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狂桜華《きょうおうか》~亡国の姫は、名を捨て帝を目指す~  作者: 澪
第五章 偽りの花嫁【異郷婚姻編】

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第十二話 元近衛中将、隠す

 朝堂院の回廊を進む桜桃に向かう周囲の視線は、昨日までとは完全に様変わりしていた。


「六花殿、どうかご壮健で」


「遠い異国へ赴かれるとは」


「まさに神祇官の誉れ。頭が下がりますな」


 ある者は神妙に声をかけ、ある者は深く頭を下げ、またある者は物珍しげに遠巻きから見つめている。


 誉れ。


 勇気ある決断。


 国のための尊き犠牲。


 美しく装飾された言葉が、次々と容赦なく降ってくる。


 桜桃は、ただ静かに微笑み続けた。


(誉れ。そう……そういうことに、なっているのね)


 誰もが彼女を称賛し、誰もが彼女を「すでに去る者」として扱っている。


 そのおぞましいほどの調和のなか、回廊の端で、文官たちが潜めた小声が耳に届いた。


 静まり返った板敷きの回廊では、隠したつもりでも明瞭に響く。


「……お気の毒にな。まだあんなに若いのに、よりによって異民族のもとへ」


「二度と戻れるかも分からないそうだ」


「いつの世も、ああいう真っ直ぐな方が、一番割を食うのだろう」


 桜桃は前を見据えたまま、歩き続けた。


 歩調は緩めない。だが、突き上げてくる感情の波に、目の奥が焼けるように熱くなった。


『泣くな、六花。不幸な顔を見せるな』


 脳裏で、昊夜の声が厳しく響く。


(泣くな。ここで泣いたら、すべてが終わる。泣けない……)


 神祇官が人前で涙を流すことは、国家への迷いであり、神意への不信の証明となってしまう。


 一度でも隙を見せれば、周囲の憐憫は疑惑へと変わるだろう。


(分かってる。分かってるけど――)


 必死に堪えようとすればするほど、視界の端がじわりと歪み、滲んでいく。


「六花」


 不意に、すぐ近くで聞き慣れた声がした。


 気づけば、着物姿の朝凪がすぐ隣に並んでいた。


「……少し、風が強いようです」


 彼はごく自然な仕草で、桜桃の顔を覆うように、すっと自身の衣の袖を広げた。


 回廊を吹き抜ける、気まぐれな春の突風を避けるため。ただそれだけの、周囲から見れば至極真っ当な気遣いに見えたはずだった。


 けれど、その広げられた袖の影の中だけは、外の衆目から完璧に遮断されていた。


 誰も見ていないその一瞬の中で、桜桃は一度だけ強く目を閉じた。溢れそうになっていた熱い水分を、まぶたの裏へと無理やり押し込める。


「……ありがとう」


 掠れた声は、衣の擦れる音に紛れて、誰にも聞こえないほど小さかった。


「風が止みましたので」


 朝凪は静かに、何事もなかったかのように袖を下ろした。その端正な顔には、何の感情の揺らぎも浮かんでいない。


 桜桃もまた、同じように何事もなかったかのような微笑を貼り付けた。


 二人はそのまま、回廊を歩き続けた。


(これが――)


 桜桃は、半歩後ろに位置取る朝凪の気配を感じながら思った。


(これが、朝凪の警護なのね)


 昊夜の命令を、朝凪は完璧に、そして誰よりも優しく遂行していた。


 朝凪は一度も、慰めの言葉も引き留める言葉も口にしなかった。


 ただ一言の私情も交えぬまま、静かに桜桃の半歩後ろを歩き、彼女の尊厳を影から守り続けていた。


***


 その頃、備州。

 銀牙は自室の机に向かい、届いたばかりの書状を淡々と処理していた。


 そこへ、側近の者が恐る恐る室内に足を踏み入れてきた。


「……申し上げます」


「何だ」


 銀牙は視線を落としたまま、短く応じた。


「帝都より早馬が。……六花殿が、狄族との縁組に関わることになる、と」


 銀牙の手が、ぴたりと止まった。

 供は息を詰まらせながらも、報告を続ける。


「神祇官として儀礼に立ち会う形で、狄族の族長の……」


「分かった」


 有無を言わせぬ響きに、供はそれ以上言葉を続けられず、口を閉じた。


 銀牙は手の中にあった書状をじっと見つめた。しばらくの間、彫像のように動かない。


 やがて、ゆっくりと、しかし確実に指先に力が籠もっていった。


 みしり、と微かな音を立てて書状が歪む。

 劇的に握りつぶすわけではない。ただ、紙を掴む彼の指先が、見る間に白く強張っていく。


 従者たちはただ沈黙し、その様子を見守るしかなかった。今の銀牙には、誰一人として声をかけることすらできなかった。


 銀牙はふっと息を吐き出した。


 それは、芯まで冷え切った息だった。笑っているわけでも、激昂しているわけでもない。ただ、ひたすら冷ややかだった。


(神祇官として戦地へ送り込んだ。それだけでは、まだ足りなかったか)


 今度は異民族への、人身御供か。

 朝廷の連中は、どこまであの娘の血を吸えば気が済むのか。


 姉のときも、同じことを思った。


 もっと早く自分が動いていれば、と。


 あの時は、どうしても間に合わなかった。宮廷の恐ろしさを、銀牙はその時に初めて知ったのだ。知った上で、自分は備州に戻った。戻る以外に道がなかった。


 だが、今回は。


 銀牙は歪んだ書状を机の上に置いた。一度折れ曲がった紙は、もう二度と平らには戻らなかった。


(……あいつは、あそこにいるのは自分の意志だと言った)


 そう言って自分を真っ直ぐに見据えてきた、あの娘の目を今でも鮮明に覚えている。決して引き下がらない、強い目だった。


 だからこそ、余計に腹が立つ。


 朝廷の奴らは、ああいう目をした人間を、都合よく使い倒すのだ。


 意志があるからこそ使いやすいと、その覚悟を利用する。宮廷というのは、昔からそういう薄汚い場所だった。


 銀牙は静かに立ち上がった。


「下がれ」


 その一言で、供たちが一斉に退室していく。


 一人になった静かな部屋で、銀牙は窓の外へと視線を向けた。


 遮るもののない備州の空は、どこまでも広かった。陰湿な帝都の空とはまるで違う。ここにいれば、宮廷の腐った甘さや泥仕合とは無縁でいられる。


 銀牙は静かに目を細めた。


 無縁でいることと、見ないふりをして逃げることは、違う。


 姉の時、自分は無縁の場所にいた。


 その結果がどうなったかを、銀牙は身に染みて知っている。今度もまた、あの時と同じ過ちを繰り返すというのか。


 答えは、とうに決まっていた。


 銀牙は、自身のくせ毛を一本、無意識に指先で引っ張った。指を離すと、それはぴょんと不格好に跳ねた。


 彼は、心の底からうんざりしたように、長いため息をついた。


「……面倒なことになった」


 誰にともなく、しかし確かな決意を込めて、静かに呟いた。


***


 知らせが届いたのは、昼過ぎだった。

 そして夕暮れ前には、馬が一頭、街の大路を猛烈な勢いで駆け抜けていた。


 誰もが驚いて振り返った。それほどの神速だった。


 大路を行く人々が悲鳴を上げて左右に飛びのく。露店の主が慌てて荷物を抱え、壁際へと後退る。巡回中の一兵卒が、言葉を失って目を丸くしたままその背中を見送る。


 馬上の人物──日和は、周囲の騒ぎなど一瞥もせず、ただまっすぐ前だけを見据えていた。


 激しい風に髪は乱れ、帯が少し解けかかっている。だが、そんな身なりを気にする余裕など微塵もないという顔だった。


「兄上がモタモタしてるから」


 誰にともなく、鋭く吐き捨てた。


 ひづめが石畳を激しく蹴る音が、大路の建物に反響して不気味に響き渡る。


「だから早く六花の婚姻を進めろと言ったんだ」


 六花が生きていると世間に分かれば、朝廷のハイエナどもに政治の駒として利用される。


 そんなことは最初から分かっていた。


 だからこそ、そうなる前に防壁として、若いうちから「許嫁」をあてがって外堀を埋めていたのだ。


 前を睨みつけたまま、怒りを堪えるように言葉を重ねる。


「何度言っても動かないから、このザマだ。バカ兄貴」


 苛立ちのままに馬の腹を強く蹴りつけると、狂ったような速度がさらに跳ね上がった。


 ――数日後、帝都の巨大な城門がその視界に飛び込んできた。


 通常、武州からどれだけ急いでも六日はかかるとされる峻烈な道のりを、彼女はわずか三日で駆け抜けていた。



 門の前に、砂埃を巻き上げて一頭の馬が滑り込んできた。


 門番の任に就いていた朝凪が反射的に身構え、直後、その目を見開いた。


「……ひ、日和様!?」


 馬上から飛び降りた日和は、髪を乱し、帯を半分ほど解いた凄まじい身なりでありながら、その目は完全に据わっていた。


「六花はどこだ!」


 日和は朝凪に向かって真っ直ぐに歩み寄る。その勢いは止まらない。


「狄族と結婚など……! 六花を止めろ! それでもお前はあの子の許嫁か!!」


「あの、日和様、落ち着いてください」


「落ち着いていられるか! 知らせを受けてすぐ馬を飛ばしてきたんだぞ! 兄上は何をしてるんだ、あの人は! 今すぐ六花に会わせろ!」


「六花は……今ここには」


「いないのか?どこにいる」


「少し出ていて」 


「神祇官庁か? 呼んでこい。今すぐ!」


 何とか誤魔化そうとした朝凪だったが、諦めたように目を伏せた。


「……かしこまりました」


 朝凪は日和を来客用の部屋へと通した。


 それから、廊下を早足で進みながら、朝凪は小さく息を吐いた。


 桜桃が部屋の前に着いた時、朝凪が外で待っていた。


「朝凪、誰が来ているの?」


 朝凪は少し間を置いた。


「……部屋に入る前に、一つだけ。落ち着いて聞いてください」


「怖いこと言わないでよ」


「六花に会わせろと、訪ねてこられた方がいます」


 桜桃の表情が変わった。


「……私に?」


「六花に、です」


 朝凪はあえてそう言い直した。


 桜桃は閉ざされた襖を見つめた。


「誰なの?」


「入れば分かります」


 桜桃は深く息を吸い込み、襖を開けた。


 部屋の中に、一人の女が座っていた。


 凄まじい道中だったのだろう、まだ息が少し乱れている。


 桜桃には見覚えのない顔だった。


 だが、桜桃が足を踏み入れた瞬間、その女の目がぴたりと止まった。


「……六花?」


 女が、静かに言った。その鋭い眼光が桜桃を射抜く。


「お前、六花ではないだろう」


 桜桃の喉が、恐怖で跳ねた。


「朝凪、この方は……」


「日向殿の妹君です」


 朝凪が背後から静かに、重く告げた。


「朱明家当主、日和様です」


 桜桃は日和を見た。日和もまた、じっと桜桃を見つめ返している。


「六花はどこだ」


 静かな声だった。先ほど朝凪にぶつけていた怒りとは、明らかに違う静かな声。


 桜桃はそっと目を伏せた。


 嘘はつけない、と思った。この方の目の前で、偽りの名を騙ることなどできない。


「……六花は」


「なんだ」


「私の身代わりになって――死にました」


 部屋の中が、水を打ったように静まり返った。


 日和はピクリとも動かなかった。ただ、その強い瞳が、じわりと大きく揺れた。


「……貴女様は」


 掠れた声が日和の唇から漏れる。


「先帝の姫宮・桜桃姫……!!」


 桜桃は、黙って頷いた。


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