第二十六話 黒幕は
八日後、ようやく見慣れた帝都の巨大な正門が見えてきた。
長旅と不眠不休の隠密行の果て、馬も二人も限界を迎える寸前だった。
その門の前に、ぽつりと立つ人影があった。刹那だった。
彼は所在なさげに腕を組み、冷たい城壁に背をもたれかけさせていた。
昊夜と共に、桜桃を狄族の集落へと送り届けて帝都へ戻ってきたのは四日前のことだ。だが、任務を終えて屋敷に戻ると、あるはずの朝凪の姿がなかった。厩舎を確認すれば、馬も一頭、不自然に消えている。
(あいつ……やりやがったな)
朝凪がどこへ向かったのか、刹那にはすぐに分かった。だからこそ、こうして門の前でずっと網を張るように待っていたのだ。
近づいてくる馬の蹄の音に、刹那がふと顔を上げた。そして、その並び乗る二人の姿を視界に捉えた瞬間、大きく目を見開いた。
「姫……!」
刹那は弾かれたように駆け寄ってきた。
馬が完全に止まるのも待ちきれないといった様子で、朝凪の前に乗っていた桜桃の身体を、両手で抱きかかえるようにして地面へと降ろす。
「無事か!? 怪我は? 」
「大丈夫。怪我はない」
「なんで朝凪と一緒にいるんだ……」
矢継ぎ早に問い詰め、それから刹那は、ゆっくりと馬から下りてくる朝凪を見据えた。
二人の視線が真っ向からぶつかり合う。刹那の目が、非難を込めてじわじわと細くなっていった。
「……お前」
「なんだ」
「上への報告もなしに、勝手に一人で国境を越えて行ったのか」
「なんだ」
相変わらず淡々とした朝凪の態度に、刹那は言葉を失ってしばらく彼を凝視していた。
「……おい。いくらお前でも、今回ばかりはまずいだろ。軍規違反どころの騒ぎじゃないぞ」
「昊夜がなんとかする」
「……人任せかよ!」
刹那は心底呆れ果てたように、大きく息を吐き出した。
「……まあ、いい。姫が五体満足で無事に戻ってきたなら、今はそれでいい」
刹那は視線を桜桃へと戻した。その瞳には、未だ混乱と深い心配の色が引いていない。
「一体、向こうで何があったんだ」
「少し、長い話になるわ」
「いくらでも聞く」
桜桃は、力強い足取りで帝都の敷地内へと歩き始めた。
「歩きながら話す。……それから刹那、今すぐ書庫に行きたいの」
「書庫?」
「調べたいことがあるの」
「……分かった」
刹那は朝凪と一瞬だけ目配せを交わすと、すぐに桜桃の左右を固めるように歩調を合わせた。
五年前に仕組まれた戦の傷痕と、宮廷に蠢く陰謀の糸口を掴むため、三人は真っ直ぐに薄暗い書庫へと向かった。
***
近衛の執務室に、千弦の早足な足音が響いた。
襖が勢いよく開くと同時に、千弦は眉根を寄せ、困惑と焦燥の入り混じった声を上げる。
「昊夜様、大変です。……六花さんのことなのですが」
「なんだ」
昊夜は書状から目を離さず、応じた。
千弦の次の言葉に、昊夜の動きがぴたりと止まった。
「朝凪さんが、狄族の陣営に単騎で乗り込み、六花さんを力ずくで連れ戻したそうです」
「……は?」
昊夜はゆっくりと顔を上げた。その漆黒の目に、あからさまな不快感と、にわかには信じがたいという困惑が広がる。
「朝凪の奴、何をやっている……!? あいつはいつから、そんな見境のない男になったんだ」
怒りというよりは、あの冷静な男が起こしたあまりにも無鉄砲な暴挙に対する、純粋な呆れだった。
しかし、千弦はごくりと唾を飲み込み、さらに声を潜めて衝撃の事実を告げる。
「いえ、それが……狄族の奥深くに潜ませていた密偵から、妙な報告が入っておりまして。どうやら内通者から狄族の長へ、『今お前たちの元にいる神祇官は、実は身代わりであり、その本性は星河帝の娘、桜桃元皇女である』と密告があったそうなのです」
「……」
執務室の空気が、一瞬で凍りついた。
千弦は戸惑ったように首を傾げる。
「昊夜様。いくらなんでも、そんな話はありませんよね? 四大貴族の娘と、元皇女様が、そんな入れ替わりなんて……。六花さんは、本当に桜桃様なんですかね?」
「……たぶんな」
昊夜は低い声で呟いた。
「えっ!? 昊夜様、六花さんが元皇女様だと気づいていたんですか!?」
驚愕して身を乗り出す千弦に、昊夜は忌々しそうに目を細める。
「確証はなかった。ただ、あの二人の動きが妙に不自然だったからな」
「……昊夜様は、元皇女様の顔をご存知なかったのですか?」
「会ったことはない」
婚約者候補という肩書きを与えられながらも、昊夜は一度も桜桃の顔を見たことがなかった。だからこそ、朝凪の隣にいる「六花」という少女の存在に違和感を覚えつつも、それが本物の桜桃であるという確たる証拠を掴めずにいたのだ。
「でも昊夜様! 密告を受けた当初、狄族の長は『神祇官ではない偽物を掴まされた』と怒り狂っていたそうですが……今はそれ以上に、朝凪さんに目の前で花嫁を奪い去られたことで、面子を潰されて怒り狂っています! このままでは、国境の緊張が――」
千弦が早口でまくし立てる声を、昊夜はもう半分も聞いていなかった。
千弦の言葉を遮り、昊夜が問う。
「清明殿は動いているか」
「はい。狄族へ鷹を何度か送っています。今回の件は朝廷の命によるものではなく、婚姻を破棄する意思もないと」
「返事は」
「……まだ、ありません」
昊夜は眉間に深く皺を刻んだ。
返事がない。それは拒絶よりも厄介だった。
「暁殿には」
「清明殿から話が行っているはずです。朝廷軍を動かすかどうか、協議している頃かと」
「……そうか」
ならば、今ここで近衛である自分が動くべきではない。
朝凪の独断で済んでいるものに、帝直属の近衛まで加われば、それこそ朝廷が桜桃を奪還したと受け取られかねなかった。
昊夜は手でこめかみを押さえ、深く、重いため息を吐き出す。
「……六花」
いや、違う。
「……桜桃元皇女は、今どこにいる」
連れ戻したのはいいが、一体どうするつもりだ。
宮廷が、あの無茶苦茶な主従によって、泥被りをさせられている。
「朝凪……後で絶対に、ただでは済まさんぞ……」
怒りと呆れ、そしてどこか「そこまでやるか」という感情を滲ませながら、昊夜は机を強く叩いた。
***
日向は、北側の古い倉に何日も籠っていた。
紫雲家。
その名だけは、断片的な記録の中にしか残されていない。
いつ、どのように歴史から姿を消したのか。それすら分からなかった。
日向は古い戸籍本を一冊ずつ取り出しては頁をめくり、また棚へ戻す。
来る日も来る日も、その繰り返しだった。
何十冊目だっただろうか。
「……」
一頁、また一頁と目を走らせる。
日向は静かに目を細めた。
掲げていた灯を、さらに紙面へと近付ける。
煤で汚れないよう細心の注意を払いながら、紙の表面を指先でそっとなぞる。
すると、指先に微かな違和感――凹凸があった。
刃物か何かで、一度書かれた墨を丁寧に削り取った跡だ。上から新しく文字が書き加えられているが、元の記述は完全に消されている。
日向の目が一気に鋭くなった。
完全には消し切れていない。どんなに器用に削ろうとも、紙の繊維に刻まれた過去までは消せない。
灯の光を斜めから当てると、影となって薄く文字の輪郭が浮かび上がった。
削られた痕の下。掠れたような、しかし力強い筆跡。
日向は呼吸を潜め、その微細な線の繋がりを慎重に目で辿っていく。
時間をかければ、読めないほどではない。むしろ、当時の作業者が何かに追われ、急いで消したかのような焦りと雑さが見て取れた。
「……これは」
確信を得た日向は、すぐさま別の棚から同年代の帳簿を何冊も引き寄せ、床に広げた。
同じ年代の戸籍。同じ人物の手による筆跡。そして――まったく同じ、執拗な削り跡。
そこにあるすべての記録が、やはり後から書き換えられていた。まるで、その人物が最初からこの世に存在しない別人だったかのように。
だが、どれほど隠そうとも痕跡は残る。
日向はそれぞれの帳簿から、消された文字の残骸を一つずつ拾い集め、頭の中で繋げていった。
線が、結ばれる。
消された文字の羅列が一本の明確な形を成したとき、日向は一つの“名”へと辿り着いた。
***
花梨が目を覚ましたのは、夕方のことだった。
「……花梨様」
すぐそばから、落ち着いた声が聞こえた。
医官が脈を取り、静かに頷く。
「意識がお戻りになりました。熱も下がっております」
「花梨様……!」
枕元から、紬が涙を浮かべて覗き込んできた。その目は真っ赤に腫れ上がっている。
「お気づきになりましたか! 本当によかった……!」
医官は穏やかに紬を制した。
「まだ無理にお話しされてはいけません。長く眠っておられましたから、お身体も弱っております」
「……はい」
「昊夜様へお知らせしてまいります!」
紬は深く頭を下げると、慌てて部屋を飛び出していった。
花梨はゆっくりと息を吐く。
身体は鉛のように重く、起き上がろうとしても指先ひとつ思うように動かない。
(……生きて、いるのね)
天井を見つめたまま、白く霞んでいた意識が少しずつ現実へ戻ってくる。
あの不穏な日の記憶が、鮮明に蘇る。
薄暗い回廊。怪しげな密談の声。思わず足を止めてしまったこと。
そして、あの男――深黎の刃が、自分の肉体を貫く直前のこと。
確かに、声が聞こえた。
どこまでも穏やかな声だった。
『時間を稼げ……』
花梨はそっと目を閉じた。
(あの人がそう呟いたのだ)
深黎は、その声の主に命じられて動いていただけ。
ならば――。
(すべての黒幕は、深黎様じゃない)
あの声を、花梨は知っていた。
宮廷で何度か耳にした。いつも穏やかで、静かで、どんな時も少しも乱れることがなかった、あの声を。
(本当の黒幕は――)




