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狂桜華《きょうおうか》~亡国の姫は、名を捨て帝を目指す~  作者: 澪
第五章 偽りの花嫁【異郷婚姻編】

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第十話 舞姫、嫁ぐ

 疾風が斜め後ろに控える千弦に小声で耳打ちした。


「六花って、あの?」


「はい、神祇官の」


「えー!」


 疾風が思わず声を上げた。すべての視線が、一斉に彼に集まる。


「いや、だって、六花殿が……え、いいの、それ」


「疾風様、静かに」


「いや、でも」


「静かに」


 千弦の冷たい一喝に、疾風は不承不承口を閉じた。


 雲英は小さく息を吐くと、前を向いた。脇腹の痛みを微塵も表に出さない声だった。


「彼女は朱明家当主の姪。そして神祇官として、辺境でも名が知れております。羽州では異民族と言葉を交わした実績もある。……確かに適任かと」


「待ってください」


 暁が弾かれたように立ち上がった。


「彼女は朱明家の跡取りで――」


「暁大将の従姪でしたね」


 雲英がその言葉を静かに遮った。暁は口を閉じた。言い返せない悔しさに、こめかみに青筋が立つ。きつく握られた指先が、震えた。


 橘が暁を見る。


「……跡取りと言っても、まだ正式な婚姻はしていませんよね」


「婿養子を取る予定で、すでに話は進んで――」


「予定は予定かと」


 その「婿養子」という単語が響いた瞬間、昊夜の纏う空気が完全に凍りついた。


 千弦が、昊夜の耳元にそっと顔を寄せた。


「昊夜様、婿養子ですって。……まぁ、それどころじゃない横槍が入りましたが」


「聞こえている」


 昊夜は身じろぎもせず、雲英をじっと見つめていた。手にした扇の縁を、長い指先でゆっくりと、なぞる。


 その漆黒の目の奥に、底知れない深い怒りがじわじわと満ちていく。


「ちょっと待って」


 疾風が再び声を上げた。納得がいかないという顔だった。


「え、それ、一度嫁いでしまったら、帰ってこられるのか」


「疾風様、静かに」


「でも帰ってこられないんじゃ、人質と同じ――」


「静かに」


「いや分かった、静かにする、でも――」


「疾風様」


「……分かった」


 疾風は押し黙った。しかしその目は、目の前の現実に激しく抗議していた。


 昊夜が疾風を一瞥した。それから、また前を向いた。


 室内に、堰を切ったようなざわめきが戻る。


「橘殿の案、もっともかと」


「朱明家への説明が必要ですが」


「親御と当主への話が先でしょう」


「当主は日和殿でしたか。親御は……」


「日向殿ですね」


「日向殿に、どうやって話を」


 公卿たちのざわめきが、少しずつ違う方向へ向かい始める。


「日向殿、今どちらに」


「さあ……最後に姿を見たのは」


「武州の動乱にいたとか」


 雅が、衣服を微かに擦れさせてすっと立ち上がった。


「まあ、よいでしょう」


 その一言で、室内が水を打ったように静まった。


「当主の日和殿と、親御の日向殿には、私から話しておきましょう」


 一拍の、重い沈黙。


「……雅殿」


 橘が怪訝そうに言った。


「はい」


「日向殿と、どうやって連絡を取るのですか」


「どうやってとは」


「いや、あの方はいつどこにいるか、誰も居場所を――」


「私は存じております」


「…………どうやって」


 雅はいつものように、煙に巻くような笑みを静かに浮かべた。


「それはまあ、こちらの手回しで」


 誰も、それ以上は踏み込めなかった。室内に、妙な静けさが落ちていく。


「それと」


 雅が続けた。その声音から、いつもの軽薄な響きが完全に消え、冷たい重さが加わった。全員の視線が雅に集中する。


「婚姻は、形の上では正式なものとなります。ということは、帰国の保証は、ありません」


 室内が、再び凍りついた。


「向こうから自発的に返すと言えば、話は別ですが。こちらから無理に取り返しに行けば、それはすなわち戦になる。それを分かった上で、進める話です」


 誰も口を開かなかった。暁は前を向いたまま、置物のように動かなかった。


 昊夜の指先は、もう扇の縁を動かしていなかった。


 帰国の保証は、ない。


 その言葉が、昊夜の頭の中で静かに反響した。


 朝凪との婚姻どころではない、狄族への人質外交。国境を出れば、二度とこの国の土を踏むことはできない。


 政の話として聞けば、至極まっとうな人質外交の基本だ。だが――。


(……ふざけるな)


 脳裏に鮮明に浮かんだのは、自分の部屋へ謝りに来て、「甘くてもいい」と言われて少し顔を赤くしていた、あの姿だ。


 避けられて困るどころの騒ぎではない。朝凪にすら渡す気はないというのに、かつて敵対していた異民族に彼女をくれてやるなど、絶対にあり得ない。


 疾風は、何か言いかけようと口を開いた。しかし、隣の昊夜から放たれる、あまりにも禍々しい殺気に本能的な恐怖を覚え、言葉を喉の奥へ呑み込んだ。


 上座から、虚空帝が重い口を開く。


「……検討しよう」


 その一言で、今日の朝議はすべての幕を閉じた。


 疾風が昊夜の袖を、小さく引いた。


「……兄上、六花殿、帰ってこられないって――」


「聞こえていた」


「でも!」


「聞こえていた、と言った」


 疾風はその威圧感に気圧され、完全に口を閉じた。


 昊夜は、前をじっと見つめていた。見つめたまま――何も言わなかった。


 疾風は、その横顔を盗み見た。


 いつもと、少しだけ違う気がした。何が違うのか、うまく言葉にできなかった。


 ただ――いつもより、静かすぎた。


 激しく怒っているわけではない。激しく考えているわけでもない。


 ただ、彼の時間そのものが――そこで完全に止まってしまっているような、そんな顔だった。


***


 朝議が終わった夜。


 神祇官庁に、灯りが一つ、まだ残っていた。


 桜桃が呼ばれたのは、夕餉の後だった。


 廊下を歩きながら、胸の中に嫌な予感がずっと渦巻いている。


(また何かある。絶対何かある)


 今度は深呼吸をしなかった。しても意味がない気がした。


 雅は、いつもの場所に座っていた。


 文机の前。香の煙。細い光。


 何も変わらないはずの部屋。それなのに、今日だけは肌に触れる空気が違った。


「座りなさい」


「……失礼します」


 桜桃は向かいに腰を下ろした。


 雅はしばらく、黙って桜桃を見ていた。


 いつもの穏やかな目だった。ただ――その奥に、何かを決めたような光があった。


「今日の朝議のことは、聞きましたか」


「……いいえ」


「そうですか」


 雅は一度、目を伏せた。それからまた、桜桃を真っ直ぐに見た。


「狄族から、婚姻の要求が届いています」


「はあ」


「神祇官を、族長の令孫のもとへ嫁がせよ、と」


「……はあ」


「朝議で、名前が挙がりました」


「……はあ」


「六花」


「はい」


「あなたの名前が」


 一拍。


「……え」


 桜桃の顔から、一気に血の気が引いた。


「え、あの、今、私の名前が」


「ええ」


「嫁ぐ、って」


「ええ」


「狄族に」


「ええ」


「私が」


「ええ」


 桜桃はしばらく口を開いたまま、雅の顔を見ていた。


 何かを言いかけようとしたが、喉が引き攣って何も出てこない。


「本当に私ですか」


「ええ」


「間違いなく」


「ええ」


「……初音様ではなく」


 雅は少し間を置いた。


「初音は祭主です。辺境との縁もない」


「そうですね」


「六花、あなたは朱明家当主の姪。加えて羽州で狄族と言葉を交わした。それが理由です」


「……あの時は、ほんの少し話しただけで」


「少しでも、言葉を交わしたことがある者とない者では、違います」


 桜桃は自分の膝の上を見つめた。


 重ねた両手が、ぎゅっと握られていく。


「……帰って、こられますか」


 雅はすぐには答えなかった。


 揺らめく香の煙が、ゆっくりと天井へ向かって伸びていく。


「正式な婚姻として嫁ぐということは、向こうの者になるということです」


「……帰国の保証は、ない」


「こちらから無理に取り返しに行けば、それは戦になります」


 桜桃は雅を見た。雅はその視線を逸らさなかった。


「……そうですか」


 声が、掠れて消えそうだった。


「まだ帝の裁可が下りたわけではありません。ただ――覚悟だけは、しておきなさい」


 桜桃は再び、膝の上の手を見た。


 爪が食い込むほど握りしめたまま、どうしても開けなかった。


(帰れないかもしれない)


「……怖いです」


 ぽつりと、本音が溢れた。


「そうでしょう」


 雅は穏やかに頷いた。


「怖くない顔をする人間より、怖いと知っている人間の方が、遠くまで行けます」


「……それは前に聞きました」


「そうでしたっけ」


 桜桃は少し下を向いた。目の奥が、じわりと熱くなっていく。


「……六花、手巾を持っていきなさい」


 桜桃は、少しだけ間を置いた。


「……持っていきます」


「下がってよろしい」


「失礼します」


 桜桃は立ち上がった。丁寧に一礼して、襖へ向かう。


 ぱたん、と襖を閉めた瞬間、廊下の冷たい夜気が容赦なく顔に触れた。


(嫁ぐ。私が、狄族に)


 まだ、まるで現実感が湧かなかった。


 けれど、羽州で狄族に生贄にされかけたあの光景が、鮮明に脳裏をよぎる。


 気がつけば、膝が小さく震えていた。


 桜桃は壁にそっと背を預けて、しばらくその場に立ち尽くしていた。


 夜の廊下は、恐ろしいほど静かだった。


 窓の外には、星がどこかで出ているだろう。


 しかし今の彼女には、それを見る気には到底なれなかった。


***


 八重御所の奥深く、未散は一人、御簾を上げた縁に立っていた。


 庭では、盛りを終えた桜が散っている。


 風が吹くたび、薄紅の花びらが枝を離れ、幾重にも重なりながら池の水面へ落ちていった。


 つい先日までは空を覆うほど咲き誇っていた花も、今では枝に残るものの方が少ない。


 未散は、その光景を静かに眺めていた。


「……花梨様のお加減は?」


 背後に控えていた侍女が、深く頭を下げる。


「命に別状はないとのことでございます。ただ、傷が深く、しばらくはお体を休められることになるかと」


「そう」


 未散はそれ以上、花梨について尋ねなかった。


「それから……もう一つ、妙な噂がございます」


「何かしら」


「神祇官の六花様に、狄族から婚姻の申し入れがあったとか」


 未散の視線が、わずかに動いた。


「六花が狄族に……」


 未散はしばらく黙っていた。


 花梨を刺した深黎もまた、狄族の出だった。


「……あの方が動いたのかしら」


「皇后様?」


「何でもないわ」


 未散は、庭へ視線を戻した。


 また一陣の風が吹いた。


 枝に残っていた桜が一斉に舞い上がり、薄紅の花びらが空を埋める。美しい盛りを誇っていた花ほど、散るときは呆気ない。


「今年の桜は、随分と早く散るのね」


 侍女は答えず、静かに頭を垂れた。


 未散は手を伸ばした。


 風に運ばれてきた一片の花びらが、その白い指先を掠め、そのまま庭の奥へと消えていく。


 花梨の青陽家と六花の朱明家。


 昊夜がその双方と縁を結べば、四大貴族のうち二家が、あの男の背後に並ぶことになるはずだった。


 だが、花梨は傷つき、六花は遠く狄の地へ嫁ごうとしている。


 あの方が仕向けたことなのか、それとも、ただ偶然が重なっただけなのか。


 未散には分からなかった。


 けれど、今はどちらでもよかった。


 ただ、これまで何をしても昊夜へと傾いていた流れが、ほんの僅かに変わり始めている。


 そんな気がした。


「……ようやく」


 未散の唇が、ゆっくりと弧を描く。


「少しは、こちらにも運が巡ってきたのかしら」


 桜は散る。


 ひとひら、またひとひらと、風に攫われていく。


 その光景を眺めながら、未散は微笑んでいた。


 まるで、自分だけはまだ散る時ではないと知っているかのように。



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