第十話 舞姫、嫁ぐ
疾風が斜め後ろに控える千弦に小声で耳打ちした。
「六花って、あの?」
「はい、神祇官の」
「えー!」
疾風が思わず声を上げた。すべての視線が、一斉に彼に集まる。
「いや、だって、六花殿が……え、いいの、それ」
「疾風様、静かに」
「いや、でも」
「静かに」
千弦の冷たい一喝に、疾風は不承不承口を閉じた。
雲英は小さく息を吐くと、前を向いた。脇腹の痛みを微塵も表に出さない声だった。
「彼女は朱明家当主の姪。そして神祇官として、辺境でも名が知れております。羽州では異民族と言葉を交わした実績もある。……確かに適任かと」
「待ってください」
暁が弾かれたように立ち上がった。
「彼女は朱明家の跡取りで――」
「暁大将の従姪でしたね」
雲英がその言葉を静かに遮った。暁は口を閉じた。言い返せない悔しさに、こめかみに青筋が立つ。きつく握られた指先が、震えた。
橘が暁を見る。
「……跡取りと言っても、まだ正式な婚姻はしていませんよね」
「婿養子を取る予定で、すでに話は進んで――」
「予定は予定かと」
その「婿養子」という単語が響いた瞬間、昊夜の纏う空気が完全に凍りついた。
千弦が、昊夜の耳元にそっと顔を寄せた。
「昊夜様、婿養子ですって。……まぁ、それどころじゃない横槍が入りましたが」
「聞こえている」
昊夜は身じろぎもせず、雲英をじっと見つめていた。手にした扇の縁を、長い指先でゆっくりと、なぞる。
その漆黒の目の奥に、底知れない深い怒りがじわじわと満ちていく。
「ちょっと待って」
疾風が再び声を上げた。納得がいかないという顔だった。
「え、それ、一度嫁いでしまったら、帰ってこられるのか」
「疾風様、静かに」
「でも帰ってこられないんじゃ、人質と同じ――」
「静かに」
「いや分かった、静かにする、でも――」
「疾風様」
「……分かった」
疾風は押し黙った。しかしその目は、目の前の現実に激しく抗議していた。
昊夜が疾風を一瞥した。それから、また前を向いた。
室内に、堰を切ったようなざわめきが戻る。
「橘殿の案、もっともかと」
「朱明家への説明が必要ですが」
「親御と当主への話が先でしょう」
「当主は日和殿でしたか。親御は……」
「日向殿ですね」
「日向殿に、どうやって話を」
公卿たちのざわめきが、少しずつ違う方向へ向かい始める。
「日向殿、今どちらに」
「さあ……最後に姿を見たのは」
「武州の動乱にいたとか」
雅が、衣服を微かに擦れさせてすっと立ち上がった。
「まあ、よいでしょう」
その一言で、室内が水を打ったように静まった。
「当主の日和殿と、親御の日向殿には、私から話しておきましょう」
一拍の、重い沈黙。
「……雅殿」
橘が怪訝そうに言った。
「はい」
「日向殿と、どうやって連絡を取るのですか」
「どうやってとは」
「いや、あの方はいつどこにいるか、誰も居場所を――」
「私は存じております」
「…………どうやって」
雅はいつものように、煙に巻くような笑みを静かに浮かべた。
「それはまあ、こちらの手回しで」
誰も、それ以上は踏み込めなかった。室内に、妙な静けさが落ちていく。
「それと」
雅が続けた。その声音から、いつもの軽薄な響きが完全に消え、冷たい重さが加わった。全員の視線が雅に集中する。
「婚姻は、形の上では正式なものとなります。ということは、帰国の保証は、ありません」
室内が、再び凍りついた。
「向こうから自発的に返すと言えば、話は別ですが。こちらから無理に取り返しに行けば、それはすなわち戦になる。それを分かった上で、進める話です」
誰も口を開かなかった。暁は前を向いたまま、置物のように動かなかった。
昊夜の指先は、もう扇の縁を動かしていなかった。
帰国の保証は、ない。
その言葉が、昊夜の頭の中で静かに反響した。
朝凪との婚姻どころではない、狄族への人質外交。国境を出れば、二度とこの国の土を踏むことはできない。
政の話として聞けば、至極まっとうな人質外交の基本だ。だが――。
(……ふざけるな)
脳裏に鮮明に浮かんだのは、自分の部屋へ謝りに来て、「甘くてもいい」と言われて少し顔を赤くしていた、あの姿だ。
避けられて困るどころの騒ぎではない。朝凪にすら渡す気はないというのに、かつて敵対していた異民族に彼女をくれてやるなど、絶対にあり得ない。
疾風は、何か言いかけようと口を開いた。しかし、隣の昊夜から放たれる、あまりにも禍々しい殺気に本能的な恐怖を覚え、言葉を喉の奥へ呑み込んだ。
上座から、虚空帝が重い口を開く。
「……検討しよう」
その一言で、今日の朝議はすべての幕を閉じた。
疾風が昊夜の袖を、小さく引いた。
「……兄上、六花殿、帰ってこられないって――」
「聞こえていた」
「でも!」
「聞こえていた、と言った」
疾風はその威圧感に気圧され、完全に口を閉じた。
昊夜は、前をじっと見つめていた。見つめたまま――何も言わなかった。
疾風は、その横顔を盗み見た。
いつもと、少しだけ違う気がした。何が違うのか、うまく言葉にできなかった。
ただ――いつもより、静かすぎた。
激しく怒っているわけではない。激しく考えているわけでもない。
ただ、彼の時間そのものが――そこで完全に止まってしまっているような、そんな顔だった。
***
朝議が終わった夜。
神祇官庁に、灯りが一つ、まだ残っていた。
桜桃が呼ばれたのは、夕餉の後だった。
廊下を歩きながら、胸の中に嫌な予感がずっと渦巻いている。
(また何かある。絶対何かある)
今度は深呼吸をしなかった。しても意味がない気がした。
雅は、いつもの場所に座っていた。
文机の前。香の煙。細い光。
何も変わらないはずの部屋。それなのに、今日だけは肌に触れる空気が違った。
「座りなさい」
「……失礼します」
桜桃は向かいに腰を下ろした。
雅はしばらく、黙って桜桃を見ていた。
いつもの穏やかな目だった。ただ――その奥に、何かを決めたような光があった。
「今日の朝議のことは、聞きましたか」
「……いいえ」
「そうですか」
雅は一度、目を伏せた。それからまた、桜桃を真っ直ぐに見た。
「狄族から、婚姻の要求が届いています」
「はあ」
「神祇官を、族長の令孫のもとへ嫁がせよ、と」
「……はあ」
「朝議で、名前が挙がりました」
「……はあ」
「六花」
「はい」
「あなたの名前が」
一拍。
「……え」
桜桃の顔から、一気に血の気が引いた。
「え、あの、今、私の名前が」
「ええ」
「嫁ぐ、って」
「ええ」
「狄族に」
「ええ」
「私が」
「ええ」
桜桃はしばらく口を開いたまま、雅の顔を見ていた。
何かを言いかけようとしたが、喉が引き攣って何も出てこない。
「本当に私ですか」
「ええ」
「間違いなく」
「ええ」
「……初音様ではなく」
雅は少し間を置いた。
「初音は祭主です。辺境との縁もない」
「そうですね」
「六花、あなたは朱明家当主の姪。加えて羽州で狄族と言葉を交わした。それが理由です」
「……あの時は、ほんの少し話しただけで」
「少しでも、言葉を交わしたことがある者とない者では、違います」
桜桃は自分の膝の上を見つめた。
重ねた両手が、ぎゅっと握られていく。
「……帰って、こられますか」
雅はすぐには答えなかった。
揺らめく香の煙が、ゆっくりと天井へ向かって伸びていく。
「正式な婚姻として嫁ぐということは、向こうの者になるということです」
「……帰国の保証は、ない」
「こちらから無理に取り返しに行けば、それは戦になります」
桜桃は雅を見た。雅はその視線を逸らさなかった。
「……そうですか」
声が、掠れて消えそうだった。
「まだ帝の裁可が下りたわけではありません。ただ――覚悟だけは、しておきなさい」
桜桃は再び、膝の上の手を見た。
爪が食い込むほど握りしめたまま、どうしても開けなかった。
(帰れないかもしれない)
「……怖いです」
ぽつりと、本音が溢れた。
「そうでしょう」
雅は穏やかに頷いた。
「怖くない顔をする人間より、怖いと知っている人間の方が、遠くまで行けます」
「……それは前に聞きました」
「そうでしたっけ」
桜桃は少し下を向いた。目の奥が、じわりと熱くなっていく。
「……六花、手巾を持っていきなさい」
桜桃は、少しだけ間を置いた。
「……持っていきます」
「下がってよろしい」
「失礼します」
桜桃は立ち上がった。丁寧に一礼して、襖へ向かう。
ぱたん、と襖を閉めた瞬間、廊下の冷たい夜気が容赦なく顔に触れた。
(嫁ぐ。私が、狄族に)
まだ、まるで現実感が湧かなかった。
けれど、羽州で狄族に生贄にされかけたあの光景が、鮮明に脳裏をよぎる。
気がつけば、膝が小さく震えていた。
桜桃は壁にそっと背を預けて、しばらくその場に立ち尽くしていた。
夜の廊下は、恐ろしいほど静かだった。
窓の外には、星がどこかで出ているだろう。
しかし今の彼女には、それを見る気には到底なれなかった。
***
八重御所の奥深く、未散は一人、御簾を上げた縁に立っていた。
庭では、盛りを終えた桜が散っている。
風が吹くたび、薄紅の花びらが枝を離れ、幾重にも重なりながら池の水面へ落ちていった。
つい先日までは空を覆うほど咲き誇っていた花も、今では枝に残るものの方が少ない。
未散は、その光景を静かに眺めていた。
「……花梨様のお加減は?」
背後に控えていた侍女が、深く頭を下げる。
「命に別状はないとのことでございます。ただ、傷が深く、しばらくはお体を休められることになるかと」
「そう」
未散はそれ以上、花梨について尋ねなかった。
「それから……もう一つ、妙な噂がございます」
「何かしら」
「神祇官の六花様に、狄族から婚姻の申し入れがあったとか」
未散の視線が、わずかに動いた。
「六花が狄族に……」
未散はしばらく黙っていた。
花梨を刺した深黎もまた、狄族の出だった。
「……あの方が動いたのかしら」
「皇后様?」
「何でもないわ」
未散は、庭へ視線を戻した。
また一陣の風が吹いた。
枝に残っていた桜が一斉に舞い上がり、薄紅の花びらが空を埋める。美しい盛りを誇っていた花ほど、散るときは呆気ない。
「今年の桜は、随分と早く散るのね」
侍女は答えず、静かに頭を垂れた。
未散は手を伸ばした。
風に運ばれてきた一片の花びらが、その白い指先を掠め、そのまま庭の奥へと消えていく。
花梨の青陽家と六花の朱明家。
昊夜がその双方と縁を結べば、四大貴族のうち二家が、あの男の背後に並ぶことになるはずだった。
だが、花梨は傷つき、六花は遠く狄の地へ嫁ごうとしている。
あの方が仕向けたことなのか、それとも、ただ偶然が重なっただけなのか。
未散には分からなかった。
けれど、今はどちらでもよかった。
ただ、これまで何をしても昊夜へと傾いていた流れが、ほんの僅かに変わり始めている。
そんな気がした。
「……ようやく」
未散の唇が、ゆっくりと弧を描く。
「少しは、こちらにも運が巡ってきたのかしら」
桜は散る。
ひとひら、またひとひらと、風に攫われていく。
その光景を眺めながら、未散は微笑んでいた。
まるで、自分だけはまだ散る時ではないと知っているかのように。




