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狂桜華《きょうおうか》~亡国の姫は、名を捨て帝を目指す~  作者: 澪
第五章 偽りの花嫁【異郷婚姻編】

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第十七話 矛盾した記録

 耳のすぐ近くに、昊夜の鼓動がある。


 近い。近すぎる。


「……昊夜、様」


 呼んだ声が、自分でも驚くほど小さくなった。


 昊夜は答えない。


 自分でも、なぜそうしたのか分からないように、ただ桜桃を抱きしめている。


 桜桃の頬が、昊夜の胸元に触れる。


 そこにいる。生きている。


 その確かな重みを腕の中に感じて、昊夜はようやく小さく息を吐いた。


「……怪我は」


 もう一度、低い声が落ちる。


「……ない、です」


「そうか」


 それでも、すぐには腕を解かなかった。


 しばらくして桜桃から離れると、桜桃の頬についた泥へ手を伸ばしかけ――一瞬、止まる。


 それでも親指の腹で、そっと拭った。


「……もう大丈夫だ」


「……昊夜様」


 短い言葉だった。だが、その声に、いつもの硬さはなかった。


 昊夜は、桜桃の頬に触れたまま、しばらく動かなかった。


(——失っていたかもしれない)


 その事実だけが、彼の頭の中で、何度も繰り返された。


 千弦が、刹那の傷に布を巻きながら、にこやかに口を挟んだ。


「昊夜様、こちらの手当てももうすぐ終わります。もう少々お待ちくださいね」


「分かっている」


 昊夜は短く応じた。

 風が吹き抜ける廃寺のなかに、静かな時間が流れていく。


 やがて呼吸が落ち着いた頃、壁に背を預けた刹那が重い声で口を開いた。


「……助かった」


 肩を覆う白い布には、まだ生々しい赤い染みが広がり続けている。それでも、その声にはいつもの不敵な強さが戻っていた。


「だが、妙だったんだよな」


 昊夜がゆっくりと視線を上げた。


「妙、とは」


「俺たちを追ってきた奴らだ。どうにも、姫の命を本気で狙う風じゃなかった」


 刹那は肩の傷口を軽く手で押さえ、痛みに眉をひそめながら言葉を重ねた。


「姫を殺すなら、もっと早くいくらでも決着をつけられたはずだ。なのに、奴らはやたらと俺たちの動きを制限して囲み、姫を無傷で捕らえようとしてた。まるで――」


 少し、言葉を選ぶように間を置く。


「どこかの誰かに、『生かして連れてこい』と言われてるみたいにな」


 桜桃はその言葉を聞いて、息を詰めて刹那を見た。


 昊夜は何も言わなかった。ただ、静かに霧が薄れゆく外の景色へと視線を移した。


 千弦が余った布や道具を片付けながら、声音を落として会話に加わる。


「昊夜様。先ほど捕らえた男は、『御台様の命』だと言っていましたね」


「……ああ。未散の差し向けた者たちの狙いは、私だった」


 廃寺の中が、水を打ったように静まり返った。

 桜桃が、小さく息を呑む音が響く。


「……では、私たちを追い詰めてきた人たちは……?」


「未散の手の者ではない」


 昊夜は、まっすぐに刹那を見据えた。


「お前たちを追っていた者たちが、六花を生かして連れて行くつもりだったとすれば――それは完全に別の差し金だ」


 刹那はしばらくの間、沈黙を守っていた。

 それから、忌々しげに呟いた。


「……二つ、別の連中が、同じ場所で同時に動いてたってことか」


「そうなるな」


 昊夜の目が、鋭さを増す。


「未散による私の暗殺の企てと、六花を生かして奪う企て。両方が、同じ日、同じ場所で動いた」


 昊夜は、視線をさらに山の向こう、帝都の方角へと向けた。

 流れる雾が、まだ白く薄く残っている。


「未散に二重の手回しができるとは思えない。だとすれば」


 彼はそこで一度、言葉を切った。


「未散すら、手玉に取られている。この状況そのものを、誰かが仕組んだのかもしれない」


 廃寺の中に、しばらく重い沈黙が落ちた。

 桜桃は、香袋を握りしめたまま、昊夜の横顔を見ていた。


 その目の奥に、これまで見たことのない昏く深い色が浮かんでいた。


 それは単なる警戒でも、燃え盛る怒りでもない。


 暗闇のなかで、黒幕の正体を引きずり出そうとするような瞳だった。


***


 桜桃が狄族の集落へと向かって帝都を発ってから、三日が経った。


 宮廷の廊下は、いつもと変わらない。

 人が行き交い、書類が運ばれ、雑多な声が響いている。何も変わっていない。


 ただ、桜桃がいない。


 それだけのことが、どこか廊下の空気を変えていた。


 朝凪は廊下を歩きながら、頭の中を整理していた。

今、できることがある。


 灯籠流しの夜、桜桃が言っていた。


 二つの帳簿に矛盾した記録があったこと、閲覧制限がかかっていること。


 当時は調べに行く機会がなかったというその場所へ、今なら行ける。


 宮廷書庫の扉の前に立った。中から音はしない。


 静かに扉を開けると、埃と古い紙の匂いが鼻を突いた。人の気配はなかった。


 朝凪は中へ入り、扉を閉めた。


 閲覧制限記録を開き、素早く目を通す。


 前帝時代の女官の記録。

 皇后に関する記録。

 侍女の出入り記録。


 どれも後宮関連の記録だ。


(……謀反とは、無関係か……?)


 朝凪は次の棚へ移動する。

 桜桃が言っていた棚の位置を思い出す。西側の古い棚。


 朝凪は棚の前に立ち、並んでいる帳簿を一つずつ、時期を確かめながら追っていった。


 ある場所で手が止まった。

 二冊を引き出し、長机に並べる。同じ日付を探すと、すぐにそれが見つかった。


 片方の公式日誌には「視察のため不在」とある。

 もう片方の実務記録には、同じ日に「宮廷内にて執務」とある。


 朝凪はしばらく二冊を見比べた。どちらかが嘘だ。どちらが本物かは今は分からないが、誰かが記録を書き換えたか、あるいは偽の記録を作った。それだけは確かだった。


 そしてその記録の周辺には、見覚えのある名前があった。


 周囲の帳簿に視線を巡らせ、宮廷への出入りを記録した書を引き出した。


 同じ時期の頁を開き、指で追う。


 また、指が止まった。

 その不審な記録に出てきた人物たちが、その後、宮廷の記録から一斉に消えていた。


 死亡の記録はない。流罪の記録もない。ただ、名前が消えている。


 朝凪はその名前の人物たちの共通点を記憶から辿った。


 以前、狄族との「殲滅戦」について口にしていた者たちだった。


 「なぜ戦になったのか」と問うていた者。「あの戦い方はやりすぎだ」と漏らしていた者。

 公にはできない疑問を、静かに持っていた者たち。


 そういう者たちが、ほぼ同じ時期に消えていた。矛盾した記録の日付と、彼らが消えた時期は重なっている。


 朝凪は静かに息を吐いた。


(繋がっている)


 矛盾した記録と、消えた名前と、八重御所の変。


 殲滅戦に疑問を持った者たちの動きを、誰かが事前に隠していた。そして、八重御所の変で、その者たちは消えた。全部が同じ線の上にある。


 だが、まだ分からないことがある。


 記録を書き換えたのが誰か。この者たちを集めたのが誰か。


 如月は八重御所の変を調べていた。


 その如月を殺した深黎が、謀反に関わっているのは間違いない。


 深黎が殲滅戦の生き残りであれば、動機もある。仲間を失った怒りを、三年かけて宮廷の中で熾し続けることは、できない話ではない。


 だとすれば、この者たちを集めたのも深黎か。


 朝凪は帳簿を元の位置に戻し、扉へ向かった。


***


 桜桃たち一行が、備州の領地へと差し掛かった頃のことだった。


 見通しの良い街道を進む一行の後ろから、何やら妙な気配が漂ってきた。


 かすかに聞こえた声に、誰かが振り返った。


 メェ。


 白い塊が動いている。羊だった。


 メェメェ。


 一頭だけではない。後ろから何頭も連なって歩いてくる。その合間に、別の太い声が混じった。


 モォ。


 黒い背中が見えた。牛も混じっていた。


 桜桃は思わず足を止め、目を丸くした。前方を警戒していた刹那が、手綱を引いて馬を止める。


「……なんだ、あれは」


「分かりません」


「なんでこんな街道の真ん中に、羊と牛がいるんだ」


「分かりませんね」


 千弦が馬首を巡らせ、後方の様子を落ち着いて確認しながら言葉を添えた。


「十頭ほどいますね。数えたところ、羊が七、牛が三です」


「なぜこんなところにいる」


「さあ」


「どこかの牧場から迷い込んだのか?」


「にしては、私たちの列にしっかりついてきていますね」


 試しに一行が歩みを再開すると、羊たちもそれに合わせるようにトコトコと進み出す。


 一行が足を止めると、羊たちもその場で足を止め、草を食み始めた。


 メェ。


 怯える様子もなく、妙に人懐っこい仕草で距離を保っている。


「……追い払えないか。邪魔だ」


「やってみます」


 近衛の一人が数歩近づき、手を叩いて羊を追い払おうとした。羊たちは驚いて少し距離を置いたものの、一行が再び進み出すと、やはり当然のように後ろを着いてきた。


 メェメェ。


「……着いてきてますね」


「見れば分かる」


 昊夜は静かに言った。その横顔はいつも通り冷静だったが、どこか眉間のあたりに、何かを噛み殺しているような気配があった。


 しばらく進んだ後、休憩のために一行が街道の脇に止まった。


 羊たちもすぐ近くの草むらに集まり、のんびりと腰を下ろしている。桜桃は何気ない足取りで、その中でも特に近くにいた一頭に近づいてみた。


 丸々と肥えた、毛並みの見事な羊だった。


 よく見ると、その首のあたりに、周囲の毛に紛れるようにして何かが結びつけられている。


 布に包まれた、小さな紙だった。


 桜桃は周囲の目を気にしながら、そっと紐をほどいた。


 包みをあけ、中から現れた紙を開いて読む。一度目を走らせ、それからもう一度、確かめるように読んだ。


『我が備州で最も丸々と肥えた羊と、最上級の儀礼酒だ。あちらにこれをくれてやれ。神祇官としてのハクがつく。生贄が足りなければいつでも追加を送るから、お前は絶対に生贄になるなよ』


 桜桃はしばらくの間、その紙を見つめていた。


 どこにも差出人の名は書かれていなかった。けれど、力強くどこか奔放なその筆跡には、はっきりと見覚えがあった。


(……叔父様!)


 備州を治める銀牙の、ぶっきらぼうながらも温かい顔が脳裏に浮かぶ。


 桜桃は手元から視線を移し、目の前の羊を見た。羊はぱちぱちと静かに瞬きを返してくる。


「……備州の羊なのね」


 メェ。


 羊はまるで言葉が分かったかのように、短く答えて鳴いた。


 桜桃の口元から、自然と小さな笑みがこぼれた。笑いながらも、胸に込み上げるものがあり、少しだけ目が熱くなる。


 彼女は手紙を破らないよう丁寧に折りたたみ、人目を避けるようにして懐へ深く仕舞い込んだ。


 足音を立てて、刹那が近づいてきた。


「なんで羊に話しかけてるんだ?」


「……縁があって」


「羊と?」


「ええ、羊と」


 刹那は怪訝そうな顔でしばらく桜桃を見つめ、それから足元の羊へと視線を落とした。


「……誰が送ってきたんだ、これ。ただの迷子じゃねぇだろ」


「さあ」


「さあって、お前」


「備州の方ではないかと思うけど」


「備州の誰だ?」


「さあ」


 桜桃が頑なに口を割らないのを見て、刹那はそれ以上深く追及するのをやめた。ただ、手近な羊の頭を大きな手で一頭撫でてから、ぽつりと言った。


「……備州の人間は、随分と心配性だな」


 桜桃はそれには答えなかった。ただ、はぐらかすように少しだけ微笑んだ。


 昊夜は少し離れた場所から、その様子をじっと見つめていた。


 桜桃は振り返り、その昊夜の視線を真っ直ぐに受け止めた。


「武州のときといい、備州は豊かなのですか」


 桜桃の問いに、昊夜は少しだけ眉をひそめた。


「いや」


「え」


「備州も昨年は不作だったはずだ」


 桜桃は驚いて目を瞬いた。


「でも、中央への報告では……」


「やや減収」


 昊夜が淡々と告げる。


「その程度だったな」


「では、どうして」


「知らん」


 即答だった。


「だが、不作の年に戦地へ食糧を送り、今度は勝手に家畜を送ってくる」


 昊夜は視線を前方に向けたまま言葉を続けた。

 その声音には、呆れたような響きが混じっていた。


「何を考えているのか分からん男だ」


 桜桃は口元を押さえて思わず笑った。

 昊夜が他者をそのように評するのを聞くのは、ひどく新鮮で珍しいことだったからだ。


 様子をうかがっていた千弦が、馬を少し寄せて静かに言った。


「昊夜様、この羊たち、どうしますか」


「……連れて行く」


「はい」


「文句があるなら備州に言え」


 千弦はすべてを察したようににこやかに頷いた。

 主たちの会話に応じるように、足元で羊がまた、メェと間の抜けた声で鳴いた。


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