第十一話 皇子、命令する
帝命が降りたのは、それから二日後のことだった。
屋敷の縁側に、刹那がいた。
夜の庭を眺めながら、片膝を立てて座っていた。
桜桃が戻ってきた気配に気づき、彼が振り返る。
その顔を見た瞬間、刹那の目が変わった。いつもの軽薄な調子が、綺麗に消えていた。
「……どうだった?」
桜桃は何も答えず、黙って刹那の隣に腰を下ろした。
夜の庭に、冷たい風が吹き抜ける。
「嫁ぐことになるって」
刹那は何も言わなかった。
しばらくの間、ただ二人で暗い庭を見つめていた。
「……逃がしてやろうか」
低く、静かな声だった。桜桃は驚いて刹那を見た。
「馬なら俺が出す。今夜ならまだ間に合う。帝都から一度出てしまえば、追っ手がかかるまでに相当な時間が稼げる」
「刹那」
「嫌なんだろ」
「……嫌よ」
「なら逃げろ」
「でも」
「『でも』はいらない」
刹那は桜桃の方を真っ直ぐに向いた。いつもふざけて笑っている顔が、今夜は全く笑っていなかった。
「お前、羽州で狄族に生贄にされかけたことがあるんだろ」
「……知ってたの」
「神祇官を名指ししてきたということは、また同じような目に遭うかもしれない。そして今度は、誰も助けに行けない場所に送られるんだぞ」
「……」
「俺はお前に死んでほしくない。帝都に残っても危ないし、向こうへ行っても危ない。なら、逃げた方がまだ生き残る確率が高い。感情論じゃなくて、現実的な話をしてるんだ」
桜桃は刹那の真剣な瞳を見つめ返した。
「……私が逃げたら、辺境の人たちが死ぬわ」
「お前が死んでもいいのか」
「よくない。死にたくない」
「なら――」
「でも、ここで逃げたら、何も変わらない」
桜桃は膝の上で、きゅっと手を重ねた。
頭の中に、椎香の姿が浮かんだ。
政略結婚など真っ平だと言っていた。あの強い目を知っている。それでも婚礼の朝、彼女は白い衣を纏って、まっすぐ前を向いていた。
花梨の姿が浮かんだ。
未散に何度問い詰められても、決してへこたれなかった。「政略結婚すら利用する」と言った、あの凛とした顔を知っている。
二人とも、決めていたのだ。誰かに流されたのではなく、自分の意志で。
「椎香様は、嫌だと言いながら、自分で決めた」
「……うん」
「花梨様は、政略結婚も自分のために利用すると言ったわ」
「……そうか」
「二人みたいに、私も自分で決めなきゃいけないの」
刹那はしばらく黙っていた。空の夜色が、さらに深くなっていく。
「……」
「謀反のことも、如月様のことも、この国がこれからどうなっていくかも。全部、何も分からないまま、逃げるのだけは嫌なの」
「……」
「怖い。二度と帰れないかもしれないって雅様からも聞いた。それでも」
桜桃は膝の上で、拳を強く握りしめた。
「私は、逃げない」
刹那はしばらく、そんな桜桃の横顔をじっと見ていた。
何かを言いかけて、思い直したように口を閉ざす。そして、また庭へ視線を戻した。
「……お前、因州で最初に会った時から、そういうやつだったな」
「そう?」
「うん。放っておけなくて、つい自分から手を伸ばして、その癖、後から怖くなって震えてる」
「……当たってるわ」
「知ってる」
刹那は、呆れたように小さく息を吐き出した。
「……本当に、逃げないんだな」
「逃げない」
「そうか」
刹那はふう、と夜空を見上げた。
「しゃあねぇなぁ……。だったら、その狄族のところまで、俺が無事に送り届けてやるよ」
「え」
「警護の人数を増やすくらいなんとでもなるだろ」
「ちょっと、勝手に決めないで」
「もう決めた」
桜桃は面食らって刹那を見た。
刹那は、やはり空を見上げたままだった。
(こういう人だった。この人も、自分の意志で決める人だった)
桜桃は、張り詰めていた胸から、小さく温かい息を吐き出した。
***
同じ夜、朝凪が昊夜を探し当てたのは、近衛府にある薄暗い廊下だった。
昊夜は一人、開け放たれた窓から外を見つめていた。夜の庭。不穏に風で揺れる木々。
近づく足音で来訪者が誰であるか、彼は振り返るまでもなく察していた。
「昊夜」
朝凪の声は、酷く静かだった。静かであったがゆえに、その裏に潜む危うさが際立っていた。
「……正気か、お前は」
昊夜は答えない。微動だにせず闇を見つめている。
「狄族へ嫁がせるなど……彼女を――六花を、あんな凍てつく北地の人質に差し出すと本気で言っているのか」
「決定事項だ」
昊夜はそれだけを吐き捨てた。やはり窓の外を見たまま、視線すら動かさない。
「帝命は下った。今さら覆しようがない」
「覆せる」
朝凪の声が、一段と低くなる。
「お前なら、軍事的な懸念や防衛上の不備を理由にして、いくらでも手続きを延期させられるはずだ。なぜそれをしない」
「朝凪」
「彼女は――彼女は、ただの十七歳の女の子だぞ」
昊夜が、初めて動いた。
衣服を微かに擦れさせ、ゆっくりと朝凪の方へ向き直る。その双眸は冷徹極まりなかった。
だが、朝凪の激昂は止まらなかった。彼は一歩激しく踏み込み、昊夜の胸元へ容赦なく手をかけた。衣が引き絞られる。
「彼女は宮廷の道具でもなければ、和平の供物でもない。それが分かっていて、なぜ――」
「黙れ」
地響きのような声だった。
朝凪の手が、昊夜の衣をつかんだまま凍りついたように止まった。
昊夜の漆黒の目が、真っ直ぐに朝凪の瞳を射抜いていた。
「……私とてあいつをあんな場所にやりたいわけがない」
声は静かだった。静かで、硬く、張り詰めていた。
「だが今ここで狄族の要求を呑んで抑えなければ、確実に全面戦が始まる。そうなれば、神祇官として祭り上げられたあいつが真っ先に狙われるのは火を見るより明らかだ」
「……」
「死地に置くよりは、敵地であっても生きていてくれた方がいい」
朝凪の指先から、力が失われていく。
「……それはお前の政治だ」
「そうだ」
「彼女の心がどれほど削られるか、考えたことがあるのか」
「考えた」
「考えた上で、送るのか」
「送る」
朝凪の目が、激しく揺れた。
「……やめろ。たとえお前に剣を向けることになっても、私が止めてみせる」
昊夜は朝凪を冷ややかに見つめた。しばらくの間、沈黙が支配する。
それから、彼はさらに一歩、朝凪へと歩み寄った。
「できるものならやってみろ」
囁くように言った。
「だが――今のお前に何ができる。設定上の『許嫁』という、その程度の張り子の身分で、一体どうやって国と狄族の双方からあいつを守るつもりだ」
明確に「許嫁」という言葉を突きつけ、激しく朝凪を牽制する。
「今のお前には、彼女を囲う力すら満足にない。そのぬるい感傷で、あいつの決意を鈍らせるな。手を離せ」
朝凪の手が、ゆっくりと力なく昊夜の衣から離れた。
彼はそれ以上、何も言葉を紡げなかった。唇を噛み締め、踵を返して歩き出した。
「朝凪」
背後からの声に、足が止まる。
昊夜はすでに、再び窓の外の闇を向いていた。
「道中の警護にはお前を入れない」
廊に、重苦しい静寂が落ちた。
「……なぜだ」
「今のお前には無理だからだ」
朝凪は昊夜の微動だにしない背中を睨み据えた。
「無理とは――」
「あいつが旅立つまでの間、あいつの泣き顔を誰にも見られないよう隠し通せ。それが、今のお前にできる唯一の警護だ」
朝凪は答えられなかった。反論しようと開いた口から言葉は出ず、そのまま拳を握りしめて廊下を去っていった。
重い足音が遠ざかっていき、やがて、完全に消えた。
***
昊夜が再び廊下を歩き出すと、千弦が静かにその隣へ並んだ。
「六花さんを狄族に嫁がせて……本当によいのですか、昊夜様」
昊夜はすぐには答えなかった。ただ、重い足音だけが廊下に響く。
しばらく歩いた後、彼は重い声で呟いた。
「……いいわけないだろう」
千弦が、その動きを止めた。昊夜がそのような私情を真っ直ぐ口にする人間だとは、思っていなかったらしい。
だが、すぐに再び歩き出すと、千弦は何気ない声音で言った。
「……妙ではありますね」
「何がだ」
「花梨様が襲われ、その後、六花さんには狄族との婚姻話が持ち上がった」
昊夜の足が、僅かに鈍る。
「どちらも、昊夜様と近しいと噂されている方です」
「……誰がそんな噂をしている」
千弦は一瞬、昊夜を見た。
「宮中の大半が」
「…………」
「ご存知なかったのですか」
「知らない」
「昊夜様が六花さんを追いかけていることは、宮中ではかなり有名です」
「追いかけてなどいない」
「では、何をなさっているのです」
「話をしようとしている」
「六花さんは逃げていますが」
「だから追うしかないだろう」
「それを世間では、追いかけていると言います」
「…………」
千弦は昊夜の眉間に刻まれた皺が一つ深くなったことにも、気づかなかったふりをする。
「偶然でしょうか」
その問いには、昊夜もすぐには答えなかった。
青陽家の娘と朱明家の娘。
一人は刃に倒れ、一人は狄族へ嫁ぐ。
結果だけを見れば、どちらも昊夜から遠ざけられようとしていることになる。
「……さあな」
やがて昊夜は低く答えた。
「だが、あいつを一番確実に生かす方法がこれしかないのであれば、私がその道を敷く」
昊夜の歩みは止まらない。
「……ただし、あいつを向こうに引き渡すその最後の瞬間まで、他の誰の手にも、あの男にすら触れさせるつもりはない」
しかし、昊夜はそれ以上語ろうとはしなかった。
昊夜は袂の中で、自身の拳を静かに、しかし骨が鳴るほどきつく握りしめていた。
***
翌日。回廊の先に、桜桃の姿があった。
全身の糸を限界まで張り詰めたような顔をしている。必死に気を張り、それでも凛として真っ直ぐ前を向いて歩いている。
「六花」
昊夜が声をかけると、桜桃がぴたりと足を止めた。振り返る。
昊夜はしばらくの間、その痛々しいほど健気な顔を見つめていた。それから、静かに、しかし断固とした響きを帯びた声で言った。
「お前を行かせたいわけではない」
桜桃の目が、揺れた。
「だが、お前が神祇官としてあちらの陣営に座していることが、今この国を抑えることになる。そして結果として、お前自身を一番死なせない方法でもある」
「……」
「だから、耐えてくれ」
短い言葉だった。余計な飾りなど一切ない。
だがそれが、かえって剥き出しの重さとなって桜桃の胸に届いた。桜桃は言葉もなく、その場に立ち尽くしていた。
昊夜は淡々と続ける。
「朝凪は今回、警護から外す」
その瞬間、桜桃の顔色が変わった。
「……なぜ、ですか」
「あの男の顔を見ればお前にも分かるだろう。お前の決意が揺らぐ」
桜桃は何も言い返せなかった。反論の余地がないことを見抜かれていた。
「泣くな、六花」
昊夜の声は低かった。だが、そこに責めるような色はない。
「神祇官として輿入れするのだ。この国において、涙は不吉な穢れと見なされる。向こうの奴らに、不幸な顔を見せるな」
「……」
「朝凪に泣きつくことも、許さん」
桜桃はしばらくの間、昊夜の顔をじっと見つめていた。
それから、ふっと微かに口元を綻ばせた。
今にも泣き出しそうな顔のまま、どこか諦めたように、笑った。
「……随分と、細かいところまで見てるんですね」
昊夜は答えなかった。ただ、張り詰めていた彼の視線が、ほんの少しだけ和らいだ気がした。
「――道中、私が直々に警護につく」
「え……」
「帝命による輿入れだ。近衛が直々に差配しても不思議ではない」
桜桃は驚いて昊夜の顔を覗き込んだ。だが昊夜は、すでに外の景色へと視線を戻している。
「昊夜様が、本当に直々に?」
「おかしいか」
「……おかしくは、ないですが」
「なら、それでいい」
昊夜はしばらくの間、沈黙を守っていた。
「狄族」
ぽつりと、静かにその名を口にした。
「――深黎の故郷だな」
桜桃は、小さく息を呑んだ。
「……はい」
「狄はいくつかの氏族に分かれ、あちこちに散らばって暮らしている。だから深黎の出自が、今回要求してきた族長の血筋かどうかは、まだ分からない」
昊夜はそこで一度、言葉を切った。
「だが、奴らの本拠へ入れば、何か手がかりがあるかもしれない」
昊夜が、ゆっくりと桜桃の方へ向き直った。
「探ってこい」
ありとあらゆる私情を政治の裏へと押し込んだ、しかしその奥底に、確かに熱い熱をたぎらせている目だった。
「必ず生きて――掴んだものを、私のところまで持って帰ってこい」
微塵も揺るがない、真っ直ぐな目。
『帰ってこい』
彼は、決して口にしてはならない、言葉にできない想いを、すべて「命令」という形に変えて桜桃に託したのだ。
「……はい」
桜桃は深く、一礼した。
踵を返す前に、一度だけ昊夜の姿を目に焼き付ける。昊夜はすでに、また庭の方を向いていた。




