第九話 名前を言ってはいけないあの娘
深黎は、煙のように姿を消した。
桜桃と対峙したのを最後に、彼がどこへ逃げ延びたのかを知る者は誰もいなかった。
方々に追っ手や密偵を放ったものの、狄族の足跡を掴むことは叶わず、宮廷にはただ、底知れぬ不気味な沈黙だけが居座り続けた。
桜桃は、花梨の見舞いのため宮城の奥へと向かった。
病室の重い扉を開けると、そこには昊夜の姿があった。病床に横たわる花梨の顔は、驚くほど青白い。
「……花梨様は」
「命に別状はないそうだ。一度は目を覚ましたが、まだ熱が高い。傷の痛みもあるため、今は薬で眠らせている」
「そうですか」
緊張していた身体から、力が抜けていく。
「……花梨様も、雲英様も、深黎様が刺した……」
深黎が雲英を刺し、その場を目撃した花梨もまた深黎に刺された。
もし雲英を刺したことの口封じが目的なら、二人を刺した時点で深黎は目的を達している。だが、彼はその後姿を消した。
つまり、これは単なる口封じではないのではないか。
「花梨様は、何かを聞いたのでしょうか」
「その可能性はある」
昊夜の鋭い視線が宙を刺す。彼女は一体、何を聞いてしまったのか。
「花梨は大丈夫だ」
昊夜が静かに言い切った。
「……昊夜様が大丈夫だと言うと、本当に大丈夫な気がしますね」
彼は少しだけ表情を和らげ、桜桃を一瞥した。
その静かな自信に満ちた佇まいに、桜桃は束の間、張り詰めていた気持ちを少しだけ預けることができた。
***
数日後の朝議。
室内がにわかに騒然となった。脇腹に幾重にも包帯を巻いた雲英が、何事もない顔でいつもと同じ席に就いたからだ。
「……雲英殿、さすがに無理が過ぎるのでは」
「問題ありません」
青白い顔のまま、雲英は静かに言い放つ。
「政に穴を開ける方が、刃に刺されるよりよほど痛い」
それだけを告げて前を向く男に、それ以上口を挟める者は誰もいなかった。
だが、彼の覚悟を嘲笑うかのように、辺境からの凶報が朝廷を襲った。
息を切らせて朝堂院へ駆け込んできた伝令から、受け取った書状を開いた瞬間、橘はその顔面から完全に血の気が引いた。
「『神祇官ひとりを、族長の令孫のもとへ嫁がせよ。満月が三度巡るまでに答えがなければ、辺境の集落をひとつ残らず焼く』」
室内が、静かになった。というより――凍りついた。誰も口を開かなかった。
雲英は眉を寄せた。清明は扇を閉じたまま、微動だにしない。暁は両手を膝の上で固く握り、じっと前を向いている。昊夜は、ただ目を細めて前を見つめていた。
やがて、誰かが息を吐いた。それが合図のように、ざわめきが戻ってきた。
「……嫁がせる」
「和平のために……」
清明がゆっくりと扇を開いた。
「状況を整理しましょう」
室内が静まる。
「一つ。相手の要求は婚姻による和平。二つ。期限は満月が三度——約三ヶ月。三つ。拒否した場合、辺境の集落が焼かれる」
「兵を動かすべきでは」
疾風が言った。
「動かせますか」
清明の静かな返しに、疾風が口ごもる。
「武州の動乱の後処理で、まだ兵が分散しています。即座に動かせる数は……」
暁が、重い声で引き取る。
「今の状態で辺境に兵を出せば、後詰めがない。仮に出して、押し込まれれば——帝都まで直線だ」
広間にまた、重苦しい静寂が満ちる。
「国庫は」
清明の問いかけに、大蔵卿の鷹取が、言いにくそうに答える。
「底をついているとは言いませんが、長期の出兵には耐えられません」
「つまり、兵を出せない。出せても、長くは続かない。拒否すれば、辺境の民が死ぬ」
「……はい」
鷹取が短く答えた。清明が続ける。
「和平の道を探るとなれば、婚姻しかない、と」
「慣わしとしては、そういうことになります」
橘が言葉を補う。
「昔から、こういった時には婚姻によって絆を結んできました。相手が首を縦に振るかどうかは、送る相手次第ですが」
「相手が納得する者でなければ、意味がない」
「では、誰を」
宮内卿の赤楊光則が口を開く。
「皇族から出せばよいのでは、という意見もあろうかと思いますが……。強いて挙げるならば、久しく出仕されておらぬ宮家に年頃の姫君がおいでですが、何ぶん宮中とは距離を置いておいでですから、反発も大きいでしょう」
室内を重苦しい静寂が満たす。誰もが黙り込み、その意見をただ静観していた。
宮中から忘れ去られた宮家を今さら引っ張り出すなど、現実的ではない。それは一同の共通認識だった。
橘が不安そうに、言葉を紡ぐ。
「先方が求めているのは、あくまで神祇官です。皇族とはいえ、宮中での影も薄い姫君では、狄族への『形だけの婚姻』という侮りを与えかねませんよ」
「なぜ神祇官なのだ」
「神を祀る者を娶れば、神の加護も得られると考えているのかもしれません。狄族には、そういった信仰がありますので」
「神聖な婚姻ということか」
「……おそらく」
――神祇官。
その明確な限定に、一人の少女の姿が浮かび上がる。
(いや……まさかな。他にもいるはずだ)
暁は額に滲む汗を悟られぬよう、必死に己に言い聞かせた。昊夜もまた、静かに口を閉じている。雲英は扇を握る手に力を込める。
「神祇官に、年頃の者は何人おりましたか」
赤楊の問いに、鷹取が記憶を整理しながら冷静に声を上げた。
「初音という者はいかがでしょう。祭主を務める方で、格もある」
淡々と、名前が挙げられた。
「……初音は」
雅が、扇を開いたまま少し間を置いた。
「未婚でいらっしゃいますね」
そこへ橘が、純粋な補足のつもりで言いにくそうに付け加える。
「本人は、かねてより……その、婚姻を、焦っ……望んでおられると聞きますが」
「望んでおられるなら話が早いのでは」
「彼女であれば格も申し分ない」
鷹取が雅に視線を移す。
「おいくつでしたか」
「二十八です」
「……二十八」
「はい」
「……」
鷹取が、視線を逸らした。
しばらく沈黙が続く。
その沈黙に耐えきれずに、橘が不思議そうに室内を見回した。
「……それにしても、皆さん、随分と静かですね。 何か不都合でも」
至極真っ当な疑問だった。
扇を握る雲英。銅像のように動かない暁。一点を見つめている昊夜。扇で口元を隠す雅。窓の外を見る清明。
いつもなら意見を挟むはずの面々が揃って押し黙っている空間に、純粋な違和感を覚えた。
(不都合は大ありだ、だが言えるわけがない……!)
暁は内心の冷や汗を必死に押し殺し、鷹取の言葉に全力で「初音で決定してくれ」と念を送っていた。昊夜は腕を組み、目を閉じた。
雲英が諦めたように静かに口を開いた。
「先方が求めているのは神の加護です」
「とはいえ、年頃の娘は、もうほとんど嫁いでしまっています」
雅が、扇を手に言った。
清明は一度だけ、ゆっくりと扇を閉じた。
「和平を選ぶ以上、相応の者でなければなりません。家格があること。神祇官であること。辺境にも名が知られていること」
そこで、これまで静観していた蘇芳が、冷酷な一言を盤面に突き刺した。
「和平の婚姻とは、単に人を送ることではありません。国の意思を送ることです。相手が『この国は本気だ』と思わねば意味はありません。だからこそ、送る者は、この国が最も惜しむ者でなければならない。」
畳み掛けられた条件に当てはまる存在の影が、室内に濃く落ちる。条件が揃いすぎている。
(やめろ。その名だけは出すな)
暁は組んだ指が白くなるほど拳を握り締め、心の中で叫んでいた。
隣の昊夜を見れば、腕を組んだまま目を閉じ、完全に気配を消している。だがその肩は微かに強張っていた。
清明は穏やかな表情を崩さず、ただ視線だけで雅を促した。
(……あなたから、おっしゃいますか?)
その視線を受け止めた雅は、いつも通りの穏やかな微笑のまま、視線で返す。
(よしてくだされ。その名を私の口から言わせるおつもりですか)
二人の間だけで、無言の鋭い応酬が交わされる。
その緊迫した沈黙の中、雲英がじっと雅を見つめていた。
その視線に気付いた雅がふわりと微笑む。
「……皆さん、そう私の方を睨まないでください。まるで、うちの可愛い娘を標的にされているようだ」
「八意殿に娘がいらしたのですか」
赤楊が目を丸くして言った。
「ええ。とても愛らしい子なのですが……何分、まだ四歳なものでね」
「四歳……」
「猫ですが」
「そうではなく……!」
雲英が思わず声を上げた。何とか話題を逸らそうとする雅の態度が、かえって不自然だった。
そこで橘が、
「あの……」
と遠慮がちに手を挙げる。
(――しまっ、)
暁の背中に嫌な汗が伝った。空気の読めない男が、一番最悪な角度から口を開こうとしている。
全員の視線が橘に集まった。
「いつも祭礼で舞っておられる方がいらっしゃいましたよね」
室内の空気が、完全に凍りついた。
橘だけが、その致命的な温度差に気付いていない。
「ほら、因州で雨を呼んだ奇跡の舞姫と呼ばれてる――」
誰も返事をしない。遮ろうにも、ここで過剰に反応すればかえって怪しまれる。
昊夜は微動だにせず、暁はただ橘の口がこれ以上開かないことを祈るように、奥歯を噛み締めた。
「ええと、確か……」
橘が記憶を手繰り寄せるように首を傾げる。
雅は緩やかに扇で扇いだまま、これ以上は引き延ばせないと諦めたように目を伏せた。
橘が思い出したように弾んだ声を上げた。
「そうだ、六花殿です」
昊夜が、弾かれたように目を開けた。
暁の顔から、一気に血の気が引いていく。
清明は何も言わなかった。ただ、鋭さを帯びた双眸がその顛末を静かに見つめている。
雅の扇を持つ指先が止まった。




