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狂桜華《きょうおうか》~亡国の姫は、名を捨て帝を目指す~  作者: 澪
第六章 桜桃という名の罪【皇女断罪編】

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第五話 伝書鷹、舞い降りる

 因州。彪の執務室の窓辺へ、一羽の伝書鷹が静かに舞い降りたのは、翌日の夕刻だった。


 脚環に結ばれているのは、治部省の厳重な印。


「……清明殿からの返事か」


 彪は、目を通していた桜桃の助命を求める嘆願書の控えを机の隅に置いた。


 舞姫六花を救ってほしい――ここ数日、州府へ絶えず寄せられているその声をまとめ、中央へ送ったのはつい先日のことだった。


 彪は鷹の脚から素早く書状を外し、手際よく封を開く。


 だが、記された文字に目を走らせた瞬間、その端正な顔立ちが小さく引き締まった。


「……いや」


 その荒々しくも力強い筆跡には、見覚えがある。


「――刹那か」


 彪はしばらく、その行間を辿るように文を見つめていた。それから、静かに窓の外へ目を向ける。


 雲の低い空だった。


 全てが書かれているわけではない。だが、書かれていない真実こそが読めた。長く生きていれば、そういう読み方が自然と身につくものだった。


 彪はゆっくりと立ち上がった。


 因州の屋敷に戻り素早く支度を済ませると、屋敷を出る。供回りは三人だけにとどめた。無用に目立つ必要はない。


 都である天澄へ向かう前に、寄るべきところがあった。


 因州と備州の狭間、荒涼とした大地に狄族の集落が広がっている。


 その入り口で、彪は馬を止めた。見張りの男たちが、無言で鋭い槍の穂先を向ける。


「白蔵の彪だ」


 男たちが顔を見合わせ、一人が奥へと駆けていった。しばらくして戻ってきた男の表情は硬い。


「……族長様は帝都へ向かわれました」


「帝都へ?」


「はい。和の国へ抗議すると仰って」


 嫌な予感が激しく波打った。彪は即座に問いかける。


「琥珀はいるか」


 案内された天幕の奥から現れた琥珀は、彪の姿を見るなり驚きに目を見開いた。


「彪?」


「急ぎだ」


 彪は前置きもなく切り出す。


「帝都で騒ぎが起きている。六花……いや、桜桃姫が捕らえられた」


「……日向の約束の日まで匿えず、返したからか」


「それもあるが、婚姻を拒んだことが、罪の一つに挙げられている」


 琥珀が激しく一歩踏み出した。


「婚姻を拒んだだと?」


「朝廷は、狄族との縁談から逃げたと吹聴している」


「違う!」


 琥珀の声が怒りに震えた。


「六花を勝手に返したのは俺だ」


「だから来た」


 彪は琥珀を真っ直ぐに見据えた。


「その事実を証言できるのは、お前しかいない。刹那からも文が届いている」


 彪が懐から差し出したのは、事態の切迫を物語る一枚の文だった。


「処刑まで時間がない。頼む、力を貸してくれ」


 しばしの沈黙の後、琥珀は短く頷いた。


「……分かった」


 その時だった。見張りの男が立ちはだかる。


「お待ちください。族長様より仰せです。ハク様をこの集落から一歩も出すな、と」


 天幕の空気が凍りつく。琥珀は静かに息を吐き、見張りの男へ毅然と向き合った。


「……悪い。俺は行く」


「ですが……!」


「じい様は怒っている。だからこそ、俺が行くんだ」


 琥珀の瞳には、一切の迷いがない。


「もし、じい様が戻ってきたら。帝都へ向かったと伝えてくれ」


「しかし!」


「頼む」


 短い言葉に、見張りの男は圧倒されて言葉を失った。

 彪は、刹那の文に書き添えられていた一文を思い出し、琥珀に伝える。


「琥珀、密告書を持ってきてほしい」


「密告書……?」


 琥珀が怪訝そうに眉をひそめる。


「言えば分かる、と刹那は書いているが」 


「……いや、分かる」


 それが何に使われるのか、琥珀は深くは問わなかった。ただ、一刻の猶予もないことを悟り、迷うことなく密告書を取りに天幕の奥へと消えた。


 ***


 翌朝、集落の入り口に、彪と琥珀が並んで立っていた。


「行くか」


「うん」


 因州の街道を、都の天澄へ向かって走り始める。


 生ぬるい風が後ろから吹き抜けた。ようやく慣れてきた集落の景色が、少しずつ遠ざかっていく。


 琥珀は一度も振り返らなかった。ただ、真っ直ぐに前だけを見据えていた。


 琥珀は彪の隣に馬を並べて進む。最初から、不満のひと言も口にしなかった。行くと言ったら行く。昔からそういう子だった。


 だが、今日は少し違う気がした。いつもより口数が少ない。いつもより、頑なに前を見つめている。


 彪はしばらく黙って走らせていたが、やがて横目で琥珀の様子を窺った。


「……緊張しているか」


「していない」


「そうか」


 琥珀はそれ以上言わなかったし、彪も深くは追わなかった。していない、と言いながら、手綱を握る琥珀の指先が少し白くなっている。彪はそれを見なかったことにした。


 道は延々と続く。しばらく二人とも黙ったままだった。 

 やがて、琥珀がぽつりと口を開いた。


「……彪は、俺が狄だってこと、六花に言ってなかっただろ」


「ああ」


「なんでだ」


「言う必要がなかった」


「そうだよな」


 彪が琥珀を見る。


「何が言いたい」


「別に」


 琥珀は前を向いた。


「名前を隠して生きなきゃならないことくらい、俺も知ってるってだけだ」


 琥珀はしばらく道を見つめていた。馬の蹄が、乾いた土を踏み鳴らす音が規則正しく続く。


 馬の蹄が、乾いた街道を一定の調子で叩いていく。


『目の前で苦しんでいる人を、私は全員救いたい』


 ふいに、因州の夕暮れが蘇った。


 石段に三人で並んで座って、暮れていく空を眺めていた。


『贅沢だな』


『うん、贅沢』


『二人して言わなくていいです』


 あのときは、互いを何も知らなかった。


 桜桃が狄族殲滅を命じた帝の娘だということも、刹那がかつて狄族との戦にいたことも琥珀は知らなかったし、逆に二人は、琥珀が滅ぼされる側にいたことも知らなかったはずだ。


 何も知らないまま、三人で夢を語った。


 桜桃は、目の前にいる者を全員救いたいと言った。


 刹那は、戦のない場所で、いい女と所帯を持って、朝起きて飯を食って、日が暮れれば眠るような暮らしがしたいと言った。


 そして自分は、国中を見て回りたいと言った。


 あのとき三人の間には、和平のための婚姻も、国同士の取り決めもなかった。


 ただ同じ夕暮れを見ながら、くだらないことで笑っていた。


 琥珀は手綱を握り直した。


 彪は前を向いたまま、静かに告げた。


「……来てくれてよかった」


「断る理由がない」


 彪は何も言わなかった。ただ、その言葉を静かに受け取った。


 やがて前方に、街道から外れて山中へと続く細い道が見えてきた。


 彪は手綱を引いた。


「急ごう」


「もう急いでるだろ」


「足りない」


 彪は街道の先ではなく、険しい尾根へと続く細い道へ馬首を向けた。


 琥珀が山影を見上げる。


「そっちか」


「尾根を越える。街道を回っている時間はない」


「馬で行けるのか」


「途中まではな」


「その先は?」


「引いて越える」


 琥珀はしばらく険しい尾根を見上げていたが、やがて手綱を握り直した。


「分かった。行こう」


 彪は頷き、馬の腹を蹴った。


 二頭の馬は街道を外れ、木々の間へと消えていった。


 ***


 茉莉の元に知らせが届いたのは、早朝のことだった。

 茉莉は部屋で刺繍の途中だった。


 侍女が酷く改まった顔で入ってきた瞬間、何か嫌な報せがもたらされたのだと直感した。嫌なことが来る時の人間の顔というのは、大体決まっている。


「……何ですか」


「斎宮様に、謹慎をお命じするとのことでございます」


 茉莉は動かしていた刺繍針をぴたりと止めた。


「なんで」


 侍女は気まずそうに目を伏せた。


「神域への……男の立ち入りが、発覚いたしまして」


 部屋に重い沈黙が落ちた。茉莉はしばらく、手元の針をじっと見つめていた。


「……ああ、ついにばれたの」


「斎宮様!」


 侍女が驚きのあまり目を丸くした。


 茉莉は諦めたように針を置いた。


「ばれるとは思ってたのよ。でもまあ、もう少しは持つかなって」


「そういう問題ではございません」


「問題なのは分かってるわよ」


 茉莉は膝の上でぽんと手を重ねた。


「斎宮、嫌だったのよ」


 侍女は何も言えず、黙って聞いていた。


「縛られてるし、外へも出られないし、会いたい人にも会えないし」


「……はい」


 侍女が沈痛な面持ちで言葉を続けた。


「謹慎の後は……斎宮の交代が、検討されております」


「交代か」


「はい」 


「まあ、そうなるわよね」


 茉莉は窓の外、日が昇りはじめる空を見つめた。


「嫌だったけど……こんな形で終わるとは思ってなかったな」


 嫌だった。窮屈で仕方がなかった。それでも、この、斎宮という重い役目が、まぎれもなく自分のものだったのだ。それが、こんな形で手元から零れ落ちていく。


 侍女はまだ何か言いたそうな顔をしていたが、茉莉はそれに気づきながらも、別のことに思考を巡らせていた。


 あの時の、桜桃の声が頭の中に鮮明に蘇る。


『密通罪として、深黎様は最悪その場で斬られるかもしれません』 


 あの夜、彼女はそう言っていた。


「……なぜばれたの?」


 侍女が少し困惑した顔を浮かべた。


「調べが入りまして」


「誰が調べたのよ」


「桜桃姫の件で、宮中全体に詮索の手が」


 茉莉の視線が鋭く止まった。


「桜桃姫?」


「はい。六花という名で神祇官をされていた方だそうで、その方が今、捕らえられておりまして……」


「六花さんが捕まった!?」


「はい。男を神域に手引きした罪も、含まれていると」


 侍女はそこで、小さく畳まれた書状を差し出した。


「こちらは今朝、宮中より届いたものでございます」


 茉莉は書状を受け取り、封を開く。内容は簡潔だった。


 桜桃の罪状『斎宮への不法な男の手引きに関与した罪』

 斎宮は当面謹慎。

 以上。


 そこまで読み終えたところで、茉莉の視線がふと、書簡の封蝋へと吸い寄せられた。


 そこには、重々しい近衛の鳳桜紋が刻まれている。


「……これ、近衛府から届いたの?」


「はい。今朝、伝書鷹が参りました」


「……鷹?」


「はい。脚には近衛府の脚環が付いておりました」


 茉莉は開かれた書状へ、もう一度鋭い視線を落とした。


「……おかしいわね」


「え?」


「ただの謹慎を申し渡すだけなら、わざわざ鷹を使うまでもない。使者の手渡しで十分でしょう」


 侍女は答えに窮し、ただ小さく首を横に振った。

 茉莉は書状を指先で強く握り締める。


「近衛がわざわざ伝書鷹を使うなんて――一刻を争う非常事態の時だけよ」


 言い知れない嫌な予感が、茉莉の胸を冷たく締めつけていく。


 一刻を争う非常事態。斎宮への謹慎を命じる書状にわざわざ桜桃の罪状を書いた意味。


「……六花さん」


 その名を口にした瞬間、茉莉は弾かれたように顔を上げた。


「違う……まさか、六花さんを処断する気なんじゃ……っ!」


「え……?」


 侍女の絶句する声を置き去りにし、茉莉の顔色から血の気が引いていった。


「男を手引きって、深黎が勝手に中に入ってきただけで、六花さんは何も関係ないんだけど!」


「斎宮様、お静かに! 今は謹慎中でございます」


「だから、関係ないって言ってるのよ!」


「外へは出られません」


「深黎はどうなるのよ!?」


 侍女は言葉に詰まり、答えられなかった。


「それは……相応の裁きを受けることに、なるかと」


 茉莉は真っ直ぐに侍女を見た。侍女は耐えかねたように目を伏せる。その重い沈黙こそが、最悪の答えだった。


 茉莉は迷うことなく扉へと向かった。


「斎宮様! 謹慎中でございます!」 


「分かってるわよ」


「お出になれません!」


「六花さんが私のせいで捕まってるのよ!」


「ですが……!」


「深黎も裁かれようとしてる」


 茉莉は力強く扉に手をかけた。


「私に、ここでじっとしていろって言うの?」


 侍女は必死にその前に立ち塞がろうとした。茉莉は、行く手を阻む侍女の目を真っ直ぐに見据える。


「止めるなら、体で止めなさい」


 その気迫に圧され、侍女は動けなくなった。


 茉莉は勢いよく扉を開け、廊下へと飛び出した。


「あーもう!」


 小声で激しく呟く。


「浅はかだったわ、私」


 その顔には、自分の至らなさに対する後悔と反省の色が滲んでいた。 


 だが、その足が止まることは、決してなかった。


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