第十七話 皇子、抱きしめる
少し離れた場所で、昊夜がその様子を見ていた。
千弦が刹那の傷に布を巻きはじめる。手当てをしながら、刹那の無事を確かめるように、何度も声をかけていた。
昊夜は、重い足取りでゆっくりと桜桃の方へ歩み寄った。
地面に膝をついたまま、呆然と刹那を見つめている桜桃の前で足を止める。
「……怪我は」
桜桃は、肩を揺らして顔を上げた。
涙で濡れた目が、昊夜を見る。
「……昊夜様」
「……」
次の瞬間、昊夜は桜桃の前に片膝をつき、ほとんど同時にその腕を引き寄せる。
「……っ」
桜桃の身体が傾き、そのまま昊夜の胸へと飛び込んだ。
昊夜の腕が、迷うことなく背へ回る。
桜桃の息が一瞬止まった。
先ほどまで溢れていた涙さえ、引っ込んだような気がした。
耳のすぐ近くに、昊夜の鼓動がある。
近い。近すぎる。
「……昊夜、様」
呼んだ声が、自分でも驚くほど小さくなった。
昊夜は答えない。
自分でも、なぜそうしたのか分からないように、ただ桜桃を抱きしめている。
桜桃の頬が、昊夜の胸元に触れる。
そこにいる。生きている。
その確かな重みを腕の中に感じて、昊夜はようやく小さく息を吐いた。
「……怪我は」
もう一度、低い声が落ちる。
「……ない、です」
「そうか」
それでも、すぐには腕を解かなかった。
しばらくして桜桃から離れると、桜桃の頬についた泥へ手を伸ばしかけ――一瞬、止まる。
それでも親指の腹で、そっと拭った。
「……もう大丈夫だ」
「……昊夜様」
短い言葉だった。だが、その声に、いつもの硬さはなかった。
昊夜は、桜桃の頬に触れたまま、しばらく動かなかった。
やがてその手が離れても、桜桃はすぐには動けなかった。
つい先ほどまで自分を包んでいた腕の強さも、頬に触れていた胸元の温もりも、まだ身体のどこかに残っているような気がする。
あれほど怖かったはずなのに、抱きしめられた瞬間だけ、追っ手のことも、刹那の血も、何もかもが遠ざかった。
桜桃は戸惑うように、自分の胸元へそっと手を添えた。
心臓が、妙に速い。
怖かったからだろうか。
そう思ったところで、もう一度昊夜の顔を見ることができなくなった。
昊夜もまた、そんな桜桃の様子には気づかないまま、離したばかりの腕に残る感触へ、わずかに指を握った。
失っていたかもしれない。
その事実だけが、彼の頭の中で、何度も繰り返された。
「昊夜様、こちらの手当てももうすぐ終わります。もう少々お待ちくださいね」
不意に飛んできた千弦の明るい声に、桜桃ははっと顔を上げた。
少し離れたところでは、千弦が何事もなかったような顔で刹那の肩に布を巻いている。
刹那もまた何も言わなかった。ただ一度だけ昊夜を見て、それから桜桃を見て、何とも言えない顔で視線を逸らした。
「分かっている」
昊夜は短く応じた。
その返事があまりにもいつも通りだったので、桜桃はますます何も言えなくなった。
風が吹き抜ける廃寺のなかに、静かな時間が流れていく。
やがて呼吸が落ち着いた頃、壁に背を預けた刹那が重い声で口を開いた。
「……助かった」
肩を覆う白い布には、まだ生々しい赤い染みが広がり続けている。それでも、その声にはいつもの不敵な強さが戻っていた。
「だが、妙だったんだよな」
昊夜がゆっくりと視線を上げた。
「妙、とは」
「俺たちを追ってきた奴らだ。どうにも、姫の命を本気で狙う風じゃなかった」
刹那は肩の傷口を軽く手で押さえ、痛みに眉をひそめながら言葉を重ねた。
「姫を殺すなら、もっと早くいくらでも決着をつけられたはずだ。なのに、奴らはやたらと俺たちの動きを制限して囲み、姫を無傷で捕らえようとしてた。まるで――」
少し、言葉を選ぶように間を置く。
「どこかの誰かに、『生かして連れてこい』と言われてるみたいにな」
桜桃はその言葉を聞いて、息を詰めて刹那を見た。
昊夜は何も言わなかった。ただ、静かに霧が薄れゆく外の景色へと視線を移した。
千弦が余った布や道具を片付けながら、声音を落として会話に加わる。
「昊夜様。先ほど捕らえた男は、『御台様の命』だと言っていましたね」
「……ああ。未散の差し向けた者たちの狙いは、私だった」
廃寺の中が、水を打ったように静まり返った。
桜桃が、小さく息を呑む音が響く。
「……では、私たちを追い詰めてきた人たちは……?」
「未散の手の者ではない」
昊夜は、まっすぐに刹那を見据えた。
「お前たちを追っていた者たちが、六花を生かして連れて行くつもりだったとすれば――それは完全に別の差し金だ」
刹那はしばらくの間、沈黙を守っていた。
それから、忌々しげに呟いた。
「……二つ、別の連中が、同じ場所で同時に動いてたってことか」
「そうなるな」
昊夜の目が、鋭さを増す。
「未散による私の暗殺の企てと、六花を生かして奪う企て。両方が、同じ日、同じ場所で動いた」
昊夜は、視線をさらに山の向こう、帝都の方角へと向けた。
流れる雾が、まだ白く薄く残っている。
「未散に二重の手回しができるとは思えない。だとすれば」
彼はそこで一度、言葉を切った。
「未散すら、手玉に取られている。この状況そのものを、誰かが仕組んだのかもしれない」
廃寺の中に、しばらく重い沈黙が落ちた。
桜桃は、香袋を握りしめたまま、昊夜の横顔を見ていた。
その目の奥に、これまで見たことのない昏く深い色が浮かんでいた。
それは単なる警戒でも、燃え盛る怒りでもない。
暗闇のなかで、黒幕の正体を引きずり出そうとするような瞳だった。
***
桜桃が狄族の集落へと向かって帝都を発ってから、三日が経った。
宮廷の廊下は、いつもと変わらない。
人が行き交い、書類が運ばれ、雑多な声が響いている。何も変わっていない。
ただ、桜桃がいない。
それだけのことが、どこか廊下の空気を変えていた。
朝凪は廊下を歩きながら、頭の中を整理していた。
今、できることがある。
灯籠流しの夜、桜桃が言っていた。
二つの帳簿に矛盾した記録があったこと、閲覧制限がかかっていること。
当時は調べに行く機会がなかったというその場所へ、今なら行ける。
宮廷書庫の扉の前に立った。中から音はしない。
静かに扉を開けると、埃と古い紙の匂いが鼻を突いた。人の気配はなかった。
朝凪は中へ入り、扉を閉めた。
閲覧制限記録を開き、素早く目を通す。
前帝時代の女官の記録。
皇后に関する記録。
侍女の出入り記録。
どれも後宮関連の記録だ。
(……謀反とは、無関係か……?)
朝凪は次の棚へ移動する。
桜桃が言っていた棚の位置を思い出す。西側の古い棚。
朝凪は棚の前に立ち、並んでいる帳簿を一つずつ、時期を確かめながら追っていった。
ある場所で手が止まった。
二冊を引き出し、長机に並べる。同じ日付を探すと、すぐにそれが見つかった。
片方の公式日誌には「視察のため不在」とある。
もう片方の実務記録には、同じ日に「宮廷内にて執務」とある。
朝凪はしばらく二冊を見比べた。どちらかが嘘だ。どちらが本物かは今は分からないが、誰かが記録を書き換えたか、あるいは偽の記録を作った。それだけは確かだった。
そしてその記録の周辺には、見覚えのある名前があった。
周囲の帳簿に視線を巡らせ、宮廷への出入りを記録した書を引き出した。
同じ時期の頁を開き、指で追う。
また、指が止まった。
その不審な記録に出てきた人物たちが、その後、宮廷の記録から一斉に消えていた。
死亡の記録はない。流罪の記録もない。ただ、名前が消えている。
朝凪はその名前の人物たちの共通点を記憶から辿った。
以前、狄族との「殲滅戦」について口にしていた者たちだった。
「なぜ戦になったのか」と問うていた者。「あの戦い方はやりすぎだ」と漏らしていた者。
公にはできない疑問を、静かに持っていた者たち。
そういう者たちが、ほぼ同じ時期に消えていた。矛盾した記録の日付と、彼らが消えた時期は重なっている。
朝凪は静かに息を吐いた。
(繋がっている)
矛盾した記録と、消えた名前と、八重御所の変。
殲滅戦に疑問を持った者たちの動きを、誰かが事前に隠していた。そして、八重御所の変で、その者たちは消えた。全部が同じ線の上にある。
だが、まだ分からないことがある。
記録を書き換えたのが誰か。この者たちを集めたのが誰か。
如月は八重御所の変を調べていた。
その如月を殺した深黎が、謀反に関わっているのは間違いない。
深黎が殲滅戦の生き残りであれば、動機もある。仲間を失った怒りを、三年かけて宮廷の中で熾し続けることは、できない話ではない。
だとすれば、この者たちを集めたのも深黎か。
朝凪は帳簿を元の位置に戻し、扉へ向かった。
***
桜桃たち一行が、備州の領地へと差し掛かった頃のことだった。
見通しの良い街道を進む一行の後ろから、何やら妙な気配が漂ってきた。
かすかに聞こえた声に、誰かが振り返った。
メェ。
白い塊が動いている。羊だった。
メェメェ。
一頭だけではない。後ろから何頭も連なって歩いてくる。その合間に、別の太い声が混じった。
モォ。
黒い背中が見えた。牛も混じっていた。
桜桃は思わず足を止め、目を丸くした。前方を警戒していた刹那が、手綱を引いて馬を止める。
「……なんだ、あれは」
「分かりません」
「なんでこんな街道の真ん中に、羊と牛がいるんだ」
「分かりませんね」
千弦が馬首を巡らせ、後方の様子を落ち着いて確認しながら言葉を添えた。
「十頭ほどいますね。数えたところ、羊が七、牛が三です」
「なぜこんなところにいる」
「さあ」
「どこかの牧場から迷い込んだのか?」
「にしては、私たちの列にしっかりついてきていますね」
試しに一行が歩みを再開すると、羊たちもそれに合わせるようにトコトコと進み出す。
一行が足を止めると、羊たちもその場で足を止め、草を食み始めた。
メェ。
怯える様子もなく、妙に人懐っこい仕草で距離を保っている。
「……追い払えないか。邪魔だ」
「やってみます」
近衛の一人が数歩近づき、手を叩いて羊を追い払おうとした。羊たちは驚いて少し距離を置いたものの、一行が再び進み出すと、やはり当然のように後ろを着いてきた。
メェメェ。
「……着いてきてますね」
「見れば分かる」
昊夜は静かに言った。その横顔はいつも通り冷静だったが、どこか眉間のあたりに、何かを噛み殺しているような気配があった。
しばらく進んだ後、休憩のために一行が街道の脇に止まった。
羊たちもすぐ近くの草むらに集まり、のんびりと腰を下ろしている。桜桃は何気ない足取りで、その中でも特に近くにいた一頭に近づいてみた。
丸々と肥えた、毛並みの見事な羊だった。
よく見ると、その首のあたりに、周囲の毛に紛れるようにして何かが結びつけられている。
布に包まれた、小さな紙だった。
桜桃は周囲の目を気にしながら、そっと紐をほどいた。
包みをあけ、中から現れた紙を開いて読む。一度目を走らせ、それからもう一度、確かめるように読んだ。
『我が備州で最も丸々と肥えた羊と、最上級の儀礼酒だ。あちらにこれをくれてやれ。神祇官としてのハクがつく。生贄が足りなければいつでも追加を送るから、お前は絶対に生贄になるなよ』
桜桃はしばらくの間、その紙を見つめていた。
どこにも差出人の名は書かれていなかった。けれど、力強くどこか奔放なその筆跡には、はっきりと見覚えがあった。
(……叔父様!)
備州を治める銀牙の、ぶっきらぼうながらも温かい顔が脳裏に浮かぶ。
桜桃は手元から視線を移し、目の前の羊を見た。羊はぱちぱちと静かに瞬きを返してくる。
「……備州の羊なのね」
メェ。
羊はまるで言葉が分かったかのように、短く答えて鳴いた。
桜桃の口元から、自然と小さな笑みがこぼれた。笑いながらも、胸に込み上げるものがあり、少しだけ目が熱くなる。
彼女は手紙を破らないよう丁寧に折りたたみ、人目を避けるようにして懐へ深く仕舞い込んだ。
足音を立てて、刹那が近づいてきた。
「なんで羊に話しかけてるんだ?」
「……縁があって」
「羊と?」
「ええ、羊と」
刹那は怪訝そうな顔でしばらく桜桃を見つめ、それから足元の羊へと視線を落とした。
「……誰が送ってきたんだ、これ。ただの迷子じゃねぇだろ」
「さあ」
「さあって、お前」
「備州の方ではないかと思うけど」
「備州の誰だ?」
「さあ」
桜桃が頑なに口を割らないのを見て、刹那はそれ以上深く追及するのをやめた。ただ、手近な羊の頭を大きな手で一頭撫でてから、ぽつりと言った。
「……備州の人間は、随分と心配性だな」
桜桃はそれには答えなかった。ただ、はぐらかすように少しだけ微笑んだ。
昊夜は少し離れた場所から、その様子をじっと見つめていた。
桜桃は振り返り、その昊夜の視線を真っ直ぐに受け止めた。
「武州のときといい、備州は豊かなのですか」
桜桃の問いに、昊夜は少しだけ眉をひそめた。
「いや」
「え」
「備州も昨年は不作だったはずだ」
桜桃は驚いて目を瞬いた。
「でも、中央への報告では……」
「やや減収」
昊夜が淡々と告げる。
「その程度だったな」
「では、どうして」
「知らん」
即答だった。
「だが、不作の年に戦地へ食糧を送り、今度は勝手に家畜を送ってくる」
昊夜は視線を前方に向けたまま言葉を続けた。
その声音には、呆れたような響きが混じっていた。
「何を考えているのか分からん男だ」
桜桃は口元を押さえて思わず笑った。
昊夜が他者をそのように評するのを聞くのは、ひどく新鮮で珍しいことだったからだ。
様子をうかがっていた千弦が、馬を少し寄せて静かに言った。
「昊夜様、この羊たち、どうしますか」
「……連れて行く」
「はい」
「文句があるなら備州に言え」
千弦はすべてを察したようににこやかに頷いた。
主たちの会話に応じるように、足元で羊がまた、メェと間の抜けた声で鳴いた。




