ちは湧いてこなかった。「六花ちゃん」は本当に良い子だと思っていたし、それは今でも変わらない。


 ただ、胸に、ちくりとした小さな痛みがあった。名前もつけられないくらい、ささやかで、けれど確かな痛みが。


 花梨は少し間を置いてから、はっきりとした声で言った。


「六花ちゃんを、助けてあげてください」


 昊夜が、弾かれたように花梨を見た。

 花梨はただ静かに、優しく笑ってみせた。


「必ず、助けてあげてくださいね」


 その言葉には、いささかの不純物も混ざっていなかった。妬みも、皮肉も、何一つない。ただ、真っ直ぐな願いだけだった。


 昊夜はしばらくの間、花梨の顔を見つめていた。やがて、短く、それだけを応じた。


「……ああ」


 花梨は満足したように頷いた。


 昊夜はそれきり、静かに部屋を出て行った。足音が廊下の奥へと遠ざかっていく。


 花梨は一人になった。


 文机の上には、柳からの文が残されている。花梨はそれをもう一度手に取った。


『体の具合はどうだ』


 花梨は小さく笑い、それから、格子窓の外へと目を向ける。空は重く曇り、冷たい風が吹き抜けていた。


「……大丈夫よ」


 誰に言うわけでもなく、ぽつりと呟いた。


 目の奥が、少しだけ熱くなる。だが、決して涙は流さなかった。泣くようなことでもない、と自分に言い聞かせていた。


 花梨は再び文机に向かった。そして、柳への返事を書き始める。


「大丈夫です。もう少しで動けます」


 短くそう書き記した。それから、少しだけ手元を止めて考え、その後に一行だけ言葉を足した。


「柳お兄様と郁李お兄様はお元気ですか」


 筆を置く。


 開いた窓から風が吹き込み、彼女の袖を優しく揺らした。


 花梨はそっと目を閉じ、その心地よい冷たさを肌で受け止めていた。



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