第六話 舞姫、目撃する
思考の沼に沈みかける寸前、花梨が軽やかに話題を変えた。
「それからね、昊夜様のあの不穏な噂についても、私なりに裏を調べてみるつもりよ」
「え……?」
「あの根も葉もない噂が、このまま放っておかれるのは我慢がならないの」
桜桃は思いがけない宣言に、少し言葉を詰まらせた。
「……それは、危なくはないですか」
「危ないかもしれないけれど」
花梨は刺繍の布を持ち直すと、前を見据えた。
「知りたいのよ、本当のことが。これから昊夜様の側に身を置くつもりなら、なおさらね」
桜桃はしばらくの間、花梨の横顔を見つめていた。
(やっぱり、強い)
今度は声には出さず、胸の中だけで呟いた。
「そうだわ」と花梨が不意に顔を上げる。
「この前、昊夜様に手巾を贈ったの」
「あの、梨の実の……?」
「ええ。それをね、直接渡したのだけど」
「なんて、言いました?」
「それが、何も言わなかったのよ」
「……受け取ってはくださったのですか?」
「ええ。無言のまま受け取っていかれたわ」
桜桃は手巾を受け取ったときの昊夜を想像して、くすりと笑った。
「昊夜様らしいですね」
「そうなのよ。でもね、翌日からきちんとその手巾を使っていらっしゃるのを見かけたから、決して嫌いではないと思うの」
「随分と、前向きですね」
「前向きに生きないと、やっていられないもの」
桜桃は心の中で、三度目の「強い」を連呼した。
針を再び動かしながら、桜桃は自身の膝の上にある布へと目を落とした。
薄紅色の糸が交差し、桜の花びらが少しずつ、確実に形を成していく。
「六花ちゃんの刺繍も、もうすぐ完成しそうね」
花梨が身を乗り出すようにして、桜桃の手元を覗き込んできた。
「……そうですね。あと、一刺しで」
針を最後の一刺し、慎重に通す。
花びらの端を丁寧に縫い留めて、ハサミで糸を小さく切る。
「……できた」
微かな達成感とともに、小さく呟いた。
白い柔らかな布の上に、今、淡い桜が一輪、静かに咲き誇っていた。
花梨がそれを見て、嬉しそうに目を細める。
「まあ、きれいね」
「少し、不格好で下手ですけど」
「そんなことないわ、とても温かみがあって素敵よ」
桜桃は褒められた手巾を、愛おしそうに手のひらの上に広げた。
そのときだった。
静かな廊下の向こうから、せわしない足音とともに、耳慣れた軽い鈴の足音が近づいてきた。
「六花ー、神祇官庁よりお呼び出しですー」
その声を耳にした瞬間、桜桃の肩がびくっと大きく跳ね上がった。心臓が嫌な音を立てる。
「……っ、また何かあるの?」
「六花ちゃん?」
花梨がその異常な怯えように気づき、怪訝そうに名を呼ぶ。
「いえ……っ、なんでもないです。大丈夫です」
桜桃は慌てて立ち上がると、出来上がったばかりの手巾を、隠すように素早く袖の中へと収めた。
花梨が少し首を傾げ、心配そうに見上げる。
「本当に大丈夫? 顔色が悪いわよ」
「大丈夫です。たぶん」
「たぶん、って……」
「たぶん、大丈夫です!」
「……全然大丈夫そうには聞こえないのだけど」
「大丈夫です!」
桜桃は自分に言い聞かせるようにきっぱりと言い放ち、逃げるように部屋を飛び出した。
長い廊下を早足で歩きながら、袖の中で手巾をぎゅっと握り直す。
(また今度は何だろう。因州のときみたいなことじゃなければいいけど……。かと言って、羽州のときみたいなことでも困る。武州のときみたいな命の危機は、もう絶対に嫌。何もないのが一番いいに決まっている。でも、わざわざ呼び出されている時点で、絶対に何かある。……ああ、絶対に変なことが起きる!)
脳内でぐるぐると最悪の想定を巡らせているうちに朝堂院へ続く長い回廊へと足を踏み入れた。
桜桃は、前方から響くかすかな話し声に気づいて足を止めた。
漆塗りの太い柱の向こう、回廊の少し先に、二人の男の人影が佇んでいる。
雲英と深黎だった。
桜桃は足を止めたまま、吸い寄せられるように柱の陰へと身を潜めた。わざと盗み聞きをしようとしたわけではない。
ただ、直感が自然と彼女の身体を影へと隠させた。
「深黎、そのやる気のなさは何とかなりませんか」
向けられたのは雲英の声だった。心底呆れているような、しかし同時に彼のそんな態度に慣れきっているような声音だった。
「いつものことです」
答える深黎の声は、どこまでも淡々としていた。申し訳なさそうにする気も、態度を改める気も一切なさそうな、冷ややかな響きが混じる。
雲英が、困ったように溜息をついた。
「秋にしばらく休みを取っていましたね。気分転換になりましたか」
「ええ。宮廷の澱んだ空気から離れ、肺を洗ってきましたよ」
「澱んだ空気、ですか」
「はい」
雲英はしばらくの間、深黎の能面のような顔をじっと見つめていた。何かを言いかけて、あえて呑み込んだような重い沈黙が流れる。
その時、雲英の鋭い目が、すっと動いた。
彼は周囲の壁や柱、回廊の左右を、ゆっくりと、しかし執拗に見渡した。
警戒に満ちたような目だった。
桜桃は反射的に息を止めた。背中を柱にぴったりとつけ、指先ひとつ動かさないよう硬直する。
雲英の鋭い視線が、桜桃の潜む柱の方向をまっすぐに掠めた。
一瞬だけ、その視線が止まったように感じられた。
(見つかった……!?)
心臓が、耳元で爆発したかと思うほど大きく跳ね上がる。
だが、雲英の目は何事もなかったかのように別の方向へと移った。回廊の端まで完全に視線で確かめてから、彼は再び深黎へと向き直る。
「……こちらへ」
短く言った。
先ほどまでの、部下を諌めるような声の質とは明らかに違っていた。低く沈み、他者を拒絶するような密やかな響き。
深黎は何も言わずにその後に従った。二人は足音を忍ばせるようにして、回廊のさらに奥へと歩みを進め始める。
それは、――皇居に近い方角だった。
日中であっても、用のない役人は滅多に立ち入らない、人の往来が極端に少なくなる方角。
二人の規則的な足音が、遠ざかるにつれて徐々に小さくなっていく。やがて、冷え切った回廊の向こうへと完全に気配が消え去った。
桜桃はしばらくの間、柱の陰から一歩も動くことができなかった。
雲英の異様な目が脳裏に焼き付いて離れなかった。
周囲を確かめる前と後で、あからさまに変わったあの声の冷たさ。
(雲英様は深黎に何を……?)
緊張でこわばった身体を少しずつ解き、やがて、そっと胸元に手を当てた。
仕立ての良い衣の上から、指先に硬く小さな感触が触れる。
――日向から手渡された、あの小さな玉。
如月が亡くなった夜、書庫の床に転がっていたという玉だった。
(あの、首飾り……)
遠目ではあったが、先ほどの深黎の首元に、確かにこれと酷似した玉がいくつも連なっていたのが見えた。
距離があり、柱の影から盗み見ただけだったため、はっきりとした確証は持てない。
(本当に、私が今持っているこの玉と同じものなのか、確かめなくては)
けれど、一体どうやって。
謎の多い深黎に直接問い詰めるなど不可能な話だ。
彼に近づき、その首飾りを近くで凝視する機会など、そう簡単には作れるはずもない。
二人が向かった先は、皇居に近い奥の回廊。普通の用向きであれば、わざわざ立ち入る必要のない場所だ。
(人目を忍んで何かを話しに行った……)
何が話し合われているのか、その内容までは分からない。
(雲英様と深黎様が……)
武州動乱について徴税と兵の配置に繋がりは、雲英が調べても確認できなかったこと。
そして今、人目を避けて深黎と話す雲英。
(何かが、おかしい)
文書記録を扱う中務省なら記録を伏せることもできるのではないか。
確証はない。ただ、胸の中で何かが小さく軋んでいた。
桜桃は掴んだ玉を衣の奥深くへとしまい直し、自らの警戒を強めながら、再びゆっくりと歩き出した。




