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狂桜華《きょうおうか》~亡国の姫は、名を捨て帝を目指す~  作者: 澪
第五章 偽りの花嫁【異郷婚姻編】

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第十四話 一番星

 桜桃は慌てて、さらに乱暴に涙を拭った。


「……朝凪の前では、泣けないので」


「泣けばいい」


「朝凪に泣きつくなと言ったのは、昊夜様です」


 昊夜は少し黙った。いつもなら冷たく突き放すはずの男が、困ったように眉の端を下げる。


「……そうか」


 重い足音を響かせて近づいてきて、昊夜は桜桃の目の前に立った。


 彼の一歩はいつも距離が近い。


 夜風が二人の間を吹き抜け、桜桃はたまらず、もう一度両手で袖を目元に当てて顔を隠した。情けない姿を、一番見られたくない相手に見られている。


「……今日だけは、泣いていい」


 頭上から、酷く低い、けれど驚くほど優しい声が降ってきた。


「ここに、お前の涙をすべて置いていけ」


 その言葉を聞いた瞬間、張り詰めていた心の糸が、音を立てて全部崩れ落ちた。


 うつむいた桜桃の口元から、小さな嗚咽が漏れた。


 みっともない、情けないと思いながらも、一度決壊した感情はもう止められなかった。


「行きたく、ありません……っ」


 声が震えた。

 両顔を袖で覆ったまま、子供のように泣きじゃくる。


 昊夜は何も言わなかった。否定もしない。生ぬるい励ましもしない。


 ただ静かに、大きな体で夜風から桜桃を遮るようにして、彼女の泣き声を聞いていた。


「怖いんです。知らない土地で……知らない人たちの中で、私は本当に、ちゃんとやっていけるのか……」


 言葉にすると情けなかった。

 昊夜は少しだけ、夜の空を見上げた。


「そうだろうな」


 その一言だけだった。


 気の利いた慰めではないはずなのに、不思議と、張り裂けそうだった胸がすっと軽くなっていく。


 昊夜は、少しだけ困ったように手を伸ばすと、桜桃の小さな頭を、ぽん、とひとつ大きな手のひらで撫でた。


 髪をすくような、不器用で、優しい手つきだった。


「だが、お前は行く」


 静かに、けれど力強く断言した。


 桜桃は、涙に濡れた顔をゆっくりと上げた。


 昊夜は真っ直ぐに彼女を見下ろしている。


 頭を撫でた手を頬へ滑らして、涙をそっと拭う。


「泣いても。怖くても。行く……そして、必ず私の元へ帰ってくる」


 それは、数日前の夜に交わした、二人だけの「命令」の繰り返しだった。


 桜桃は、深く、深く息を吸い込んだ。


 衣服に残る彼の白檀の香りを胸いっぱいに満たしながら、今度こそ、きつく袖で顔を拭った。


 目が真っ赤に腫れているのが自分でも分かったが、構わなかった。


 今夜だけは、昊夜が言った通り、すべての恐怖をこの場所に置いていく。


「……はい」

 

 昊夜はそれ以上何も言わなかった。


 ただ、涙の止まった彼女の顔を、一度だけ見つめ、静かに半歩だけ下がった。


 桜桃はもう一度だけ夜空を見上げた。星の輝きが先程までと違って見えた。


 その中に強い光を放つ星がひとつ、夜の深みに揺らぐことなく輝いていた。


 桜桃はもう振り返らずに、まっすぐ前を向いて歩き出した。


***


 庭先の枝垂れ桜が散り終えている。


 柔らかな月明かりが障子を照らしているが、部屋の隅には名残惜しげな冷気が漂っている。


 深黎は静かに頭を下げた。


「……明日、狄族へ向かわれますね」


 湯気を立てる茶に視線を落としたまま、その人は小さく頷いた。


「そうですね」


「計画を変更して、よろしいのですか」


 手元で、扇がゆっくりと閉じられる。


「ええ。元の計画が誰かに露見した可能性があります」


 あまりにもあっさりとした返答に、深黎は僅かに眉を寄せた。


「では、薬は?」


「もう必要ありません」


 深黎は懐から小さな包みを取り出しかけ、再びその手を止めた。


「……承知いたしました」


 深黎は、静かに頭を下げ、部屋を辞する。


 窓の外では、吹き抜ける風が若葉を揺らしていた。


 その人は一人残された部屋で、冷めかけた茶を静かに口へ運んだ。


***


 出発の朝は、よく晴れていた。


 桜桃が支度を終えて回廊に出てくると、待っていた者たちが一斉に動きを止めた。


 花嫁衣裳だった。


 輿での移動を想定した、動きやすい仕立てだ。だが生地は上質で、白の絹地が光を柔らかく含んでいる。


 金の刺繍は胸元と袖口にだけ、控えめに入っていた。


 髪は結い上げられ、細い銀の簪が一本だけ差されている。薄く紅が引かれていた。


 刹那が口を開いた。


「……綺麗だな」


 独り言のように言った。

 朝凪も、桜桃を見ていた。


「ああ」


 短く答えた。


 目が、桜桃から離せなかった。


 綺麗だと思った。心の底から、そう思った。


 いつもの神祇官の衣とは違う。髪の結い方も、紅の色も、全部が今日だけのものだった。


 いつかはこの手から離れ、誰かに嫁ぐことは、最初から分かっていたことだった。


 だからこそ、その日が来るまでは、この命を賭してお護りせねばならないと、それだけを胸に歩んできたはずだった。


 でもーー。


 この衣は、誰かのために纏った衣だった。

 この顔は、どこか遠くへ行くための顔だった。


 綺麗だと思えば思うほど、それが胸に刺さった。


 ――こんな思いを抱くようになったのは、一体、いつからだろうか。


 ただの忠誠が、いつしか別の熱を帯びてしまっていた。


 握りしめた拳の掌に、爪が食い込む。

 何も言えなかった。


 「ああ」の一言を返すのが、精一杯だった。


 刹那が、朝凪の方を向いた。


「……無事に送り届けてやるよ」


 朝凪は視線を移した。


「……頼む」


 短く、それだけを託した。


 刹那は、小さく頷いた。それから桜桃に近づき、少し屈んで目線を合わせる。


「姫、綺麗だ」


 桜桃の頬に、じわりと赤みが差した。視線が、足元へ泳ぐ。


「……刹那」


「本当のことを言った」


「急に言わないで」


「急じゃない。ずっと思ってた」


「それはそれで困る」


 刹那は微笑んだ。


 からかっているような、でも本気のような、いつもの顔だった。


「さすが刹那さん」


 千弦が感心したように言った。


「さらりと言えるのは才能ですね。昊夜様なんか口が裂けても言わなさそう」


「は?」


 昊夜の声が飛んできた。


「言えないわけではない」


「では言えるんですか」


「……」


「昊夜様?」 


「黙れ」


 千弦は澄ました顔で前を向いた。

 刹那がくっと笑いを堪え、肩を揺らす。


 桜桃はまだ少し頬を染めたまま、昊夜を横目で見た。


 昊夜は気まずそうに、別の方向を向いていた。



 輿の前に立っていた桜桃に、足音が近づいてきた。


「六花殿」


 桜桃が振り返ると、雲英が立っていた。


「雲英様」


「出発前に、少し」


 雲英はいつもと変わらない顔をしていた。ただ、歩みを進める動きがわずかに慎重だった。


 衣服の擦れる音の合間に、わずかな躊躇いがある。脇腹をかばっているのかもしれない。


「怪我は……大丈夫ですか」


「はい。ご心配なく」


 雲英は静かに微笑んだ。


 桜桃は少し迷ってから、口を開いた。


「深黎、ですよね。刺したのは。あのとき、何があったんですか」


 雲英はじっと桜桃を見ている。


「……深黎と斎宮様が会っていたことを、あなたは知っていましたか」


 桜桃の顔から、血の気が引いた。指先が微かに冷たくなる。


 雲英はそれを見て、静かに続けた。


「言いませんよ」


「……え」


「斎宮様もただではすまなくなります。ことが大きくなりすぎる」


 桜桃は雲英を見つめた。


「……すみませんでした」


「いえ。……それで処罰されると思った深黎に、刺されてしまいました」


「深黎は……一体何を考えて」


「私も怪しいと思って、しばらく行動を注視していたのですが」


 雲英は少し視線を落とした。


「まさか、ああいう形で来るとは思っていなかった」


 桜桃はしばらく雲英を見ていた。冷え込んだ空気が、二人の間に漂う。


「……輿入れ前にする話ではなかったですね」


 雲英は深く一礼した。 


「婚礼、おめでとうございます」


「……ありがとうございます」


「道中、くれぐれも気をつけて」 


 雲英の目が、桜桃をまっすぐ捉えた。 


「あなたに何かあれば、大変なことになりますから」


 桜桃は頷いた。


「……はい」


 雲英はもう一度一礼して、背を向けた。

 その背中が、回廊の向こうへ静かに消えていく。


 桜桃はしばらく、その方向を見つめていた。


***


 輿の方へ向かいかけて、桜桃は足を止めた。

 見送りの人垣の端に、朝凪が立っていた。

 

 馬はない。

 警護の列にも入っていない。


 ただ、そこに立っていた。


 ただ、冷たい朝の空気の中に、静かに、そこに立ち尽くしていた。


 桜桃は吸い寄せられるように、朝凪の前へ歩いた。


 何を言うつもりかも、自分でも分からないまま、ただ本能で足が動いていた。


 朝凪はまっすぐに桜桃を見ていた。何も言わなかった。


 しばらく、二人は雑踏の中で、お互いだけを見つめて向き合っていた。


「……朝凪、来てくれてよかった」


「警護からは外されています」


「分かってる」


 朝凪はしばらく桜桃を見つめていた。その瞳が、切なげに揺れる。

  やがて彼はゆっくりと桜桃の手を取り、大きな両手で、壊れ物を扱うようにそっと包み込んだ。


 それは、祈るような手つきだった。


「狄族の地は、寒いそうです」


 静かな声だった。


「過酷な場所でしょう」


「……うん」


 朝凪の視線が、桜桃の胸元へ落ちた。


 香袋だった。


「……持っていってくださるんですね」


 桜桃は少し間を置いてから、彼の大きな手のひらの温もりを感じつつ、微笑んだ。


「お守りにする」


 朝凪は何も言わなかった。

 ただ、包んでいた手に、わずかに力が入った。


「必ず、迎えに行きます。だから、どうか、生き延びてください」


 桜桃は朝凪を見上げた。朝凪はゆっくりと視線を下げ、二人の視線が至近距離で重なる。


「迎えに行った時——その笑顔を、絶やしていなければ、それだけで構いません」


朝凪のかすかに震えた声が、桜桃の心を揺さぶり、視界がじわりと熱いもので滲んだ。今泣くわけにはいかない。


「……風が強いわね」


 桜桃は上を向き、声が震えないよう小さく言った。

朝凪はそんな桜桃の強がりを愛おしむように、少しだけ目を細めた。


「……そうですね」


 そのまま彼は自分の大きな袖を、桜桃の顔の前に、そっと広げた。


 回廊で、涙を他人の目から隠してくれた時と、まったく同じ優しい仕草だった。


 朝凪の衣服が作る、わずかな袖の影の中。


 桜桃は一度だけ目を閉じ、今度こそ、滲んだ涙を目の奥へと押し込んだ。


 彼の匂いを、深く吸い込んだ。


 深い燻木の、落ち着いた沈香の香り。


 息を吐いた。もう、迷いはなかった。


「……行ってきます」


「はい。……御武運を、姫様」


 朝凪が、周囲に聞こえぬほどの囁きで、本当の身分を呼んだ。


 朝凪が袖を下ろすと、そこにはいつもの、感情の読めない静かな顔があった。


 桜桃も、凛とした何事もない顔を作ってみせる。


 踵を返す。


 輿へ向かって、一歩ずつ踏み出していく。

 

 もう、振り返らなかった。


 振り返ったら、彼の温もりに引き返したくなって、歩けなくなる気がしたから。


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