第二十話 元近衛大将、想定外
神祇官庁の奥、静寂に包まれた部屋の襖が、激しい音を立てて開け放たれた。
その不躾な乱入にも、雅は慌てることなく、ゆっくりと顔を上げた。
「おや、日向殿。わざわざ足を運んでくださるとは」
いつものように、相手の思考を煙に巻く穏やかな微笑みだった。
日向は無言のまま、雅の向かいへどさりと腰を下ろす。その鋭い眼光には、隠しきれない苛立ちが渦巻いていた。
「……婚姻について聞きに来た」
「六花の婚姻についてを、私に?」
「この件を聞ける人間が他にいない」
「信用していただけて光栄です」
「信用はしてない」
日向は真っ直ぐに雅を射抜くように見据えた。
「彼女をこのまま向こうへ嫁がせて、本当に問題はないのか」
雅は面白そうに目を細める。
「自分の娘が、異民族の元へ嫁ぐのがお気に召しませんか? ――それとも」
一拍、重い沈黙を置いて、雅は続けた。
「元皇女という身分を隠し、狄族の元へ送り込むことを危惧されているのですか」
「神祇官は皇統を管理する機関だろう。だからお前に聞いている」
雅は視線を落とし、わずかな間を置いて思案するように呟く。
「……女系には、皇統が引き継がれないことはご存知ですね?」
日向は無言でそれを肯定した。
現在の法において、皇女の血筋であっても、女系を通じてその子が皇位を継ぐことはない。
つまり、この婚姻によって桜桃からどのような子が生まれようとも、朝廷の根幹を揺るがす「皇族」としての正統性は未来永劫、認められないのだ。
血統という名の政治の天秤において、あの娘が誰の妻となろうと、朝廷にとっては何の痛手にもならない。この男は、そう言い切っているのだ。
「……胸くそ悪い制度だな」
「あら、口が悪い。けれど、その法に助けられたのも事実でしょう」
日向は不快感を露わにしたまま、苛立ちを隠そうともしなかった。
雅は手元の扇をパチンと音を立てて閉じる。
「随分と思い切った博打を打ちましたね。六花を……いえ、桜桃姫を狄族へ嫁がせるとは」
「婚姻までは俺も考えていなかった」
雅の目が細められる。
「おや」
「琥珀を返す。それを機に神祇官を一人遣わせ、和平の話を進める。俺が持ちかけたのはそこまでだ」
「では、族長からの婚姻の申し出は、本当に想定外だったと」
「ああ。あの爺さん、俺にも何も言わず朝廷へ直接要求を突きつけやがった」
「なるほど。それは災難でしたね」
まるで面白がっているような声音に、日向の眉間の皺が深くなる。
「楽しそうだな」
「まさか」
雅は扇で口元を隠した。
「ですが、止めなかったのですね」
「……何が言いたい」
「私から書状を差し上げたときには、正式な婚姻となることも、帰国の保証がないこともお伝えしたはずですが」
「神嘗祭までもう時間がない。他に方法が思いつかなかった」
「朝廷では、昊夜殿下から朱明家を引き剥がすための策ではないか、という声まであるようですよ」
「勝手に言わせておけ」
「随分と壮大な話になりましたね」
「俺は桜桃様を逃がしたかっただけだ。嫁に出したかったわけじゃない」
「なるほど。器となる運命から、この国からお逃がしになりたかったのですね。そして、思いがけず転がり込んできた婚姻話を利用した、と」
日向は答えなかった。
「……私を信用しておられませんね?」
「お前は知りすぎている」
「神祇伯ですから」
「答えになってない」
「では、どのような答えをお望みで?」
日向は雅を真っ直ぐに見据えた。
「神嘗祭で、桜桃様を使って何をするつもりだ」
「私が、ですか?」
「お前でも、お前でなくてもいい。誰が何を企んでいる」
雅の笑みは消えなかった。
「それを私にお尋ねになりますか」
「そのために来た」
「尋ねられても私は何もお答えしませんよ」
雅はくすりと笑う。
「……それにしても、随分と困りましたよ」
日向が眉をひそめる。
「狄族が求めた神祇官の条件に当てはまるのは、どう考えても彼女一人。それなのに、朝議では誰一人その名を口にしようとはなさらなかった。……皆、六花を嫁がせたくなかったのでしょうね」
雅は思い出すかのように目を細めた。
「こうなる前に頭脳派の方々にでもご相談なさればよろしかったのに。朝凪殿や昊夜様あたりに。あなたは脳き……いえ、何でもありません」
日向の眉がぴくりと動いた。
「今、何と言いかけた?」
「何も」
「脳筋と言いかけたな」
「聞き間違いですよ」
「お前な」
雅は何食わぬ顔で扇を揺らしている。
日向はしばらくその顔を睨んでいたが、やがて諦めたように息を吐いた。
「……あいつらに話すと余計に面倒だ。それに、まだ誰の企みか分からんからな」
雅の扇が、ぴたりと止まった。
「……なるほど」
「何だ」
「いいえ。随分と用心深くなられたものだと思いまして」
「お前も含めてな」
「それはそれは」
雅は少しも気分を害した様子を見せず、むしろ楽しそうに笑った。
「ですが結果的に、婚姻の話で一番狼狽えていたのも、そのお二人でしたね」
日向が眉を寄せた。
「……見てたのか」
「さて、何のことでしょう」
「…………」
「少なくとも、和平を口実に神祇官として送り込むよりは、ましな案を考えてくださったのでは?」
「そうかもな。……桜桃様の正体が知れれば、それで終わりだからな」
日向の声が低く沈む。
「星河帝の娘だ。かつて殲滅戦を命じた帝の娘だと知られれば、報復は免れない」
「諸刃の剣……ということですね」
「ああ」
日向は勢いよく立ち上がった。
「どうされますか?」
背後からかけられた雅の問いに、日向は振り返ることもなく、襖の手前で足を止める。
「いずれ必ず呼び戻す。それまでに、黒幕を必ず引きずり出す」
日向は顔を横へ向けて、鋭い視線を送る。
「――たとえ、それがお前でもな」
雅はその底知れぬ笑みを、ほんの少し深めた。
「それは、楽しみですね」
退出した日向の激しい足音だけが、夜の静まり返った回廊にいつまでも重く響き渡っていた。
***
朝堂院の回廊を通りかかった朝凪は、不穏な空気を察して足を止めた。
治部省の建物の前が、妙に騒がしかった。
見れば、衛兵が二人、固い表情で扉の前に立っている。扉の内側からは、押し殺したような、しかし酷く急いた複数の気配が漏れ聞こえていた。
朝凪は静かに近づいた。
「何かありましたか」
唐突な問いかけに、衛兵が朝凪を見た。一瞬、内容を明かすべきか躊躇うような間が生まれる。
その時、扉の内側から清明の声が通りへ落ちた。
「朝凪か。入りなさい」
促されるまま建物に足を踏み入れると、そこには清明と、見知らぬ男が二人いた。
男たちは固く縛り上げられている。床に直接座らされ、衛兵に両脇をがっしりと押さえつけられていた。
着ている物は粗末な平民のものだが、その体つきは一目でそれと分かるほど、強靭に鍛え上げられていた。
「昊夜殿からの預かり物です」
清明は扇を閉じたまま、床の男たちを見下ろしていた。
「狄族へ向かう道中、六花殿が刺客に襲われたそうで」
朝凪は表情を変えなかったが、その身体が強張る。
「……六花は」
「無事です。昊夜殿が兇手を捕らえました」
朝凪はそこで、胸に溜まっていた息を一度だけ、静かに吐き出した。
「昊夜殿から捕らえた者を尋問をしてほしい、と」
清明は扇の端で、己の顎を軽く叩いた。
「すでに、少し話を聞きました」
「……誰の指示で動いていたか、吐いたのですか」
「未散様の名が出ました」
朝凪は眉を寄せた。
清明はその微細な変化を見逃さず、じっと見つめていた。
「妙でしょう」
「皇后が、なぜ、今になって六花を狙うのですか」
「……それは、分かりません」
朝凪は内心で、苦い疑念を巡らせる。
(元皇女だと、あの方に正体がばれているのか……?)
清明は手元で扇をゆるりと開いた。そのまま、顔の前でなだらかに動かす。
「それに、未散様に、これほど手の込んだ真似が、果たしてできますかね」
朝凪は清明の目を真っ直ぐに見つめた。
清明はいつもの穏やかな顔のまま、規則正しく扇を動かし続けている。
朝凪はもう一度捕らえられた男を見た。
「……外交文書の保管室を、見てもいいですか」
「私の名で通しましょう。」
清明は扇を一度、ぱちりと音を立てて閉じた。
朝凪は一歩踏み出しかけ、ふと足を止める。
「……もし、狄族との間に摩擦が生じたら」
「私が何とかします。」
その穏やかな声には、不思議と揺るぎがなかった。
「あなたは、六花殿を」
朝凪は一瞬だけ目を伏せ、小さく頷く。
「……はい」
「急ぎなさい。他に何か別の企てを進めているかもしれません」
朝凪がもう一度静かに頷いた。
外交文書の保管室は、ひんやりとして薄暗かった。
朝凪は迷わず、狄族へ向かったこれまでの使者たちの記録を引き出した。
頁を開く。だが、そこにあるはずの内容の大半が、不自然に消されていた。
丁寧に、上から何度も重ねて黒い墨が引かれている。
朝凪は頁を斜めに傾けた。わずかな隙間から差し込む光の角度を変える。
重ねられた墨の下、紙の繊維にわずかに残された筆圧の跡が、陰影となって浮かび上がった。
一字ずつ、その溝を根気強く目で辿っていく。
『神祇官として嫁がせた者は――本物の神祇官ではなく、星河帝の娘である。神の使いを騙り、神聖な婚姻を汚した』
朝凪の息が、一瞬だけ完全に止まった。
狄族が和の国に神祇官を求めたのは、彼らにとって最も神聖な婚姻の儀のためだ。
神祇官が偽物だと知れば、それだけでも神への冒涜となる。
その上、その娘が、狄族殲滅を命じたと信じられている星河帝の皇女――桜桃だと知れれば、報復は避けられない。
神聖な婚姻の場は、一転して復讐の場へ変わる。
しかも、この内容の書状は、すでに狄族の元へ送られた後だった。
(皇后が、本当にこれをやったのか)
帳簿をめくる朝凪の手が止まった。
どうしても、拭いきれない違和感があった。
未散は長年、皇居の奥深くに閉じこもるようにして生きていた女だ。その彼女が、異国である狄族の信仰をここまで熟知し、書状の文面を巧みに操り、隠密に使者を動かす。さらには、こうして宮廷に残る痕跡さえ消す。それだけの手回しと策を――
(あの方一人に、できるはずがない)
では、裏で糸を引いているのは誰だ。
朝凪は頁から目を上げた。思考が急速に回転する。
(いや、それよりも今は――姫様が危ない)
狄族の気性を考えれば、書状が届いた瞬間に桜桃の命はない。
朝凪は棚を元通りに戻し、すぐさま踵を返した。
昊夜へ伝令を送るべきか。
一瞬だけ考えたが、すぐにその選択を捨てた。
(手続きを踏めと言われている間に、あの偽りの書状が先に集落へ届いてしまう)
問題の書状を持った使いは、いつ帝都を出たのだろうか。
狄族がこの書状を手にし、衝動的に桜桃に刃を向けることを狙いとするならば、桜桃が狄族の地に着いたあとにこの書状が着くように送ったはずだ。
だとすれば、七日程前か。
猶予はない。朝凪は険しい表情のまま、薄暗い廊下を走り出すようにして歩き出した。




