第十四話 一番星
桜桃は慌てて、さらに乱暴に涙を拭った。
「……朝凪の前では、泣けないので」
「泣けばいい」
「朝凪に泣きつくなと言ったのは、昊夜様です」
昊夜は少し黙った。いつもなら冷たく突き放すはずの男が、困ったように眉の端を下げる。
「……そうか」
重い足音を響かせて近づいてきて、昊夜は桜桃の目の前に立った。
彼の一歩はいつも距離が近い。
夜風が二人の間を吹き抜け、桜桃はたまらず、もう一度両手で袖を目元に当てて顔を隠した。情けない姿を、一番見られたくない相手に見られている。
「……今日だけは、泣いていい」
頭上から、酷く低い、けれど驚くほど優しい声が降ってきた。
「ここに、お前の涙をすべて置いていけ」
その言葉を聞いた瞬間、張り詰めていた心の糸が、音を立てて全部崩れ落ちた。
うつむいた桜桃の口元から、小さな嗚咽が漏れた。
みっともない、情けないと思いながらも、一度決壊した感情はもう止められなかった。
「行きたく、ありません……っ」
声が震えた。
両顔を袖で覆ったまま、子供のように泣きじゃくる。
昊夜は何も言わなかった。否定もしない。生ぬるい励ましもしない。
ただ静かに、大きな体で夜風から桜桃を遮るようにして、彼女の泣き声を聞いていた。
「怖いんです。知らない土地で……知らない人たちの中で、私は本当に、ちゃんとやっていけるのか……」
言葉にすると情けなかった。
昊夜は少しだけ、夜の空を見上げた。
「そうだろうな」
その一言だけだった。
気の利いた慰めではないはずなのに、不思議と、張り裂けそうだった胸がすっと軽くなっていく。
昊夜は、少しだけ困ったように手を伸ばすと、桜桃の小さな頭を、ぽん、とひとつ大きな手のひらで撫でた。
髪をすくような、不器用で、優しい手つきだった。
「だが、お前は行く」
静かに、けれど力強く断言した。
桜桃は、涙に濡れた顔をゆっくりと上げた。
昊夜は真っ直ぐに彼女を見下ろしている。
頭を撫でた手を頬へ滑らして、涙をそっと拭う。
「泣いても。怖くても。行く……そして、必ず私の元へ帰ってくる」
それは、数日前の夜に交わした、二人だけの「命令」の繰り返しだった。
桜桃は、深く、深く息を吸い込んだ。
衣服に残る彼の白檀の香りを胸いっぱいに満たしながら、今度こそ、きつく袖で顔を拭った。
目が真っ赤に腫れているのが自分でも分かったが、構わなかった。
今夜だけは、昊夜が言った通り、すべての恐怖をこの場所に置いていく。
「……はい」
昊夜はそれ以上何も言わなかった。
ただ、涙の止まった彼女の顔を、一度だけ見つめ、静かに半歩だけ下がった。
桜桃はもう一度だけ夜空を見上げた。星の輝きが先程までと違って見えた。
その中に強い光を放つ星がひとつ、夜の深みに揺らぐことなく輝いていた。
桜桃はもう振り返らずに、まっすぐ前を向いて歩き出した。
***
庭先の枝垂れ桜が散り終えている。
柔らかな月明かりが障子を照らしているが、部屋の隅には名残惜しげな冷気が漂っている。
深黎は静かに頭を下げた。
「……明日、狄族へ向かわれますね」
湯気を立てる茶に視線を落としたまま、その人は小さく頷いた。
「そうですね」
「計画を変更して、よろしいのですか」
手元で、扇がゆっくりと閉じられる。
「ええ。元の計画が誰かに露見した可能性があります」
あまりにもあっさりとした返答に、深黎は僅かに眉を寄せた。
「では、薬は?」
「もう必要ありません」
深黎は懐から小さな包みを取り出しかけ、再びその手を止めた。
「……承知いたしました」
深黎は、静かに頭を下げ、部屋を辞する。
窓の外では、吹き抜ける風が若葉を揺らしていた。
その人は一人残された部屋で、冷めかけた茶を静かに口へ運んだ。
***
出発の朝は、よく晴れていた。
桜桃が支度を終えて回廊に出てくると、待っていた者たちが一斉に動きを止めた。
花嫁衣裳だった。
輿での移動を想定した、動きやすい仕立てだ。だが生地は上質で、白の絹地が光を柔らかく含んでいる。
金の刺繍は胸元と袖口にだけ、控えめに入っていた。
髪は結い上げられ、細い銀の簪が一本だけ差されている。薄く紅が引かれていた。
刹那が口を開いた。
「……綺麗だな」
独り言のように言った。
朝凪も、桜桃を見ていた。
「ああ」
短く答えた。
目が、桜桃から離せなかった。
綺麗だと思った。心の底から、そう思った。
いつもの神祇官の衣とは違う。髪の結い方も、紅の色も、全部が今日だけのものだった。
いつかはこの手から離れ、誰かに嫁ぐことは、最初から分かっていたことだった。
だからこそ、その日が来るまでは、この命を賭してお護りせねばならないと、それだけを胸に歩んできたはずだった。
でもーー。
この衣は、誰かのために纏った衣だった。
この顔は、どこか遠くへ行くための顔だった。
綺麗だと思えば思うほど、それが胸に刺さった。
――こんな思いを抱くようになったのは、一体、いつからだろうか。
ただの忠誠が、いつしか別の熱を帯びてしまっていた。
握りしめた拳の掌に、爪が食い込む。
何も言えなかった。
「ああ」の一言を返すのが、精一杯だった。
刹那が、朝凪の方を向いた。
「……無事に送り届けてやるよ」
朝凪は視線を移した。
「……頼む」
短く、それだけを託した。
刹那は、小さく頷いた。それから桜桃に近づき、少し屈んで目線を合わせる。
「姫、綺麗だ」
桜桃の頬に、じわりと赤みが差した。視線が、足元へ泳ぐ。
「……刹那」
「本当のことを言った」
「急に言わないで」
「急じゃない。ずっと思ってた」
「それはそれで困る」
刹那は微笑んだ。
からかっているような、でも本気のような、いつもの顔だった。
「さすが刹那さん」
千弦が感心したように言った。
「さらりと言えるのは才能ですね。昊夜様なんか口が裂けても言わなさそう」
「は?」
昊夜の声が飛んできた。
「言えないわけではない」
「では言えるんですか」
「……」
「昊夜様?」
「黙れ」
千弦は澄ました顔で前を向いた。
刹那がくっと笑いを堪え、肩を揺らす。
桜桃はまだ少し頬を染めたまま、昊夜を横目で見た。
昊夜は気まずそうに、別の方向を向いていた。
輿の前に立っていた桜桃に、足音が近づいてきた。
「六花殿」
桜桃が振り返ると、雲英が立っていた。
「雲英様」
「出発前に、少し」
雲英はいつもと変わらない顔をしていた。ただ、歩みを進める動きがわずかに慎重だった。
衣服の擦れる音の合間に、わずかな躊躇いがある。脇腹をかばっているのかもしれない。
「怪我は……大丈夫ですか」
「はい。ご心配なく」
雲英は静かに微笑んだ。
桜桃は少し迷ってから、口を開いた。
「深黎、ですよね。刺したのは。あのとき、何があったんですか」
雲英はじっと桜桃を見ている。
「……深黎と斎宮様が会っていたことを、あなたは知っていましたか」
桜桃の顔から、血の気が引いた。指先が微かに冷たくなる。
雲英はそれを見て、静かに続けた。
「言いませんよ」
「……え」
「斎宮様もただではすまなくなります。ことが大きくなりすぎる」
桜桃は雲英を見つめた。
「……すみませんでした」
「いえ。……それで処罰されると思った深黎に、刺されてしまいました」
「深黎は……一体何を考えて」
「私も怪しいと思って、しばらく行動を注視していたのですが」
雲英は少し視線を落とした。
「まさか、ああいう形で来るとは思っていなかった」
桜桃はしばらく雲英を見ていた。冷え込んだ空気が、二人の間に漂う。
「……輿入れ前にする話ではなかったですね」
雲英は深く一礼した。
「婚礼、おめでとうございます」
「……ありがとうございます」
「道中、くれぐれも気をつけて」
雲英の目が、桜桃をまっすぐ捉えた。
「あなたに何かあれば、大変なことになりますから」
桜桃は頷いた。
「……はい」
雲英はもう一度一礼して、背を向けた。
その背中が、回廊の向こうへ静かに消えていく。
桜桃はしばらく、その方向を見つめていた。
***
輿の方へ向かいかけて、桜桃は足を止めた。
見送りの人垣の端に、朝凪が立っていた。
馬はない。
警護の列にも入っていない。
ただ、そこに立っていた。
ただ、冷たい朝の空気の中に、静かに、そこに立ち尽くしていた。
桜桃は吸い寄せられるように、朝凪の前へ歩いた。
何を言うつもりかも、自分でも分からないまま、ただ本能で足が動いていた。
朝凪はまっすぐに桜桃を見ていた。何も言わなかった。
しばらく、二人は雑踏の中で、お互いだけを見つめて向き合っていた。
「……朝凪、来てくれてよかった」
「警護からは外されています」
「分かってる」
朝凪はしばらく桜桃を見つめていた。その瞳が、切なげに揺れる。
やがて彼はゆっくりと桜桃の手を取り、大きな両手で、壊れ物を扱うようにそっと包み込んだ。
それは、祈るような手つきだった。
「狄族の地は、寒いそうです」
静かな声だった。
「過酷な場所でしょう」
「……うん」
朝凪の視線が、桜桃の胸元へ落ちた。
香袋だった。
「……持っていってくださるんですね」
桜桃は少し間を置いてから、彼の大きな手のひらの温もりを感じつつ、微笑んだ。
「お守りにする」
朝凪は何も言わなかった。
ただ、包んでいた手に、わずかに力が入った。
「必ず、迎えに行きます。だから、どうか、生き延びてください」
桜桃は朝凪を見上げた。朝凪はゆっくりと視線を下げ、二人の視線が至近距離で重なる。
「迎えに行った時——その笑顔を、絶やしていなければ、それだけで構いません」
朝凪のかすかに震えた声が、桜桃の心を揺さぶり、視界がじわりと熱いもので滲んだ。今泣くわけにはいかない。
「……風が強いわね」
桜桃は上を向き、声が震えないよう小さく言った。
朝凪はそんな桜桃の強がりを愛おしむように、少しだけ目を細めた。
「……そうですね」
そのまま彼は自分の大きな袖を、桜桃の顔の前に、そっと広げた。
回廊で、涙を他人の目から隠してくれた時と、まったく同じ優しい仕草だった。
朝凪の衣服が作る、わずかな袖の影の中。
桜桃は一度だけ目を閉じ、今度こそ、滲んだ涙を目の奥へと押し込んだ。
彼の匂いを、深く吸い込んだ。
深い燻木の、落ち着いた沈香の香り。
息を吐いた。もう、迷いはなかった。
「……行ってきます」
「はい。……御武運を、姫様」
朝凪が、周囲に聞こえぬほどの囁きで、本当の身分を呼んだ。
朝凪が袖を下ろすと、そこにはいつもの、感情の読めない静かな顔があった。
桜桃も、凛とした何事もない顔を作ってみせる。
踵を返す。
輿へ向かって、一歩ずつ踏み出していく。
もう、振り返らなかった。
振り返ったら、彼の温もりに引き返したくなって、歩けなくなる気がしたから。




