第十九話 族長の令孫は
朝堂院の一角では、いつもと変わらぬ穏やかな空気のなかで恒例のお茶会が開かれていた。
雅が少し意外そうに暁を見る。
「暁大将がいらっしゃるのは珍しい。いつもお断りになるのに」
「……たまには、いいだろ」
暁は座り方が少し不慣れな様子だった。武人としての頑強な体躯は、用意された座布団の上でどこか居心地悪そうに固く、茶碗を持つ大きな手もぎこちない。
「座り慣れていないのですか」
「……うるさい」
「正直な方ですね」
「誉めてないだろ、それ」
雅は楽しそうに微笑んだ。
一方、清明は二人のやり取りには加わらず、目の前に置かれた菓子の盆を静かに見つめていた。
そこには饅頭が三つ、大中小と行儀よく並んでいる。
雅が清明に視線を向ける。
「花梨殿の具合はいかがですか」
「ええ。まだ安静は必要ですが、薬を少しずつ減らしているそうです」
「そうですか」
清明はさらりと迷いのない手を伸ばして、盆の中から一番大きな饅頭を取った。その様子を、誰も咎めることもなく何も言わなかった。
「そろそろ、引渡し宿に着いた頃ですかねえ」
雅が窓の外の遠い空を見ながら、独り言のようにつぶやいた。
「十日で山を越えるなら、今日あたりかと」
「無事に着いているといいのですが」
雲英が静かに言葉を添えた。
雅が雲英のほうを向く。その顔はいつも通りにこやかだった。
「そうですね。無事に着いていると、いいですね」
雅は茶を一口飲み、喉を潤した。
雲英は雅の真意を測るように、じっとその目を見た。
「ええ」
「本当に」
「……ええ」
二人の間に、一瞬だけ短い、重い沈黙が落ちた。
沈黙を破るように、暁が手の中の茶碗をぽんと置き、「はぁ」と溜息をついた。
「どうしました?」
「朱明家の跡取りをどうしようか考えている」
「六花殿のことですか」
「ああ。跡取り問題がそのままになっている。日和殿だけに全てを任せておくわけにもいかないだろ」
「日向殿がいらっしゃいます」
「あの人が今どこにいるか、誰か知っているか」
その問いに、再び沈黙が流れた。
三人が、なんとも言えない微妙な表情で互いに視線を交わし合う。
「……まあ」
雅が苦笑を滲ませて言った。
「どこかにいらっしゃいますよ」
「どこかってどこだ」
「どこかに、です」
暁は頭の痛みをこらえるように額に手を当てた。
「では、暁殿が結婚して子をもうければいいのでは」
雅が事も無げに、穏やかに提案した。
「それが出来れば苦労はせぬ」
暁はぼそりと吐き捨てるように返した。
少しの間があった。
今度も誰も、何も言わなかった。武人の家庭事情に深く踏み込む者はここにはいない。
清明は手元の一番大きな饅頭を一口食べた。
「朱明家のことは、戻ってきてから決めればいい」
「……清明殿」
「今は、戻ってくることが先です」
それだけを淡々と言い置いて、清明はまた何事もないように饅頭を食べ進めた。
暁はしばらく、その掴みどころのない男の顔を見ていた。
「……清明殿は、心配じゃないのか」
「していますよ」
「顔に出ていない」
「饅頭がおいしいので」
「……そうか」
暁は自分の茶碗に視線を落とした。それから、盆に残っていた中くらいの饅頭を、少し乱暴な手つきで掴み取った。
口に放り込み、咀嚼する。
「……うまいな」
「でしょう」
雅が自分のことのように嬉しそうに言った。
雲英は再び窓の外へと視線を戻していた。遠く連なる山の方角を、静かに、ただじっと見つめている。
雅もまた、釣られるように窓の外を見た。
二人が同じ北の方角を見ていた。
だが、その瞳に映る見ているものが、果たして同じものかどうかは、誰にも分からなかった。
***
昊夜たちは桜桃を送り届け、来た道を戻っていた。
周囲を囲む乾いた風の音に交じり、刹那が馬上でぽつりと呟いた。
「……よりによって、狄族か」
「ああ」
「あんなに生き残りがいたのか」
凄惨な戦を知る者として、刹那の言葉には苦い実感がこもっていた。
昊夜は少しの間黙っていたが、やがて、前を向いたまま答えた。
「狄族は北西と東北、二箇所に分かれていた。殲滅戦があったのは、我々がいた北西側だけだ」
「……そうなのか」
「東北の狄族と、北西の生き残りが、今は国内各地で集落を作っている」
刹那はしばらく黙り込んだ。それから、自分たちが今しがた歩いてきた方向を、未練を隠さずにちらりと振り返った。
「……姫が酷い目に合わなければいいが」
昊夜は答えなかった。
街道を、馬の蹄の音だけが静かに刻んでいく。
刹那は昊夜の横顔を見つめた。
昊夜、そして朝凪がすべてを賭して守ろうとしていたあの少女が、遠い狄族の地へと嫁いでいってしまった。
心の中に広がるやるせなさに、刹那は小さくため息を漏らした。冷え込んできた夜気が、肺を白くかすめる。
刹那が昊夜たちと初めて出会ったのは、五年前のことだ。
二十歳の頃、地元で狄族の反乱を鎮めるための徴兵があり、地方兵として駆り出された戦場が、彼らとの出会いだった。
初めて昊夜を目にしたとき、その武人らしからぬ端正な美しさに目を見張った。
高貴な生まれでありながら、総大将の重責を任されるほどの実力を備え、そのうえ見目麗しい。
(神様って不公平だな)
そう心中で苦笑すると同時に、別の思いが胸をかすめた。
(まだ、ただの子供じゃないか)
どこか少年の面影を色濃く残した昊夜の姿が放っておけず、地方兵の身でありながら、自ら昊夜の傍らへの配置を志願した。
できるだけ多くの命を救いたいと、ひたむきに理想を掲げる若き将の力になるため、刹那は泥にまみれて奔走した。
しかし、その若さゆえの甘さが仇となったのか、戦況はじわじわと泥沼化の一途をたどっていった。
やがて帝都から日向と朝凪部隊の援軍が駆けつけ、総指揮が日向に交代したことで、傾きかけていた戦況は一気に持ち直したかに見えた。だが、朝廷から届いたのは、敵を一人残らず殲滅せよという酷薄な帝命だった。
その直後、刹那は身体を深く切り裂かれる大怪我を負い、それ以上、前へ進むことができなくなった。
傷を気遣う朝凪に対し、「もう戦はごめんだ」と軽口を叩き、そのまま戦線から退いた。
これで、もう人を斬らなくて済む。そう心の底から安堵した。
しかし、その安堵が今度はひどい自己嫌悪となって跳ね返ってきた。
まだ、昊夜も、朝凪も、あの地獄のような戦場に取り残されているというのに。
「多くを助けたい」と純粋に理想を追っていた昊夜が、あの凄惨な「殲滅戦」を前にして一体何を思ったのか。ずっと気がかりだったが、傷を負った自分には、それを確かめる術など残されていなかった。
四年近くの歳月を経て再会した昊夜には、かつて理想を掲げていた頃の眩しい面影は、もうどこにも見当たらなかった。
あの戦が彼をそう変えてしまったのか、本当の理由は刹那には分からない。
ただ、かつての彼のように、今も昊夜が「護りたい」と願ったあの少女が、いつか笑顔で戻ってくればいい。
並んで歩む馬の上で、刹那はただそれだけを思っていた。
***
桜桃の目は、限界まで大きく見開かれた。
「琥珀……!!」
名を呼ばれた男――いや、まだ少年の面影を残すその人物は、ゆっくりと振り返った。
「……六花」
その瞬間、桜桃の膝から一気に力が抜けた。
崩れ落ちそうになる身体を支えるように、慌てて傍らの壁に手をつく。
(琥珀。琥珀だ。私の、知っている顔だ)
張り詰めていた心の中で、何かがどっと音を立てて崩れ去った。緊張が、一気に溶けていく。安堵のあまり、目の奥がじわりと熱くなった。
「……どうして、貴方がここにいるの」
声が、少しだけ掠れていた。
「因州から急にいなくなったって、刹那が心配してたわよ」
「知ってる」
琥珀の返答は、以前と変わらず素っ気なかった。彼は桜桃の顔を見て、それから視線を下へと移した。
「その衣装、重いだろ」
「え」
「着替えてくれば」
桜桃は少し呆気に取られた。
「……今、そういう話をしてるんじゃなくて」
「重そうだから言っただけだ」
毒気を抜かれた桜桃は、壁からそっと手を離した。抜けていた膝の力も、少しずつ戻ってくる。
(そうだ。琥珀は、こういう子だった)
桜桃は小さく、安堵の息を吐いた。
琥珀は床に胡座をかいて座り直した。そのくつろいだ様子からは、再会の感動など微塵も感じられない。
桜桃は衣装の裾を捌きながら、琥珀の正面に腰を下ろした。
「私がここへ来ること、知っていたの?」
「神祇官の六花が嫁いでくるとは聞いていた」
「……貴方が狄族の、それも族長の御孫様だったの? でも、前は孤児だって言っていたじゃない」
琥珀は少し間を置いた翳る。
「殲滅戦があっただろ。四年くらい前」
桜桃の胸に、冷たいものがすとんと落ちた。
「……もしかして、琥珀の故郷が」
「俺だけが逃がされた。故郷は滅んだが、生き残った人達や、他の集落の人達が集まって……それで、俺がここに呼ばれた」
淡々とした声だった。そこに感情を乗せていないのか、それとも乗せられないほど深い傷なのか、今の桜桃には判別がつかなかった。
桜桃は何も言えなくなった。何か言葉を探そうとしたが、彼が背負った過去の重さを前に、どれも軽すぎるように思えて口を噤んだ。
琥珀はそれ以上、過去を語ろうとはしなかった。少しの沈黙が流れた後、彼は静かに立ち上がった。
「疲れてるだろ。休め」
「……うん」
「集落までは、ここからまだ三日ほどかかる」
「分かった」
「明日の夜明けには出る」
それだけを言い残し、琥珀は部屋を出ていった。
パタン、と重い木の扉が静かに閉まる。
残された桜桃は、しばらくの間、彼が去っていった扉をただじっと見つめていた。




