第七話 皇子妃、刺される
神祇官庁の雅の執務室は、昼間であっても常にどこか仄暗い静寂に包まれていた。
高い位置に穿たれた小窓から、細い陽光が一本の筋となって差し込んでいる。室内に満ちる香の煙が、その淡い光の帯の中で、ゆっくりと形を変えながら漂っていた。
雅は文机の前に端座し、何事かを黙々と書き進めていた。桜桃が静かに部屋へ入ってきても、すぐには筆を止めず、顔を上げようともしない。
その徹底した静けさに、桜桃は自然と息を潜めた。
「……失礼いたします」
「ええ」
ようやく雅が筆を置いた。それから、衣服を微かに擦れさせながら、ゆっくりと桜桃の方へと視線を向ける。
「座りなさい」
促されるまま、桜桃は彼の向かいへと腰を下ろした。
雅はしばらくの間、無言で桜桃をじっと見つめていた。その瞳は、彼女の心の奥底にある何かを静かに確かめようとしているかのようだった。
「あなたは、春になると、どこか遠いところへ行きたくなりますか」
唐突な問いに、桜桃は戸惑いながらも、少し間を置いて答えた。
「……そう、かもしれません。季節が変わると、ふと」
「そうでしょうとも」
雅は我が意を得たりといった様子で、満足げに深く頷いた。
「風が変わる季節というのは、人の心をも変えるものです。とりわけあなたは、そういう気配を持っている」
「はあ……」
「よいことです。それだけ世界に対して開かれているということですから」
予想外の誉め言葉に、桜桃はどう返答すべきか分からず、とりあえず曖昧に頷くしかなかった。
- 雅は懐から、丁寧に折りたたまれた一通の書簡を取り出した。
「辺境から、報せが届きました」
その声音が、色を変えた。いつもの穏やかさは崩さないものの、そこへ容易ならざる重みが加わっていく。
「狄族が動いています」
「狄族が……」
桜桃は無意識のうちに背筋を正した。
雅は手元の書簡を、桜桃の前に滑らせるようにして広げた。
「辺境に赴任している神職からの文です。狄族の集落のいくつかが、明らかにいつもとは異なる動きを見せ始めている、と。単なる水利権を巡る小競り合いなどではないと、その者は書き記しています」
「具体的には、どのような動きなのですか」
「集まっているのです。静かに、しかし、確実に一箇所へと」
雅は書簡に並ぶ墨文字を、細い指先で静かになぞった。
「大きな嵐がやってくる前、鳥たちが一斉に木々に集まることがあります。何か目に見えない脅威を感じ取って、互いに身を寄せ合う。あの、本能的な動きに酷似しているのです」
桜桃は机上の書簡へと目を落とした。そこには、現地の緊迫感を伝える小さな文字が、びっしりと隙間なく並んでいた。
「狄族は、朝廷に対して何かを切実に訴えようとしているのかもしれない」
雅は香の煙を見つめながら、静かに言葉を続ける。
「あるいは……私たちのあずかり知らぬ、何かを恐れているのか」
「……雅様は、どちらだと思われますか」
桜桃の問いに、雅はすぐには答えなかった。
二人の間を、白い香の煙がゆっくりと天井へ向かって立ち上っていく。
「両方でしょう」
雅は視線を戻し、まっすぐに桜桃を見た。
「恐れているからこそ群れをなし、何かを訴えたいからこそ境界線を越えて動く。人も、獣も、真に追い詰められた時の動き方というのは、似ているものです」
「……」
「神祇官として、近いうちにあなたに辺境へ向かってもらうことになるかもしれません。まだ、上層部での決定が下りたわけではありませんが。ただ、心積もりだけは今からしておきなさい」
「……はい」
覚悟を決めるように、桜桃は短く応じた。
「怖いですか」
少し考えてから、桜桃は正直に答えた。
「……少し、怖いです」
「そうでしょうね」
雅はまた、慈しむような笑みを浮かべて満足げに頷いた。
「怖くないと言う人間よりも、怖いと言える人の方が、結果としては遠くまで行けるものです」
それから、彼はふと小窓の方へと視線を転じた。
細い光の筋の中を、白い煙が相変わらずゆっくりと流れていく。
「六花、春の川は、どこへでも繋がっていますよ」
あまりにも唐突で、詩的なその言葉の真意を、今の桜桃はすぐにつかむことができなかった。
「……はい」
ただ、反論する言葉も見つからず、とりあえず首を縦に振る。
雅は彼女の戸惑う様子を見て、いつものようにどこか見透かしたような笑みを深めた。
「下がってよろしい」
「失礼いたします」
桜桃は一礼して立ち上がり、重苦しい執務室をあとにした。
廊下へ出ると、袖の中の手巾をもう一度強く握りしめる。冷たい緊張感が、彼女の胸をじわじわと支配し始めていた。
***
神祇官庁の重い扉を背にした桜桃は、ふと立ち止まって仄暗い宮廷の空を見上げた。
頭の芯には、先ほど雅が残した「春の川は、どこへでも繋がっています」という言葉が、実体のない煙のように漂い続けている。
その真意を掴みかねたまま、彼女は小さく首を傾げて歩き出した。
朝堂院へと続く、長く静かな回廊を渡ろうとした、その時だった。
角の向こうから、一人の堂々たる体躯の男が歩いてくる。
昊夜である。その姿を視界に捉えた瞬間、桜桃の足は完全に凍りついた。
(また、この方と出くわしてしまった……!)
桜桃はまるで猛獣に見つかった野兎のように、極めてさりげなく、しかし電光石火の速さで踵を返した。
「六花」
背後から、よく通る声が投げかけられる。
桜桃は聞こえない振りを決め込み、あからさまに歩調を速めた。
「おい」
背後で衣服の擦れる音がし、重い足音が確実に近づいてくる。
桜桃は、最初の角を右に曲がった。続く角を左に曲がった。さらに中庭をまたぐ渡り回廊へと、ほぼ駆け足で滑り込む。
「どこへ行く」
まだ、追ってくる。
(なぜこの方は、これほど歩くのが速いというの……!?)
焦りから、桜桃の足はついに小走りになった。
「走るな」
「走ってなど、おりません」
「現に走っているだろう」
「……これは、ただの早足です」
「同じことだ」
だが、逃亡劇はあっけなく幕を閉じた。
そこは、入り組んだ回廊の行き止まり、冷たい漆喰の壁の前だった。
桜桃が万策尽きて壁の前で立ち止まり、恐る恐る振り返ると、わずか三歩後ろに昊夜がすっくと立っていた。
これだけ動いたというのに、彼の呼吸は一分の乱れもない。涼しい顔のまま、その鋭い眼光を桜桃へと注いでいた。
「……なぜ、私から逃げる」
「逃げてなど、おりません」
「では、何故あのように走っていたのだ」
「少し、急用を思い出しまして、急いでいたのです」
「どこへ」
「……朝堂院の方へ」
「完全に逆方向だが」
桜桃はぐうの音も出ず、気まずそうに唇を噛んで黙り込んだ。
昊夜は腕を組み、壁際に縮こまる桜桃をじっと見つめていた。その瞳には、少しだけ呆れたような光が混じっている。
「私は、逃げるなと言ったはずだ」
「……聞こえてました」
「聞こえていて逃げたのか」
「……足が勝手に、その」
「足が?」
「はい。足が、意思に反して動き出してしまいまして」
そのあまりに苦しい言い訳に、昊夜はしばらく無言で彼女を凝視していたが、やがて諦めたように小さく溜め息をついた。
「……用もないのに出歩くのであれば、誰か供の者でもつけろ」
その物言いに、桜桃は少しだけ緊張を和らげ、ぽつりと言った。
「朝凪より、優しい言い方ですね」
「朝凪は、なんと言っている」
「『私が傍にいないときは、絶対に一人で出歩かないでください』、と」
「……結局、言っている意味は同じだ」
「いいえ、強制度が全く違います」
昊夜は何かを言いかけ、口を閉ざした。
余計なことを言えば、桜桃はまた、あの異常な瞬足で逃げ出すに違いない。
あの逃げ足の速さは本物だ。これ以上問い詰めて怯えられ、避けられても困る。
……。
(……避けられて困るのか、私は)
その考えが頭をよぎった瞬間、昊夜は回廊で少しだけ動きを止めた。
自嘲気味な息が漏れる。困るに決まっている。そんな問い、今さら自分にするまでもない。
灯篭流しの夜、回廊の突き当たりで、壁を背に怯えていた桜桃を思い出す。前帝殺しの噂を怖がり、自分を拒絶しようと必死だったくせに、目だけは真っ直ぐに自分を見ていた。
(……厄介だな)
昊夜は静かに息を吐き出した。
「行け」
声が、少し低くなった。自分でも気づかないうちに。
「……はい」
桜桃は、昊夜の体の横をすり抜けるようにして、足早に通り過ぎていった。
だが、三歩ほど進んだところで、彼女は不意に立ち止まり、振り返った。
昊夜は、先ほどの場所に微動だにせず佇んだまま、彼女を見つめていた。
「……次は、逃げないようにします」
「次もどうせ逃げる」
「……善処します」
昊夜の口の端が、わずかに動いた。
桜桃は前を向いて、回廊の方へ歩き出した。
昊夜はしばらく、その背中を見つめていた。
厄介なのは、彼女の心を占める前帝殺しの疑惑、そして彼女の背後にぴったりと張り付く朝凪という強固な影だ。
あの男がただの生真面目な男だと思うのは大間違いだ。あの男の彼女に対する執着は、常人の理解を遥かに超えている。
因州の地で、彼女が雨乞いの舞姫として派遣された時、雨を降らせるために、一切の躊躇もなく山を丸ごとひとつ爆破した男。
愛する女の面目を保ち、その命を救うためだけに、地形を、天候すらも歪めてみせる男。
一見すると冷静沈着で理性的でありながら、あの娘のこととなれば、山が消え失せようが世界がひっくり返ろうが知ったことではないという、底知れぬ狂気をあの冷静な仮面の下に隠し持っている。
あんな危険極まりない男に、彼女の隣を一生譲ってやるわけにはいかない。
昊夜は桜桃の背中を見送ると、静かに歩き出した。
***
皇居へと続く回廊の奥は静まり返っていた。
役人たちの往来が完全に絶える時間帯。ただ遠くの屋根瓦の隙間で、乾いた風が低く鳴っている。聞こえるのは、それだけだった。
雲英が不意に足を止めた。それに合わせるように、数歩後ろを歩いていた深黎も音もなく止まる。
「……先程の話の続きですが」
雲英が口を開いた。回廊を確かめる前とは、明らかに声の質が違っている。感情を一切排した、平坦な声音だった。
「あなた、休みの間――斎宮へ会うため、神域に立ち入りましたか」
深黎はすぐには答えず、少しの間、深い沈黙を保った。
「……どうしてそれを」
「神域に立ち入ったか、と聞いているんです」
「……」
「深黎」
促されて、深黎はゆっくりと首を巡らせ、雲英を見た。
「六花さんですか」
一拍の、重い沈黙が落ちた。
「は?」
雲英の声が、困惑に揺れた。
「六花さんに聞いたんですか。神域に立ち入ったことを」
「一体、何の話をしているんですか」
「もし、あの人がすべてを知っていて、今まで隠していたのだとしたら」
深黎は表情ひとつ変えず、淡々と、しかし恐ろしいことを口にし続ける。
「六花さんも、私と同罪ですよね」
その頃、花梨は別の用向きのために、偶然この回廊の近くを通りかかっていた。
物陰からひそひそと話し声が聞こえてきた時、最初は気にも留めずに通り過ぎようとした。宮廷での密談など、日常茶飯事だからだ。
しかし、柱の向こうから、聞き慣れた少女の名が鼓膜を叩いた。
――六花。
その瞬間に、花梨の足はぴたりと止まった。
(六花ちゃんが……何かあったの?)
胸に騒ぎ立つ胸騒ぎを抑え、そっと耳を澄ます。
直後、聞こえてきたのは「同罪」という不穏極まりない響きだった。
胸に冷たい氷の塊が鋭く引っかかる。
(六花ちゃんが、巻き込まれようとしている……!)
それだけは、直感的にはっきりと理解できた。
ここにいてはいけない。一刻も早くこの場を立ち去り、彼女にこの危険を報せなくては。
花梨は息を殺し、そっと踵を返した。
その瞬間だった。
「――」
雲英の短い声と、肉を抉るような鈍い音が、静かな回廊に生々しく響き渡った。
花梨は恐怖に突き動かされ、反射的に振り返ってしまった。
視界の先で、雲英が大きくよろめいていた。
彼の脇腹には、深黎の白皙の手がぴったりと押し当てられている。
――衣服を血で濡らしながら、鋭い刃が、音もなく肉から引き抜かれていく。
花梨の頭の中は、一瞬にして真っ白になった。
(今、目の前で、何が起きたの――)
雲英は苦悶に顔を歪めながら、辛うじて壁に手を突いた。ずるずると崩れ落ちそうになる身体を、必死の拒絶で持ち堪えさせている。
深黎は血に染まった刃を手に、雲英からゆっくりと手を離した。
そして、まるで何事もなかったかのように、静かに振り返る。
その鋭い瞳と、花梨の視線が、真っ正面から衝突した。
深黎の目は、どこまでも穏やかだった。激情も、焦りも、怯えすらもない。
その底知れない平穏が、何よりも怖かった。
「……聞いていましたか」
花梨は声が出なかった。叫ぼうとしても喉が引き攣り、金縛りに遭ったかのように足がびくとも動かない。
深黎が衣服を揺らし、血の滴る刃を携えて、一歩、近づいてくる。
「聞いていたのなら……仕方がありませんね」
歌うかのような、静かな声だった。
花梨は本能的な恐怖に駆られ、今度こそ逃げ出そうと身体を翻しかけた。
だが、身体が恐怖にすくみ、思うように動いてはくれない。
次の瞬間、脇腹のあたりに、焼けるような鋭い激痛が走った。
「あ――」
視界がぐにゃりと大きく傾いていく。
冷たい板敷きの回廊が、容赦なく自身の頬に触れた。
遠くで、ただ風が鳴っている。
急速に遠ざかっていく意識の底で、花梨には、それだけがいつまでも虚しく聞こえていた。
***
深黎は返り血のついた衣を翻し、足早に血に染まった回廊を抜け出した。
追っ手がかかる前にこの場を離脱すべく、人目につかない宮廷の死角へと滑り込む。そこから一息に高い屋根へと飛び乗ろうと、足裏に力を込めた、その瞬間だった。
背後から、まるで何も起きていないかのような、うららかな春の風を思わせる穏やかな声が聞こえた。
「さすがは狄族……実に鮮やかなお手並みですね」
心臓の鼓動ひとつ変えずに、深黎は鋭く振り返った。
そこには、いつの間にか音もなく雅が立っていた。
いつもと変わらぬ、どこか世俗を離れた柔和な微笑だった。




