第三話 元近衛大将、命令する
『狄族が怒り狂い、国境を越え始めようとしている』
桜桃を連れ帰ったとき、朝凪の頭にあったのは、ただ彼女を守ることだけだった。
だが、連れ帰った結果、彼女は処刑台へ送られようとしている。狄族は憤り、国境へ兵を集めた。自分の選んだ一つの決断が、間違いだったのではないか。
(私が連れ帰ったから……)
自責の念に駆られながら宮城の門をくぐった時、背後から荒々しい足音が響いた。振り返れば、そこに日向が立っていた。
日向は迷いのない足取りで朝凪に近づき、手を差し出す。
「朝凪。今、分かっている情報をすべて見せろ」
朝凪は驚きつつも、桜桃から預かった書状を懐から差し出した。
「……どうするおつもりですか」
日向は書状に目を落としたまま、短く言い放つ。
「狄族は俺が止める」
朝凪は目を見開いた。日向は淡々と続ける。
「あのまま狄にいたら、桜桃様は間違いなく殺されていた。お前は、お前のやるべき役目を果たした。……だから今度は、俺が俺の役目を果たす」
その揺るぎない言葉に、朝凪の肩から重苦しい力が抜けた。日向は書状にざっと目を通すと、それを朝凪に押し返す。
「清明には俺から話を通す。今あるその情報を整理し、すべてを暴くための準備をしろ」
その声には、一切の迷いがなかった。それは命令だった。近衛中将だった頃、幾度となく耳にした、絶対に従うべき上司の声。
考えるより先に、朝凪は反射的に右手を刀の柄に添えていた。
「御意」
言葉を発した瞬間、朝凪自身が小さく目を見開く。もうお互いに正式な近衛の身分ではない。それでも、その身体はあの頃のままに忠実に動いていた。日向はそれを見て、口元を緩める。
「まだ、身体から抜けてないな」
「……はい」
そのとき、静まり返った回廊の影から、もう一つの重い足音が近づいてきた。
日向はそのまま、朝凪の背後へと視線を向ける。
「昊夜、今の話は聞いていたか」
「はい」
「お前は、桜桃様の処刑日を一日でも遅らせ、評定の間を開けさせろ」
「承知した」
日向は短く頷き、その視線が、昊夜から朝凪へと静かに移る。
互いに多くを語ることはない。それでも、それぞれが自分の役目を理解し、迷いなく前を向いていた。
日向の目元が、ほんのわずかに緩む。もう指示を与え続ける必要はない。
かつて共に戦った二人は、それぞれ自分の戦場を見つけていた。
「頼んだぞ」
それだけを残し、日向は踵を返した。
日向の背中が闇の中へと遠ざかるのを見送ると、朝凪は日向に返された書状を昊夜へと差し出した。
内容を一瞥した昊夜の瞳が、見開かれる。
「……狄族の反乱が、雲英によって仕組まれていた……だと?」
「ああ。雲英を完全に追い詰める。そのためには清明様や彪殿にも協力を仰ぐ必要がある」
昊夜はしっかりと文書を閉じ、重々しく頷いた。
「分かった。私が何が何でも時間を稼ぐ」
「頼む」
昊夜はちらりと朝凪の顔を見る。
「……お前は、これからどう動く」
「証拠を整理して、評定で崩せる形に組み立てる」
朝凪はそっと目を伏せた。
「……姫様は、絶対に死なせない」
昊夜は、その呼び方に一瞬だけ目を見開いた。
『姫様』
朝凪が、昊夜が知る「六花」を自分の前で明確にそう呼ぶのを聞いたのは初めてだった。
六花と呼び続けていた男が、迷いなく「姫様」と口にした。
その瞳は、あの日まで近衛中将として皇女を守り続けた、かつての朝凪そのものの意志が宿っていた。
昊夜はゆっくりと息を吐き出す。
「……分かった」
昊夜は踵を返し、何も言わずにその場を離れていく。
朝凪は、その背中が見えなくなるまで視線を外さなかった。
同じものを守ろうとしている。それだけは、確かだった。
***
日向は、治部省にある清明の執務室の襖を勢いよく開けると、懐から一冊の書を取り出した。
「清明」
静かに顔を上げた清明が、手渡されたそれを一瞥する。
「これは」
「如月が隠していた系図を元に探した書だ。紫雲家に関する記述を洗い出してくれ」
清明は無言で受け取ると、ゆっくりと頁をめくった。
「あなたは?」
「俺は狄族へ行く。国境警備隊には、狄族の進軍を阻止するなと伝えろ」
「狄を帝都の近くまで引き入れるおつもりですか」
「ああ」
「国境の関門で足止めすれば済む話では」
日向は険しい顔のまま、静かに首を横に振った。
「国境で睨み合っていても、何も解決しない。ただし、街道からは逸らすな。村には近づけさせるな」
「小競り合いまでは避けられませんよ」
「それでも、こちらから刃を交えるな。一度でも朝廷軍が攻勢に出れば、族長と話す前に戦になる」
再び、重い沈黙が執務室を支配した。
やがて清明は静かに目を閉じ、覚悟を決めたように小さく息をついた。
一冊の書を胸元へ抱え、静かに頷く。
「分かりました。朝廷軍を動かさないよう暁殿には私から伝えます」
「頼んだ」
日向はそれだけ言い残すと、執務室を飛び出した。
外に出るやいなや馬に飛び乗り、乾いた街道を激しく打ち鳴らしていく。
日向は一度も振り返らなかった。
狄族が帝都へ向けて兵を進めるなら、三日もあれば落ち合えるはずだ。
(……往復六日)
日向は無意識のうちに、手綱を握る手に渾身の力を込めた。
昊夜が、あと何日、桜桃の処刑を引き延ばせるか。
その猶予は刻一刻と削られている。
だが、日向がそれ以上に恐れていたのは、狄族と朝廷軍が無駄に刃を交えることだった。
狄族との和平を持ちかけたのは自分だ。
桜桃を送り、その身分を伏せたのも自分だった。
ならば、この事態を収める責任も自分にある。
朝廷軍と狄族を、これ以上自分の判断に巻き込むわけにはいかなかった。
今はただ、一刻でも早く族長と話をしなければならないということだけだった。
***
回廊に戻った昊夜の足音は、いつもより確実に速かった。彼の苛立ちと焦燥を証明するかのように、重い靴音が周囲の壁に反響する。
廊下の先に、執務室が見えてくる。その三歩後ろを、千弦が静かについてきていた。
しばらく無言で歩いていた千弦だったが、周囲に人気がないことを確かめると、昊夜の背中に向かって静かに口を開いた。
「処刑の議決を覆すには、時間が必要です」
「分かっている」
「ですが貴族たちは急いでいます。長く待たせれば、強硬手段に出る者が出るかもしれません」
「出るだろうな」
「どうするつもりですか」
昊夜は乱暴に執務室の襖を開けた。
室内に入ると、広大な文机の上にうずたかく積み上がった書簡の山が真っ先に目に入る。
処刑要求。再議の申し立て。各名門貴族の家々からの執拗な圧力。
昊夜はその忌々しい紙の山を一瞥してから、静かに言った。
「時間を稼ぐ」
「どうやって」
「使えるものは、全部使う」
昊夜は文机へ向かって歩を進めながら、淀みなく続けた。
「証拠不十分による刑部の引き延ばし。不審な点の再調査の継続。さらには陛下の急な病状悪化による決議の一時保留」
一枚の書簡を手に取り、視線を落とす。
「加えて、狄族との国交問題だ。桜桃元皇女の婚姻破棄を受け、国境では緊張が高まっている。この状況で拙速な処断を行えば、外交問題はさらに悪化する」
「それだけでは、いずれ限界が来ます」
「来る前に終わらせる」
「終わらせる、とは……具体的に何をなされるおつもりですか」
「雲英を追い詰める。あの男がこの流れを仕組んでいたとしたら、あの男が終われば流れが変わる」
千弦は少し間を置いた。その瞳に、冷静な危惧の色が浮かぶ。
「……しかし、証拠は揃っているのですか」
「清明殿と彪殿に協力を仰ぐ」
「因州から帝都まで六日程かかります」
「だから、何をしてでも時間を稼ぐと言っている」
昊夜は書簡を開いたまま、視線を千弦へと向けた。
「花梨が、あの夜の現場を見ていた」
千弦は、昊夜の引き締まった横顔をじっと見つて、続きを待った。
「雲英が深黎に命じていた。時間を稼げ、とな。その命令を下す声を、花梨がはっきりと聞いている」
「ですが、身内の証言だけでは、評議の場で貴族たちを納得させるのは困難かと」
「証言だけで十分に叩き潰せる、言い逃れのできない場を作る」
「……どんな場、ですか」
昊夜は視線を再び手元の書簡へと戻した。
「関係者全てが集まる場──評定の間だ」
それだけを冷たく告げると、昊夜は硯で墨をすり、筆を取った。
千弦はそれを聞いて、一度深く頭を下げかけた。
「千弦」
昊夜が、不意に筆を動かす手を止めた。
「雲英はお前の上司だろう」
千弦の表情は、変わらなかった。
「はい。私は内舎人ですので、中務省所属です」
「報告は雲英に上げているのか」
「はい。雲英様に定例の報告はしております」
「……何を報告した」
「昊夜様の動向について尋ねられれば、私が知っている範囲内でお答えしております」
昊夜の筆が、今度は完全に止まった。室内の温度が一段と下がったかのような錯覚を覚える。
「何か変わったことを聞かれなかったか」
「……変わったこと、ですか」
千弦は、記憶を遡るように少しだけ考える顔をした。
「特に、変わった質問だとは思いませんでしたが……」
「思い出せ。些細なことでも構わん」
千弦はしばらく沈黙していたが、やがて思い当たったように口を開いた。
「……地方視察のとき、誰が同行していたかを細かく聞かれました。因州や、羽州の時、武州の時も同様です」
「誰が、とは」
「近衛の誰が随行していたか、誰が現地にいたか。そういったことです」
昊夜は何も言わなかった。ただ、筆を握る指先に力が入る。
千弦は淡々と続けた。
「特に……六花さんと朝凪さんの名がよく出ていたように思います」
部屋の空気が、一瞬にして完全に変質した。
昊夜はゆっくりと、持っていた筆を文机の上へと置いた。
自分の動きが敵方に筒抜けになっていた――それだけなら、まだこちらの想定の範囲内であり、いくらでも手の打ちようはあった。
だが――雲英は、あの二人のことまで、とうの昔に詳細に把握していたのか。
神祇官として各地を巡る、素性の知れない舞姫。
そして彼女に寄り添う元近衛中将。先帝の御代において、桜桃の専属護衛を務め、八重御所の変の夜に姿を消したはずの男――朝凪。
雲英なら、気づく。
真実に誰よりも早く。あの執念深い男なら。
(――一体いつから気づいていた……?)
因州の雨乞いの時か。
いや、もっと前、彼女が「六花」として宮廷に足を踏み入れたその瞬間からかもしれない。
最初からすべて、あの男に監視されていたというのか。
昊夜は、目の前に広がる忌まわしい書簡の山を睨み据えた。
千弦は、主君のただならぬ気配を察し、少し間を置いてから問いかけた。
「……何か、ありましたでしょうか」
昊夜は無理やり思考を現実に引き戻し、視線を再び書簡へと戻した。
「いや、何でもない」
千弦はしばらく昊夜の様子を窺うように見ていたが、彼がそれ以上の開示を拒んでいることを察し、それ以上は何も聞いてこなかった。
一礼して、静かに下がっていった。
昊夜は筆を持ったまま、しばらくの間動かなかった。
冷たい窓の外を、一度だけ、強い眼差しで見やった。
その視線の先にあるのは、あの薄暗く凍てつく牢獄がある方角だった。
彼は再び目の前の書簡へと視線を落とした。
止まっていた筆が、再び紙の上を激しく滑り出す。
宮廷の奥深くで静かな夜が、じわじわと更けていった。




