第二十二話 生贄の儀
その日の夜、天幕の中心で、赤々と焚き火が燃え盛っていた。
族長たちが左右に厳かに居並ぶ中、一頭の羊が中央へと引き据えられた。それは、桜桃がここまで持ち込んできた、あの見事な体躯の羊だった。
誰も口をきかない。
肌を刺すような冷たい空気が、天幕の中に満ちていた。
宮廷の、どこまでも形式化された淡々たる祭祀しか知らない桜桃には、これから何が始まるのか分からなかった。ただ、これが自分を試すための場だということだけは、本能的に感じ取っていた。
一人の男が、滑らかな足取りで前に出た。
鍛え上げられた狄族の男だった。その所作には一切の迷いがない。彼は鋭い刃を構え――それは一瞬の出来事だった。
胸元。心臓へと繋がる血管を、無駄な血を流さずに一突きで止める。それが彼らの伝統の屠殺手法だと、後から桜桃は知ることになる。
だがその瞬間の彼女には、そんな知識などなかった。あったのは、空間を支配する鮮烈な生血の匂いと、確かな命が消える瞬間の、重く冷たい静寂だけだった。
全身の細胞が、恐怖で強張った。
ここから逃げ出したかった。耳を塞いで叫びたかった。だが、桜桃は奥歯をきつく噛み締め、その衝動を喉の奥へと押し込んだ。
周囲の男たちの、鋭い視線が一斉に桜桃へと注がれる。それは明白に、彼女を試す目だった。お前はここで悲鳴を上げるか。それとも醜く逃げ出すか。そう突きつけている目だった。
族長が、ずしりと重い器を手に取った。そこには、屠ったばかりの羊から溢れた血が、なみなみと注がれている。
老人はその器を、桜桃の目の前へと差し出した。
差し出された赤を見つめ、両手が震えそうになった。
そのとき、耳の奥で、確かにあの声が聞こえた。
あの夜、自分を厳しく、けれど誰よりも確かに繋ぎ止めてくれた昊夜の声だった。
『泣くな、六花』
『朝凪に泣きつくことも、許さん』
桜桃は震えかけた唇を、強く引き結んだ。
ここで自分が怯え、涙を流せば、命懸けで自分をここまで送り出してくれた昊夜たちの顔に泥を塗ることになる。それだけは、絶対にできなかった。
桜桃は袖の中でぎゅっと拳を握りしめた。生まれてくる震えのすべてを、その掌の中に閉じ込める。
そして、目の前の族長を、真っ直ぐに見据え返した。
差し出された器を、両手でしっかりと受け取る。
「……ありがとうございます」
その声は、驚くほど震えていなかった。
「この地に生きる尊い命の重み、確かに受け取りました。神祇官として、この国の神々と皆様に、深い敬意を表します」
儀礼に従い、頬に血を授かった。
それは生々しく温かかった。ついさきほどまで、自分たちの後ろを呑気に歩いていた生きものの、確かな温度だった。
それでも、桜桃は眉一つ動かさなかった。
動かせなかったのか、あるいは意地でも動かさなかったのか、自分でも分からなかった。ただ、前だけを真っ直ぐに向いていた。
天幕の中に、小さく、地鳴りのようなざわめきが起きた。
向けられていた値踏みするような視線が、驚きと敬意を含んだものへと、静かに変わっていった。
***
部屋に戻った瞬間、桜桃はこらえていたものを吐き出すように、口に手を当てた。
強張っていた身体が激しく震え出す。そんな彼女の隣に琥珀がそっと寄り添い、小さな背中を優しく、一定の刻みでさすり始めた。
「よく耐えたな。大丈夫か」
「……うん」
喉の奥が引き攣れて、それ以上の言葉が出ない。
琥珀から静かに差し出された器を受け取り、中の水を一気に飲み干した。冷たい水が喉を通るたび、生々しい血の匂いと熱が少しずつ遠のいていく。
「飯、食うか」
「……無理そう」
「そうか」
琥珀はそれ以上、無理に勧めることはしなかった。ただ隣に座り、桜桃の震えが完全に収まるまで、静かにその背中に手を添え続た。
桜桃は狄族での暮らしに早くも挫けそうになったが、なんとか気力を持ち直した。
***
琥珀は自室に戻ると、夜空を見上げた。
もう春だというのに、因州よりも随分と寒い。
自分の口から漏れた白い息を見ていると、ずっと昔のことのようでいて、決して忘れることのない光景が脳裏に浮かんだ。
──雪の降る、寒い日だった。
焼け落ちた村を離れてから、どれほど歩いたのかは覚えていない。
覚えているのは、和の兵に囲まれたことと、その中から一人の男が歩いてきたことだけだった。
男の衣にも、刀にも、乾いた血がこびりついていた。
少年は逃げなかった。逃げる場所など、もうどこにもなかった。
男はしばらく少年を見下ろしていた。
「……名は」
少年は答えなかった。
「殺すなら、殺せ」
掠れた声だった。
男──日向はしばらく少年を見つめた。
「殺さない」
日向の言葉に、少年は目を見開いた。
「嘘だ」
「……そう思うだろうな」
日向は刀を鞘におさめた。
「来い」
「……どこへ」
「因州だ」
「嫌だ」
「ここに残れば死ぬぞ」
「お前たちが殺したんだろ」
日向は何も言わなかった。ただ背を向けて、しばらく歩いたところで足を止めた。
「それでも、来い」
少年はその背中を睨みつけた。
どうして従ったのか、今でも分からない。生きたかったのかもしれない。
あるいは、一人で焼け野原に残されることの方が、死ぬことより怖かったのかもしれなかった。
数日後、少年は因州府の一室にいた。
文机の向こうに座った男が、書状から顔を上げる。
「その子が預けたい者か、日向殿」
「ああ。頼めるか、彪」
「狄だな」
彪の問とも言えぬ呟きに、日向は黙って頷いた。
「捕虜か」
「違う」
「では、なぜ私が預かる」
日向は答えなかった。
彪はしばらく待ったが、やがて少年へ視線を移した。
「ここで暮らすなら、和の名があった方がいい」
彪はそう言って、紙の上へいくつかの名を書きつけた。
少年は露骨に顔をしかめた。
「いらない。俺には名前がある」
「分かっている」
「なら、それでいいだろ」
「狄の名をそのまま使えば、余計な詮索をされる。お前が構わないなら、私は止めんが」
少年は黙った。
構わない、と言い切るには、まだこの国のことを何も知らなかった。
彪はそれ以上勧めることもなく、紙を少年の前へ押し出した。
「嫌なら使わなくていい。使うなら、自分で選べ」
並んだ文字の意味など、ほとんど分からない。
少年は一つずつ彪に読ませていったが、やがて一つの名で指を止めた。
「……これは」
「琥珀」
「コハク?」
「ああ」
少年の指が、後ろの一字をなぞった。
「ハクに似てる」
彪が少年を見る。
「俺の名前。ハクだから」
「そうか」
それだけ答えて、彪は二文字へ目を落とした。
「琥珀は、白虎の字に王偏を付けた漢字だ。それにするか」
「まだ決めてない」
「では他を選べ」
「……これでいい」
「琥珀だな」
「彪が言ったんだからな」
「選んだのはお前だ」
「うるさい」
少年は腹立たしげに彪を睨みつけた。
日向がわずかに顔をそむけた。笑ったように見えて、余計に腹が立った。
「……いつまでここにいればいい」
その問いに、室内の空気が変わった。
彪は静かに筆を置いた。
「分からん」
「帰っていいのか」
「それは許可できない」
「なんでだよ」
「今、お前を狄へ戻せば、再び兵が動く可能性がある」
少年には難しい話だった。だが、自分が帰れないということだけは分かった。
「じゃあ、やっぱり捕虜じゃないか」
「捕虜として扱うつもりはない」
「同じだろ!」
思わず声を荒らげたが、彪は怒らなかった。ただ真っ直ぐに少年を見た。
「因州の中であれば好きに暮らせ。働きたければ働けばいい。学びたければ教える者もつける。牢へ入れるつもりもない」
「でも、帰れない」
「そうだ」
「……人質か」
初めて、彪が黙った。その沈黙で、少年にも分かった。
日向を振り返る。
あの焼け野原で自分を殺さなかったこの男も、否定しなかった。
少年は拳を握った。
「助けたつもりか」
「思ってない」
「だったら、なんで俺だけ生かした」
長い沈黙が落ちた。
日向は少年から目を逸らさなかった。
「……もう、殺せなかった」
少年には、その意味など分からなかった。
分かりたいとも思わなかった。
ただ、その日からハクは因州で「琥珀」と呼ばれるようになった。
捕虜ではなかった。けれど、自由でもなかった。
因州の中なら好きに暮らしていい。だが、その外へ出ることは許されなかった。
海も、山も、帝都も。
いつか国中を見て回りたいと願ってはいたが、それが叶わないことくらい、琥珀にも分かっていた。
夢のまた夢だった。
それでも腹は減ったし、飯は食った。働けば疲れた。刹那に絡まれれば言い返したし、彪に腹を立てることもあった。笑った日さえ、いくつもあった。
そんな自分を、かつて焼け野原に立っていた少年が見たら、何と思うのだろう。
分からなかった。
ただ一つ分かるのは、因州で過ごした年月もまた、今では捨てられない自分の一部になっているということだった。




