第六話 元近衛大将、首を差し出す
処断が保留になって三日目。遠くのざわめきは、今も地鳴りのように続いている。
桜桃は寝台に腰掛けたまま、窓からぼんやりと外を見ていた。
廊下を進んでくる複数の足音が、部屋の前でぴたりと止まった。
金属の擦れ合う鍵の音がして、重い扉が開く。
現れたのは、見慣れない顔をした一人の武官だった。
「移動していただきます」
桜桃はゆっくりと視線を移した。
「……どこへ」
「離宮です」
「なぜ」
武官は少し間を置いた。その視線が泳ぐ。
「牢は……その……元皇女を置いておく場所ではないと、昊夜殿が」
桜桃はそっと目を伏せた。
昊夜が動いたのだ。処刑を止めることまではできなかったが、せめてもの待遇として、これだけは朝廷に押し通したのだろう。
「……分かりました。行きます」
桜桃は静かに立ち上がった。
衛兵の足音が、前と後ろで規則正しく響いていた。
桜桃は歩きながら、流れていく宮城の景色を眺めていた。これが見納めになるかもしれない、とはあえて思わなかった。
思わないようにした、というのとも少し違う。ただ、今それを考えても仕方のないことだった。
進むにつれ、柱の色が変わっていく。石畳には青々とした苔が増えていった。
宮城にこんな場所があったのか、と桜桃は思った。
驚くほど静かで、自分たちの足音が恐ろしいほど大きく聞こえた。前を行く衛兵と、後ろを行く衛兵と、自分の歩調。三人分の足音だけが、古い石畳に虚しく落ちていた。
ふわりと風が吹き、袖が揺れた。
季節はもう春が終わろうとしていた。処刑が決まったあの日からも、世界は変わらずに動き続けていた。
宮城には人が行き交い、定刻の鐘が鳴り、季節だけが着実に進んでいく。自分がここに閉じ込められていても、世界の営みは何一つ止まらなかった。
決して悔しくはなかった。それが当たり前のことだと分かっていたからだ。ただ、ただ不思議だった。
桜桃は、衣の下で拳を握りしめた。
すべてが終わったわけではない。
朝凪が動いている。昊夜が動いている。清明が動いている。そして刹那も、きっとどこかで動いているはずだ。
今の自分には、ただ歩くことしかできない。
やがて、古びた門が見えてきた。
衛兵が重い鍵を差し込む。鈍い音がして、門がゆっくりと開いた。
その向こうには、さらに歳月を経た古い道が、奥へと続いていた。
足を踏み入れながら、桜桃はふと立ち止まりそうになる衝動を、かろうじて堪えた。
ここには、何かがある。
直感的に、そう肌で感じた。根拠はどこにもない。
ただ、流れる空気が明らかに違っていた。時間の積もり方が、普通の場所とは決定的に違うのだ。
誰かが、気が遠くなるほど長い間、ここにいる。
そんな、濃密な気配の匂いがした。
辿り着いたその場所こそが、外界から隔絶された離宮だった。
***
執務室の前の回廊で、昊夜は足を止めた。
三歩後ろに控える千弦を振り返る。
「鷹は飛ばしたか」
「はい。近衛府の伝書鷹を。昨日には届いている頃かと」
「そうか」
それだけ確認すると、再び静かに歩き始めた。
千弦が足早に歩く昊夜の背中へ問いを投げかける。
「桜桃姫の離宮への移送を命じたのは、昊夜様ですか」
「そうだ」
「……理由を聞いてもよいですか」
「元皇女を牢に入れたままでは、貴族たちに言質を与える」
「言質、とは」
「元皇女を罪人として扱うことを、既成事実にさせないということだ」
千弦は、その意図を静かに理解した。
朝廷の貴族たちが桜桃を罪人として迅速に処断するつもりなら、牢に入れたままの方が都合がいい。
だが昊夜は彼女を離宮へ移し、あくまで「元皇女」としての待遇を守った。それだけで、処刑への流れと正当性はわずかに揺らぐことになる。
「……なるほど。でも、それだけですか」
千弦がさらに問う。
昊夜は少しだけ間を置いた。
「元皇女を、あんな薄汚い牢に入れておくのが、嫌だっただけだ」
千弦はしばらくの間、昊夜を見つめていた。やがて、絞り出すように言う。
「……無理やりにでも、処刑を止められないのですか」
「できない」
「なぜですか」
「私は、今も軍籍にある」
千弦は黙ってその言葉の先を待った。
「軍籍にある皇族には、法的な異議申し立て権が厳しく制限されている。もし強硬手段に出れば、それは軍部による朝廷への反逆と見なされるからだ」
「……そう、でしたか」
「だから、証拠で揃えるしかない」
千弦はその横顔を静かに見つめた。
酷く疲れている。まともに眠れていないのは、誰の目にも明らかだった。だが、その瞳の奥にある光にだけは、いささかの迷いもなかった。
「……承知いたしました」
千弦はもう、何も言わなかった。廊下の奥へ消えていくその大きな背中を、ただ静かに見送っていた。
***
日向は、帝都へ向けて山道を進む狄族の軍勢の前へ、ただ一人で歩みを進めた。その腰に、刀はない。
谷を埋め尽くすほどの兵が足を止める。
無数の槍の穂先が、一斉にその男へ向けられた。その列の最奥、馬上には族長が悠然と控えている。
「……来たか」
族長の唸るような声が響く。
日向は兵たちの先頭で足を止めると、静かに深く頭を下げた。
「俺は貴殿らを騙した」
その一言に、周囲の兵たちが波立つようにざわめく。
兵たちが日向を取り囲むように散開する。
族長は馬からおりると、怒気を押し殺した声で言った。
「お前は言ったな。長らく因州で預かっていた我が孫、琥珀を返す、と。」
日向は黙って頷く。
「そして言った。『和の国で最も神聖なる神祇官を送り届ける。これを機に、長き因縁へ終止符を打ち、和平の道を歩まぬか』と」
族長の声は一言一言に重い怒りが滲んでいた。
「我らは、お前の言葉を信じた。だからこそ、我らも覚悟を示そうと、神の前で婚姻を結ぶことを求めた。そして、お前たちはそれを受け入れた」
杖の石突きが、大地を強く打つ。
「だが送り込まれたのは、神祇官ではない。我らを滅ぼそうとした帝の血だ! その娘を花嫁として送り込んだ……我らを愚弄したな!」
怒号が山々に木霊し、兵たちも一斉に武器を鳴らして応える。殺気は限界まで高まっていた。
しかし、日向は微動だにしない。
「その通りだ」
否定も言い訳もせず、ただ静かに認める。
族長が一歩前へと踏み出した。
「……ならば、殺すまでだ」
「構わん」
族長が一瞬だけ日向の空いた腰を見た。日向は一歩も動かず、族長を見据えた。
「だが、その前に一つだけ考えてくれ。貴殿が今、帝都へ兵を進めればどうなる」
「知れたこと。和の国を焼き払う」
「できると思うか」
「……」
「奴らはこう吹聴するだろう。『狄族が反乱を起こした』と。そして五年前と同じように、今度こそ堂々と征伐の兵を送り込む」
族長の眉が、動く。
「貴殿らを滅ぼそうと画策した者は、誰一人傷つかん。狄族と朝廷を争わせることこそが、奴らの真の望みなのだ」
山風が二人の間を吹き抜け、緊迫した沈黙が場を支配する。やがて、族長がゆっくりと口を開いた。
「……黒幕がいると言うのか」
「ああ。俺は今、そいつを追っている。だからあの娘を連れ戻した。娘を救うためだけではない。貴殿らを、その争いへ巻き込みたくなかったからだ」
族長の瞳が鋭く細められた。
「結果として巻き込んだではないか」
「そうだ」
日向は静かに頷き、自身の覚悟を示すように背筋を伸ばした。
「だからこそ、こうして俺が来た。怒るなら俺を斬れ。だが、その怒りだけは帝都へ向けるな。今、兵を進めれば、貴殿らは再び『反乱軍』として歴史に刻まれることになる」
族長は黙したまま、日向を射抜くように見つめる。
日向もまた、族長を真っ直ぐに見返した。
「俺は、二度と狄族を反乱軍にはさせない」
張り詰めた空気が、長い静寂となって戦場を覆う。やがて族長は、杖を静かに下ろした。
「……証を見せろ」
族長の枯れた声が響く。
「黒幕を討った、その証を見せてみよ」
「……ああ。俺の首も預けよう。それまでは、この命を貴殿らの楔として使え」
その言葉は、冷え切った戦場の空気に重く溶け込み、族長の沈黙を支配した。
日向はそれ以上、何も語らなかった。
背を向け、ただ一人、夕闇の迫る帝都へと歩き出す。
背後から突き刺さる数千の視線。
しかし、もはやそこに殺意はなかった。あるのは、一人の男が背負った覚悟に対する、静かな畏怖とわずかな猶予。
兵たちの間が自然と割れ、日向の進む道ができる。
その背中は、どこまでも孤独で、けれど確かな決意に満ちていた。
ただ一つ、風だけが彼の外套を激しく鳴らしていた。
***
桜桃が連れてこられた離宮にはいくつかの建物が点在していた。
敷地の入り口には厳重に衛兵が立っているものの、敷地内にある一つ一つの建物の間は、比較的自由に行き来ができるようになっていた。
桜桃は、自らの足で一通りそれらの建物を見て回った。
その中の一つ。一際物静かな奥まった場所に、その建物はひっそりと佇んでいた。
古びた木の扉が見える。
打ち付けられた鉄の金具は赤茶けて錆びていた。だが、扉そのものは不思議ときちんと手入れが行き届いている。誰かが、今も定期的に手をかけている証拠だった。
そっと手をかけ、力を込めて押すと、軋みながらも扉が開いた。
桜桃は一歩、その中へと足を踏み込んだ。
室内は薄暗かった。
高い壁の一角に小さな窓が一つ。そこから斜めに差し込む頼りない光だけが、細い一筋の線となって床を静かに照らしている。
置かれている調度は少なかった。
寝台に、文机。そして小さな棚。
どれも質素なものばかりだったが、決して荒れ果ててはいなかった。
使われている――毎日、誰かが確かにここで生活している。そんな、人の温もりが残る空気がそこには満ちていた。
ただ、圧倒的な静寂だけが部屋を支配している。
桜桃はそっと室内を見渡す。
部屋の奥に、一人の人物が静かに佇んでいることに気づいた。
窓の方を向いて座っているため、見えるのは背中だけだった。
その白い髪が、窓からの細い光の中に浮かび上がっている。
桜桃は思わず息を止めた。
一歩も動けなかった。
白い髪。細く華奢な肩。
それなのに、背筋だけは凛と伸びている。
(誰だろう……)
頭で正体を考えようとした。なのに、思考が答えを導き出すよりも早く、胸の中で何かが激しく警鐘を鳴らした。
知っている。この人を知っている――。
そんな強い確信が押し寄せる。根拠など、どこにもない。まだ後ろ姿しか見えていないのだ。
それでも、桜桃の指先は小刻みに震えていた。
その時、奥の女が微かに動いた。
ゆっくりと、時間をかけるようにして、こちらへと振り返ろうとする。
桜桃は、息を呑んで、その姿を見つめた。




