第二十五話 仕組まれた罠
――その時だった。
集落の外から、夜を引き裂くような叫び声が響く。
「姫様――っ!!」
全員の視線が、一斉に扉の方へと向いた。
バァン、と木の扉を叩き割るような勢いで押し開け、朝凪が室内に飛び込んできた。
不眠不休で馬を駆り、険しい獣道を夜通し突破してきたのだろう。その息は激しく上がっており、いつも整えられている髪はひどく乱れ、全身に泥や埃をかぶっていた。
それでも、その目はまっすぐに桜桃だけを見据えていた。
「朝凪……!」
「ご無事ですか!」
「無事、だけど――今、ちょっと大変なことになっていて」
「見れば分かります」
朝凪は瞬時に室内の状況を鋭い眼光で見渡した。
激昂する族長、突きつけられた書状、そして桜桃の身体を拘束している男たち。
朝凪の右手が、静かに腰の刀の柄へとかけられる。
「その手を、今すぐ離してください」
族長は朝凪を鋭い目で見つめ、微動だにしなかった。
「赤髪。神を冒涜した大罪人を、不届きにも匿おうというのか」
「この方が名を偽ったのは、あなた方を欺くためではありません」
朝凪の声が鋭く響いた。
「皇女であると知られれば、殺されるからです」
「朝凪……」
「姫様は謀反の日から、死んだ者として生きてきた。六花という名でなければ、生きることすら許されなかった」
琥珀は目を大きく見開き、桜桃を見た。
──六花。
ずっと、そう呼んできた。
騙されたのだと思った。
だが、違う。名乗れなかったのだ。
琥珀も、ハクという名を持ちながら、因州では琥珀として生きた。
誰かを騙したかったわけではない。ただ、生きていくために必要だった。
彼女も、同じだったのだ。
琥珀が素早く族長と朝凪の間に割って入った。
「じい様」
「ハク、お前も下がれと言っている。これは一族の誇りの問題だ」
「この女の夫となるのは俺だ!」
「だから下がれと言っているんだ!」
族長の瞳は、今夜ばかりは鋭い刃のようだった。身内の言葉すら一切通じない。
琥珀は族長をじっと見つめていたが、やがて一拍、また一拍と間を置いてから、ゆっくりと桜桃の方を向いた。
二人の目が真っ直ぐに合う。
琥珀の瞳が、無言のまま激しく何かを訴えかけていた。
(行け。今すぐここから逃げろ)
そう、確かに言っていた。
「琥珀――」
「いいから」
短く、拒絶するような声で琥珀は言った。
「じい様はこうなったら、もう誰の聞く耳も持たない」
不穏な空気を感じ取った族長の周りの男たちが、朝凪を排除しようと動き出す。その瞬間、琥珀が桜桃の腕を掴んでいた男の手首をがっしりと掴み取った。
秘められた凄まじい力に、男の腕から一瞬にして力が抜ける。
「あんたら、先に帰れ」
琥珀は朝凪を真っ直ぐに見た。
「あとは、この集落の人間である俺が何とかする」
「しかし――」
「六花」
不意に名を呼ばれ、桜桃が琥珀を見る。
「帰るために、その名前で生きてたんだろ」
桜桃の目が見開かれた。
琥珀はそれ以上何も言わず、族長たちへ向き直る。
「俺が何とかする。だから行け」
朝凪はしばらくの間、その少年の確かな覚悟をじっと見つめていた。
それから、すぐに桜桃の元へと駆け寄り、その小さな手をしっかりと握りしめる。
「……姫様、行きましょう」
桜桃は走り出す直前、もう一度だけ琥珀を見た。
琥珀はすでに族長たちの方を向き直っており、桜桃に見せていたのは、その小さな背中だけだった。あまりにも小さく、けれど誰よりも頑なな背中。
「……琥珀」
呼びかけたが、返事はなかった。
「また、必ず来るから」
「来なくていい」
「いいえ、来るわ」
その言葉に、琥珀の肩が震えた。
見せた反応はそれだけだった。
朝凪が桜桃の腕を強く引き、二人は破られた扉を飛び出した。
凍てつく夜の集落を、手を繋いだまま全力で駆け抜ける。集落の外れには、一本の木に一頭の馬が繋がれていた。朝凪がここまで乗ってきた馬だ。
「乗れますか」
「乗る!」
「しっかり、掴まっていてください!」
朝凪が手綱を引くと、馬は夜の闇が深い山道へと猛然と駆け出した。
遠ざかっていく集落の松明の灯りが、またたく間に視界の端へと消えていく。
桜桃は、二度と後ろを振り返らなかった。
ただ、自分たちを逃がすために盾となった琥珀のあの小さな背中だけが、いつまでも彼女のまぶたの裏に焼き付いて離れなかった。
***
山道を、馬が激しく駆けていた。
原生林の木々の隙間から、満天の星が冷たくまたたいている。
朝凪は桜桃を自分の前へ乗せ、手綱を握った。
山道の揺れに桜桃の身体がふらつくたび、朝凪は腕でそっと支えた。容赦なく吹きつける夜風が、桜桃の髪を乱し、頬を冷たく叩く。
「どういうことなの……。誰かが、私を陥れようとしたってこと?」
朝凪は前を見据えたまま、手綱を握る手に力を込めた。
「そうだと思います」
「なんで……なんでそんなことを……」
その問いに、すぐの返事はなかった。ただ、馬の蹄が土を蹴る鈍い音だけが響く。
「あの書状を狄族の集落へ送った人間が、どこかにいます」
朝凪の声は、風に消されそうなほど静かだった。
「ですが、それが誰かまでは、まだ分かりません」
桜桃はなす術もなく、馬の規則的な揺れに身を任せた。
(誰かが。わざと。なぜ今になって、私をあんな目に遭わせる必要があったの?)
頭の中が、濁流のようにぐるぐると渦巻いていた。
「……私が皇族だってことが、誰かにばれてるってこと?」
朝凪は一拍、重い間を置いた。
「……少なくとも、あの書状を送った者は、すべてを知っています」
桜桃は衣の合わせの隙間で、香袋をもう一度強く握りしめた。
(知っている者がいる。私が表舞台から消えた元皇女だと。そして、それを利用して今回の狄族との婚姻を内側から引き裂いた……)
朝凪はさらに馬を急かした。
「今は考えても答えは出ません。まずはここを脱出します」
桜桃も、これ以上の追及を意識して思考の横へと置いた。いま取り乱しても始まらない。
だが、考えるべきことは、他にあった。
木々の隙間から覗く空が、濃紺から淡い灰色へと少しずつ白み始めていく。夜が明けかけていた。
桜桃は朝凪の前で揺られながら、どうしても頭の中の雑音を静めることができなかった。
和風化政策を受け入れようとしていたはずの狄族が、偽りの書状に騙され、絶望のなかで戦へと突き動かされたという事実。
「……あの狄族の反乱は、最初からすべて仕組まれていたと思う」
朝凪の声が、わずかに、けれど確かに強張った。
「……どういうことですか」
「族長が、帝都の者から手渡されたという密告書を持っていたの。そこには『帝が狄族を殲滅する兵を挙げた』と書かれていた。だから彼らは生き残るために立ち上がり、結果として戦になった。でも本当は、狄族は和風化政策を受け入れようとしていたのよ」
「……」
「誰かが偽の密告書を作って、両者をわざと衝突させたの。和の国と、狄族を」
朝凪はしばらく答えなかった。桜桃もそれ以上は言葉を重ねず、ただ通り過ぎていく朝の冷気を感じていた。
やがて、朝凪は視線を落としたまま、静かに口を開いた。
「……前線にいた私たちは、ただ、向かってくる標的を斬るしかなかった」
声は穏やかだった。穏やかすぎて、かえってその底にある血の匂いと重苦しさが生々しく伝わってくる。
「狄族は、まるで狂ったように剣を振るってきた。ただこちらの命を奪おうと……」
朝凪はそこで言葉を止めた。続きは言わなかった。だが、桜桃には痛いほど分かった。その沈黙の先に、どれほどの地獄があったか。
(もし、あれが本当に国に牙を向いた『反乱の軍勢』ではなく――)
朝凪は目を伏せた。
ただ、自分たちの家を、子供を、家族の命を守ろうとしていただけの、追い詰められた人々だったとしたら。
その問いは、これまで何度も朝凪の頭をよぎっては消えていったものだった。よぎるたびに、彼は自らの心を殺してそれを奥底へ押し込めてきた。そうしなければ、あの凄惨な戦場で刀を振り抜くことなどできなかったからだ。
かつて、日向が漏らしていた言葉が、今も耳に残っている。
『狄族反乱の記録は、あまりにも隙が無さすぎる』
戦況の報告も、狄族が不穏な動きを見せていたという物証も、すべてが都合よく綺麗に揃いすぎていた。だからこそ、当時は誰も疑わなかった。帝の命令が下った時も、実直な朝凪でさえも。
「……」
朝凪は何も言わなかった。ただ、押し殺した声で少しだけ口を開く。
「日向殿が言っていたことがあります。『記録が綺麗すぎる』と」
桜桃はその短い一言の重みを、静かに受け取った。
馬の蹄が、湿った山道を踏みしめる音が変わらず続いていく。朝の光が木々の間から一筋、また一筋と差し込み、二人の行く手を照らし始めていた。
「……書庫を調べました」
朝凪の言葉に、桜桃はハッとして顔を上げた。
「二つの異なる帳簿の記録。矛盾していた人物。そして、その後なぜか完全に抹消されていた名前」
「ええ」
「その消された者たちの身元を追跡したら、分かりました」
「何が……?」
「消えた者たちは全員――あの殲滅戦に対して、不信感を抱いていた人物たちでした」
桜桃は、思わず小さく息を呑んだ。
「なぜ戦になったのかと上層部に問うていた者。あるいは、いくら反乱とはいえ、女子供まで容赦なく殺し尽くす殲滅戦はやりすぎだと周囲に漏らしていた者。そうした声を挙げる者たちの動きが、何者かの手によって隠されていたのです」
「隠されていた……」
「はい。あの矛盾した記録のズレは、強引に存在を隠そうとした、その痕跡だと思います」
「……その、疑問を持っていた人たちは、今どこにいるの?」
「全員、あの『謀反の夜』に、どさくさに紛れて姿を消しています。おそらくは――」
桜桃はしばらく言葉を失い、黙り込んだ。
木々の間から溢れる朝の光が、二人の疲弊した横顔を容赦なく照らし出していく。
「……殲滅戦に疑問を持った者たちが、誰かによって集められ、謀反を起こす駒として使われた、ということ?」
「……その可能性はあります」
二人の間に、静寂が落ちた。
風が吹き、頭上の木の葉がざわざわと音を立てて揺れる。
「……謀反の首謀者は深黎かと思いました」
桜桃が顔を上げた。
「え?」
「殲滅戦の生き残りなら、動機はあります。仲間を失った怒りを、三年かけて宮廷の中で熾し続けることは、できない話ではない」
「……でも」
桜桃は少し迷ってから言った。
「深黎は、茉莉様を助けようと動いていると思う」
「……けれど、深黎は謀反を調べていた如月殿を殺しています」
桜桃は黙った。その先は、どちらも口にしなかった。
「反乱を仕組んだ人物も、まだ見えません」
「……そっちは、帝都に戻ったら確かめたいことがあるの」
朝凪は、馬の手網にしがみついている桜桃の頭に視線を落とした。
「姫様。本当に、宮廷へ戻りますか」
桜桃は振り返った。
「姫様の正体を狄族へ知らせた者が、宮廷にいます。戻れば、今度は何を仕掛けてくるか分かりません」
朝凪は一度言葉を切り、桜桃をまっすぐに見つめた。
「今なら、まだ逃げられます」
桜桃はしばらく黙っていた。
このまま帝都へ戻らず、誰にも知られぬ場所へ行くこともできるのかもしれない。
けれど、それでは何も分からないままだ。
「戻るわ」
桜桃は前を向いた。
「調べなければならないことがあるもの。それに、逃げたところで、きっとまた見つかる。だったら私は、何が起きているのか知りたい」
「……もう、六花ではいられませんよ」
その言葉に、桜桃は胸元へ視線を落とした。
二年もの間、自分を守ってくれた名だった。
やがて桜桃は顔を上げる。
「ええ。戻るわ。咲宮桜桃として」
朝凪はしばらくその横顔を見つめていたが、やがて小さく頷いた。
「分かりました」
「……危険なことになるかもしれないけど、一緒に、調べてくれる?」
朝凪は少し間を置いた。だが、その声に迷いは一切なかった。
「最初から、そのつもりです」
桜桃は、胸の奥の支えが少しだけ軽くなったのを感じ、小さく息を吐いた。
馬は確実に、険しい山道を下り、平地へと進んでいく。
空はすっかり明るくなっていた。
探している答えは、まだ何一つとして手元にはない。だが、自分たちが今、あの闇の核心へと確実に近づいていることだけは、肌に刺さるような確信となって桜桃の心に刻まれていた。




