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狂桜華《きょうおうか》~亡国の姫は、名を捨て帝を目指す~  作者: 澪
第五章 偽りの花嫁【異郷婚姻編】

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第二十三話 もうひとつの密告書

 翌日は、天地を覆い尽くすほどの大嵐だった。

 激しい暴風が天幕の布を幾度も激しく揺らし、大粒の雨が激しい音を立てて屋根を叩きつける。


 天幕の中心では、族長をはじめとする若い男たちが大真面目な顔で肩を寄せ合い、深刻な声を交わし合っていた。


「山の神がお怒りだ……」


「どうする、このままでは集落が……」


「今すぐ祭祀を……いや、もう一度あの儀式を執り行うべきか……」


 その深刻な輪の少し離れた端っこで、桜桃は熊の毛皮にぬくぬくとくるまりながら、器に入った温かい羊の乳を静かにすすっていた。もこもことした毛皮に包まれていると、体の芯まで温かかった。


 桜桃は羊の乳をすすりながら、天幕の隙間から外の様子をじっと観察する。


 低気圧の独特な動き方。うねる雲の形。吹き付ける風の向き。神祇官として叩き込まれた気象の周期と知識が、彼女の頭の中で素早く弾き出されていく。


(この気圧の抜け方は……あと少しで、すぐに晴れるはずだわ)


「六花」


 不意に、琥珀が近づいてきた。普段の冷めた様子とは違い、珍しくその目がきらきらと輝いている。


「何とかなるか。この天気」


「私にそんな、天候を何とかする力なんてないわよ」


「何言ってるんだ、因州で雨を降らせただろう」


「あれは、たまたま……」


 言いかけて、桜桃は口をつぐんだ。


 琥珀の眼差しが、あまりにも真っ直ぐだったからだ。そこに疑いは微塵もなく、彼女の「神としての力」を完全に信じ切っている目だった。


 桜桃はしばらくの間、再び外の空模様を見つめた。それから、意を決したように、ごくりと羊の乳を飲み干す。


「……あの、皆様」


 気がつけば、自然と立ち上がっていた。

 一斉に族長たちが振り返り、彼女に視線を向ける。


「山の神のお怒りを鎮める方法なら、私が知っていますけれど」


 すると、天幕の端にいた体の大きな男から、野太い声が容赦なく飛んできた。


「あ? 帝国の生温かい宮廷でぬくぬくと育ったお嬢ちゃんに、我が土地の神の何が分かるってんだ!」


 その不躾な言葉に、桜桃はただ静かに微笑んでみせた。それは、帝都で幾度も浮かべてきた、完璧な神祇官としての微笑みだった。


「分かりますよ」


 桜桃はいかにも神聖な儀式を始めるかのような優美な所作で、ゆっくりと前へ出た。一同が見守るなか、そっと目を閉じ、右手を天に向けてまっすぐに掲げる。


 天幕の中が、まるで水を打ったように静まり返った。


「では今から、私が神事を行います。私がこうして右手を掲げ、三つ数える間に……この嵐は完全に止みます」


 誰もが固唾を呑み、息を止めた。


「三」


 風が唸りを上げる。


「二」


 激しい雨が屋根を叩く。


「一」


「……開け」


 ――ゴロゴロ、ピシャアアアン!!!


 その瞬間、鼓膜を破らんばかりの凄まじい雷鳴が轟き渡った。さらに勢いを増した大雨が滝のように天幕を叩きつけ、嵐はさっきまでよりも明らかに激しさを増した。


 ……完全なる静寂が、天幕を支配する。


 桜桃はおそるおそる目を開けた。


「……あ」


 じっとりとした、なんとも言えない間が流れる。


「計算を間違えました。あと半日待って」


「驚いて損したわ!!」


 天幕の中の緊張感が、一気に爆発するようにして崩れ去った。


「何だそりゃあ!」


「今の神事じゃねえのかよ!」


「コラ、騙しやがって!」


 男たちは怒鳴り散らしていたが、その声に敵意はなく、むしろ全員が呆れ果ててズッコケていた。桜桃はきまり悪そうに、熊の毛皮の中に少しだけ身を縮こまらせた。


 それから、きっかり半日。


 嵐は相変わらず猛威を振るい続け、族長たちはその間ずっと頭を抱えて悩み込んでいた。桜桃はといえば、引き続き天幕の端っこで、何事もなかったかのように羊の乳をすすって過ごした。


 そして、半日が経過した、まさにその時。


 あれほど激しかった風雨が、ぴたりと、嘘のように止んだ。


 天幕の布の隙間から、優しく温かい光が差し込んでくる。


 全員が慌てて外へ飛び出すと、そこには濁り一つない、見事な青空がどこまでも広がっていた。


 さっきまで桜桃を怒鳴りつけていた男が、信じられないものを見る目で彼女を凝視した。


「……おい。おい、本当に晴れたぞ」


 静かな驚きが、集落のなかに広がっていく。


「お前……本当に、山の神の声を聞いたのか……?」


 桜桃は、驚愕する男たちをゆっくりと振り返った。


「ですから、言ったでしょう?」


 そして、少しだけ誇らしげに胸を張ってみせる。


「和の国の神祇官を、あまり侮らないで」


 その隣で、琥珀がじっと桜桃を見上げていた。その瞳には、今や一抹の疑いもない、純粋な尊敬の眼差しがこれでもかと溢れていた。


***


 桜桃が部屋で休んでいると、琥珀が木造りの素朴な椀に盛られた食事を運んできた。


 中には、帝都では見たこともない種類の肉が、大振りに切られて入っている。立ち上る湯気の香りは、宮廷の洗練された出汁のものとは全く異なり、どこか野性味を帯びていた。


「食べられるか」


「食べる」


「嘘をついてないか」


「ついてない」


 桜桃はしっかりと椀を受け取った。


 おそるおそる一口、口に運んでみる。クセが強いのではないかと身構えていたが、思ったよりもずっと、滋味深くて美味しかった。


「……おいしい」


「そうか」


 琥珀は自分の分の椀を手に持つと、部屋の壁にぽんと背を預けて座り込んだ。


 中央に置かれた炉の火が、薄暗い部屋の中で小さく爆ぜて揺れている。


「さっきは助かった」


「私は何もしてないわよ。本当は神の力でも何でもないの。ただ、神祇官の学問として、気象の周期を読んでいただけだから」


「そうなのか」


 琥珀は、少しだけガッカリしたような顔をした。


 仕方がない。神を騙って嘘を突き通すよりは、彼に対して正直に真実を言うほうがずっといい。


 琥珀はしばらく黙って肉を口に運んでいたが、やがてぽつりと呟いた。


「じい様は、あんたを気に入ったみたいだ」


「気に入られても困るけど……」


「まあ、そうだな」


 彼は少しだけ視線を落とし、言葉を選ぶように口を開く。


「じい様はな、あの殲滅戦があってから、ずっと和の国を憎んでいた」


「……」


「だから俺も、じい様がいきなり和平婚なんて言い出したときは、自分の耳を疑ったんだ」


 桜桃は静かに琥珀を見つめ、問いかける。


「……どうして、そんなことを言い出したの?」


「分からない」


 琥珀は苦く笑った。


「俺も何も聞かされてなかった。じい様が勝手に和の国の朝廷に書状を送ってた」


「琥珀も知らなかったの?」


「ああ。俺の婚姻なのにな」


 呆れたように言ってから、琥珀は椀の中へ視線を落とした。


「問い詰めても、じい様はただ『試してみる』と、それだけだった」


「試す……?」


「ああ。何を試すのか、俺にさえ教えてくれなかった」


 室内に、重たい沈黙が流れる。やがて琥珀は、思い出したようにぽつりと続けた。


「ただ……じい様には話したんだ。和の国にも、あんたみたいな奴がいるってことはな。彪も、刹那も、因州の皆もそうだと」


 琥珀はそれ以上続けず、椀の中へ視線を落とした。


 ──今年の年が明けてしばらく経った頃、因州府で、琥珀は再び日向と向かい合っていた。


 四年前、彪の元へ連れてこられたときと同じ部屋だった。


 その男は、昔と変わらぬ顔で、とんでもない頼みを持ち込んできた。


「六花を、狄族へ?」


 彪が低い声で問い返した。


「ああ」


 日向は平然と答えた。


「琥珀を狄族へ返す。それを機に、神祇官を一人遣わせて、和平の話を持ちかける」


「その神祇官が、六花か」


「ああ」


 琥珀は眉を寄せた。


「和平って……じい様が受けると思うか?」


「分からん」


「分からんって」


「だから、まず話をする」


 あまりにも当然のように言う日向に、琥珀は呆れた顔をした。


「よく行く気になるな。追い返されるぞ」


「そのときは別の手を考える」


「最初から考えとけよ」


 彪が小さく息を吐いた。


「それだけではないのだろう」


 日向は彪を見る。


「六花を狄族へ遣わせたい理由だ」


 沈黙が落ち、やがて日向は、あっさりと答えた。


「……しばらく、匿ってほしい」


 琥珀の顔から、呆れた色が消えた。


「六花を助けるためか」


「ああ」


「いつまで」


「安全が確保できるまでだ」


「終わったら返せばいいのか」


「ああ」


 迷いのない返事だった。


 琥珀はしばらく日向の顔を見つめていた。


「……六花本人には、話したのか」


「まだだ」


「本人にもかよ」


「族長が話を受けるかも分からない。今はまだ、話せる段階ではない」


「…………」


 琥珀はしばらく日向を睨んでいた。


「……あんた、本当に昔から勝手だな。六花が嫌だって言ったら?」


「そのときは、別の手を考える」


「本当だろうな」


「ああ」


「じゃあ、今度こそちゃんと返せよ」


 日向は一瞬だけ黙り、やがて、呟くように答えた。

 

「……ああ」


「あんたが俺をここへ連れてきた時みたいに、助けたからって、そのまま勝手にあいつの人生を決めんなよ」


「分かっている」


「本当かよ」


「……今度はな」


 淡々と言うその男を、琥珀はしばらく黙って見ていた。


 そのときはまだ、族長がこの申し出にどんな答えを返すのかを、三人とも知らなかった。


 

 回想から引き戻すように、桜桃が「琥珀?」と声をかけた。


 琥珀はハッとしたように、顔を上げた。


「……今でも、じい様が和の国を憎むのは分かる。俺だって、忘れたわけじゃない」


 椀を膝の上に置いたま、琥珀は炉の火を見つめていた。


「でも、彪は彪だし、刹那は刹那だ。因州で一緒に暮らしてきた奴らまで憎めって言われても、もう無理なんだよ」


 そこでようやく桜桃へ目を向ける。


「あんたもな」


 桜桃は何も言えなかった。


 琥珀は気まずそうに目を逸らし、冷めかけた肉を一つ口へ放り込んだ。


「だから、それが少しは……じい様の考えを変えたのかもしれない」


 そのとき、背後の重い扉が、音もなく開いた。


 気配を消した族長が、ゆっくりと部屋へ入ってきた。老人は桜桃の足元まで歩み寄ると、静かに彼女を見下ろす。


「……お前の覚悟は、しかと見届けた」


 低く、地響きのような静かな声だった。


「我らは一方的に滅ぼされ、帝都の奴らからは完全に見捨てられたかと思っていた。だが……これほどの神祇官をわざわざよこしてくるとは、和の国側も、本気で我が族との和解を望んでいるようだな」


「……一方的に、とおっしゃいますか? ですが、四年前の殲滅戦は、狄族が起こした大規模な反乱を鎮めるためのものだったと、帝都の記録にはありますが……」


「反乱など、わしらは一言も口にしておらんし、してもおらん」


 桜桃は、驚きのあまり息を呑んだ。


「どういうことですか。和風化政策を受け入れられず、そちらが先に兵を動かしたのでは……」


「わしらは、和の国の和風化政策をすべて受け入れようとしていた。条件を整え、移住の準備を進めていたのだ」


「……!」


 族長は一度部屋を出ていくと、すぐに戻ってきた。その手には、色褪せた一枚の紙が握られていた。


 老人はそれを、桜桃の前に静かに差し出す。


 桜桃は震える手でそれを受け取り、目を凝らして文字を読んだ。


『星河帝は狄を不要と判断した。和風化ののち、将来の反乱の芽を完全に断つため、一斉に殲滅を行うつもりだ』


 桜桃を動かす血の巡りが、一瞬にして凍りついた。


「……これは」


「それを持ってきたのは、紫の衣を纏った男だ」


 桜桃は紙を見つめたまま、金縛りにあったように動けなくなった。

 それは、明らかな密告書だった。



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