第二十三話 もうひとつの密告書
翌日は、天地を覆い尽くすほどの大嵐だった。
激しい暴風が天幕の布を幾度も激しく揺らし、大粒の雨が激しい音を立てて屋根を叩きつける。
天幕の中心では、族長をはじめとする若い男たちが大真面目な顔で肩を寄せ合い、深刻な声を交わし合っていた。
「山の神がお怒りだ……」
「どうする、このままでは集落が……」
「今すぐ祭祀を……いや、もう一度あの儀式を執り行うべきか……」
その深刻な輪の少し離れた端っこで、桜桃は熊の毛皮にぬくぬくとくるまりながら、器に入った温かい羊の乳を静かにすすっていた。もこもことした毛皮に包まれていると、体の芯まで温かかった。
桜桃は羊の乳をすすりながら、天幕の隙間から外の様子をじっと観察する。
低気圧の独特な動き方。うねる雲の形。吹き付ける風の向き。神祇官として叩き込まれた気象の周期と知識が、彼女の頭の中で素早く弾き出されていく。
(この気圧の抜け方は……あと少しで、すぐに晴れるはずだわ)
「六花」
不意に、琥珀が近づいてきた。普段の冷めた様子とは違い、珍しくその目がきらきらと輝いている。
「何とかなるか。この天気」
「私にそんな、天候を何とかする力なんてないわよ」
「何言ってるんだ、因州で雨を降らせただろう」
「あれは、たまたま……」
言いかけて、桜桃は口をつぐんだ。
琥珀の眼差しが、あまりにも真っ直ぐだったからだ。そこに疑いは微塵もなく、彼女の「神としての力」を完全に信じ切っている目だった。
桜桃はしばらくの間、再び外の空模様を見つめた。それから、意を決したように、ごくりと羊の乳を飲み干す。
「……あの、皆様」
気がつけば、自然と立ち上がっていた。
一斉に族長たちが振り返り、彼女に視線を向ける。
「山の神のお怒りを鎮める方法なら、私が知っていますけれど」
すると、天幕の端にいた体の大きな男から、野太い声が容赦なく飛んできた。
「あ? 帝国の生温かい宮廷でぬくぬくと育ったお嬢ちゃんに、我が土地の神の何が分かるってんだ!」
その不躾な言葉に、桜桃はただ静かに微笑んでみせた。それは、帝都で幾度も浮かべてきた、完璧な神祇官としての微笑みだった。
「分かりますよ」
桜桃はいかにも神聖な儀式を始めるかのような優美な所作で、ゆっくりと前へ出た。一同が見守るなか、そっと目を閉じ、右手を天に向けてまっすぐに掲げる。
天幕の中が、まるで水を打ったように静まり返った。
「では今から、私が神事を行います。私がこうして右手を掲げ、三つ数える間に……この嵐は完全に止みます」
誰もが固唾を呑み、息を止めた。
「三」
風が唸りを上げる。
「二」
激しい雨が屋根を叩く。
「一」
「……開け」
――ゴロゴロ、ピシャアアアン!!!
その瞬間、鼓膜を破らんばかりの凄まじい雷鳴が轟き渡った。さらに勢いを増した大雨が滝のように天幕を叩きつけ、嵐はさっきまでよりも明らかに激しさを増した。
……完全なる静寂が、天幕を支配する。
桜桃はおそるおそる目を開けた。
「……あ」
じっとりとした、なんとも言えない間が流れる。
「計算を間違えました。あと半日待って」
「驚いて損したわ!!」
天幕の中の緊張感が、一気に爆発するようにして崩れ去った。
「何だそりゃあ!」
「今の神事じゃねえのかよ!」
「コラ、騙しやがって!」
男たちは怒鳴り散らしていたが、その声に敵意はなく、むしろ全員が呆れ果ててズッコケていた。桜桃はきまり悪そうに、熊の毛皮の中に少しだけ身を縮こまらせた。
それから、きっかり半日。
嵐は相変わらず猛威を振るい続け、族長たちはその間ずっと頭を抱えて悩み込んでいた。桜桃はといえば、引き続き天幕の端っこで、何事もなかったかのように羊の乳をすすって過ごした。
そして、半日が経過した、まさにその時。
あれほど激しかった風雨が、ぴたりと、嘘のように止んだ。
天幕の布の隙間から、優しく温かい光が差し込んでくる。
全員が慌てて外へ飛び出すと、そこには濁り一つない、見事な青空がどこまでも広がっていた。
さっきまで桜桃を怒鳴りつけていた男が、信じられないものを見る目で彼女を凝視した。
「……おい。おい、本当に晴れたぞ」
静かな驚きが、集落のなかに広がっていく。
「お前……本当に、山の神の声を聞いたのか……?」
桜桃は、驚愕する男たちをゆっくりと振り返った。
「ですから、言ったでしょう?」
そして、少しだけ誇らしげに胸を張ってみせる。
「和の国の神祇官を、あまり侮らないで」
その隣で、琥珀がじっと桜桃を見上げていた。その瞳には、今や一抹の疑いもない、純粋な尊敬の眼差しがこれでもかと溢れていた。
***
桜桃が部屋で休んでいると、琥珀が木造りの素朴な椀に盛られた食事を運んできた。
中には、帝都では見たこともない種類の肉が、大振りに切られて入っている。立ち上る湯気の香りは、宮廷の洗練された出汁のものとは全く異なり、どこか野性味を帯びていた。
「食べられるか」
「食べる」
「嘘をついてないか」
「ついてない」
桜桃はしっかりと椀を受け取った。
おそるおそる一口、口に運んでみる。クセが強いのではないかと身構えていたが、思ったよりもずっと、滋味深くて美味しかった。
「……おいしい」
「そうか」
琥珀は自分の分の椀を手に持つと、部屋の壁にぽんと背を預けて座り込んだ。
中央に置かれた炉の火が、薄暗い部屋の中で小さく爆ぜて揺れている。
「さっきは助かった」
「私は何もしてないわよ。本当は神の力でも何でもないの。ただ、神祇官の学問として、気象の周期を読んでいただけだから」
「そうなのか」
琥珀は、少しだけガッカリしたような顔をした。
仕方がない。神を騙って嘘を突き通すよりは、彼に対して正直に真実を言うほうがずっといい。
琥珀はしばらく黙って肉を口に運んでいたが、やがてぽつりと呟いた。
「じい様は、あんたを気に入ったみたいだ」
「気に入られても困るけど……」
「まあ、そうだな」
彼は少しだけ視線を落とし、言葉を選ぶように口を開く。
「じい様はな、あの殲滅戦があってから、ずっと和の国を憎んでいた」
「……」
「だから俺も、じい様がいきなり和平婚なんて言い出したときは、自分の耳を疑ったんだ」
桜桃は静かに琥珀を見つめ、問いかける。
「……どうして、そんなことを言い出したの?」
「分からない」
琥珀は苦く笑った。
「俺も何も聞かされてなかった。じい様が勝手に和の国の朝廷に書状を送ってた」
「琥珀も知らなかったの?」
「ああ。俺の婚姻なのにな」
呆れたように言ってから、琥珀は椀の中へ視線を落とした。
「問い詰めても、じい様はただ『試してみる』と、それだけだった」
「試す……?」
「ああ。何を試すのか、俺にさえ教えてくれなかった」
室内に、重たい沈黙が流れる。やがて琥珀は、思い出したようにぽつりと続けた。
「ただ……じい様には話したんだ。和の国にも、あんたみたいな奴がいるってことはな。彪も、刹那も、因州の皆もそうだと」
琥珀はそれ以上続けず、椀の中へ視線を落とした。
──今年の年が明けてしばらく経った頃、因州府で、琥珀は再び日向と向かい合っていた。
四年前、彪の元へ連れてこられたときと同じ部屋だった。
その男は、昔と変わらぬ顔で、とんでもない頼みを持ち込んできた。
「六花を、狄族へ?」
彪が低い声で問い返した。
「ああ」
日向は平然と答えた。
「琥珀を狄族へ返す。それを機に、神祇官を一人遣わせて、和平の話を持ちかける」
「その神祇官が、六花か」
「ああ」
琥珀は眉を寄せた。
「和平って……じい様が受けると思うか?」
「分からん」
「分からんって」
「だから、まず話をする」
あまりにも当然のように言う日向に、琥珀は呆れた顔をした。
「よく行く気になるな。追い返されるぞ」
「そのときは別の手を考える」
「最初から考えとけよ」
彪が小さく息を吐いた。
「それだけではないのだろう」
日向は彪を見る。
「六花を狄族へ遣わせたい理由だ」
沈黙が落ち、やがて日向は、あっさりと答えた。
「……しばらく、匿ってほしい」
琥珀の顔から、呆れた色が消えた。
「六花を助けるためか」
「ああ」
「いつまで」
「安全が確保できるまでだ」
「終わったら返せばいいのか」
「ああ」
迷いのない返事だった。
琥珀はしばらく日向の顔を見つめていた。
「……六花本人には、話したのか」
「まだだ」
「本人にもかよ」
「族長が話を受けるかも分からない。今はまだ、話せる段階ではない」
「…………」
琥珀はしばらく日向を睨んでいた。
「……あんた、本当に昔から勝手だな。六花が嫌だって言ったら?」
「そのときは、別の手を考える」
「本当だろうな」
「ああ」
「じゃあ、今度こそちゃんと返せよ」
日向は一瞬だけ黙り、やがて、呟くように答えた。
「……ああ」
「あんたが俺をここへ連れてきた時みたいに、助けたからって、そのまま勝手にあいつの人生を決めんなよ」
「分かっている」
「本当かよ」
「……今度はな」
淡々と言うその男を、琥珀はしばらく黙って見ていた。
そのときはまだ、族長がこの申し出にどんな答えを返すのかを、三人とも知らなかった。
回想から引き戻すように、桜桃が「琥珀?」と声をかけた。
琥珀はハッとしたように、顔を上げた。
「……今でも、じい様が和の国を憎むのは分かる。俺だって、忘れたわけじゃない」
椀を膝の上に置いたま、琥珀は炉の火を見つめていた。
「でも、彪は彪だし、刹那は刹那だ。因州で一緒に暮らしてきた奴らまで憎めって言われても、もう無理なんだよ」
そこでようやく桜桃へ目を向ける。
「あんたもな」
桜桃は何も言えなかった。
琥珀は気まずそうに目を逸らし、冷めかけた肉を一つ口へ放り込んだ。
「だから、それが少しは……じい様の考えを変えたのかもしれない」
そのとき、背後の重い扉が、音もなく開いた。
気配を消した族長が、ゆっくりと部屋へ入ってきた。老人は桜桃の足元まで歩み寄ると、静かに彼女を見下ろす。
「……お前の覚悟は、しかと見届けた」
低く、地響きのような静かな声だった。
「我らは一方的に滅ぼされ、帝都の奴らからは完全に見捨てられたかと思っていた。だが……これほどの神祇官をわざわざよこしてくるとは、和の国側も、本気で我が族との和解を望んでいるようだな」
「……一方的に、とおっしゃいますか? ですが、四年前の殲滅戦は、狄族が起こした大規模な反乱を鎮めるためのものだったと、帝都の記録にはありますが……」
「反乱など、わしらは一言も口にしておらんし、してもおらん」
桜桃は、驚きのあまり息を呑んだ。
「どういうことですか。和風化政策を受け入れられず、そちらが先に兵を動かしたのでは……」
「わしらは、和の国の和風化政策をすべて受け入れようとしていた。条件を整え、移住の準備を進めていたのだ」
「……!」
族長は一度部屋を出ていくと、すぐに戻ってきた。その手には、色褪せた一枚の紙が握られていた。
老人はそれを、桜桃の前に静かに差し出す。
桜桃は震える手でそれを受け取り、目を凝らして文字を読んだ。
『星河帝は狄を不要と判断した。和風化ののち、将来の反乱の芽を完全に断つため、一斉に殲滅を行うつもりだ』
桜桃を動かす血の巡りが、一瞬にして凍りついた。
「……これは」
「それを持ってきたのは、紫の衣を纏った男だ」
桜桃は紙を見つめたまま、金縛りにあったように動けなくなった。
それは、明らかな密告書だった。




