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狂桜華《きょうおうか》~亡国の姫は、名を捨て帝を目指す~  作者: 澪
第五章 偽りの花嫁【異郷婚姻編】

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第九話 名前を言ってはいけないあの娘

 深黎は、煙のように姿を消した。


 桜桃と対峙したのを最後に、彼がどこへ逃げ延びたのかを知る者は誰もいなかった。


 方々に追っ手や密偵を放ったものの、狄族の足跡を掴むことは叶わず、宮廷にはただ、底知れぬ不気味な沈黙だけが居座り続けた。


 桜桃は、花梨の見舞いのため宮城の奥へと向かった。


 病室の重い扉を開けると、そこには昊夜の姿があった。病床に横たわる花梨の顔は、驚くほど青白い。


「……花梨様は」


「命に別状はないそうだ。一度は目を覚ましたが、まだ熱が高い。傷の痛みもあるため、今は薬で眠らせている」


「そうですか」


 緊張していた身体から、力が抜けていく。


「……花梨様も、雲英様も、深黎様が刺した……」


 深黎が雲英を刺し、その場を目撃した花梨もまた深黎に刺された。


 もし雲英を刺したことの口封じが目的なら、二人を刺した時点で深黎は目的を達している。だが、彼はその後姿を消した。


 つまり、これは単なる口封じではないのではないか。


「花梨様は、何かを聞いたのでしょうか」


「その可能性はある」


 昊夜の鋭い視線が宙を刺す。彼女は一体、何を聞いてしまったのか。


「花梨は大丈夫だ」


 昊夜が静かに言い切った。


「……昊夜様が大丈夫だと言うと、本当に大丈夫な気がしますね」


 彼は少しだけ表情を和らげ、桜桃を一瞥した。


 その静かな自信に満ちた佇まいに、桜桃は束の間、張り詰めていた気持ちを少しだけ預けることができた。


***


 数日後の朝議。


 室内がにわかに騒然となった。脇腹に幾重にも包帯を巻いた雲英が、何事もない顔でいつもと同じ席に就いたからだ。


「……雲英殿、さすがに無理が過ぎるのでは」


「問題ありません」


 青白い顔のまま、雲英は静かに言い放つ。


「政に穴を開ける方が、刃に刺されるよりよほど痛い」


 それだけを告げて前を向く男に、それ以上口を挟める者は誰もいなかった。


 だが、彼の覚悟を嘲笑うかのように、辺境からの凶報が朝廷を襲った。


 息を切らせて朝堂院へ駆け込んできた伝令から、受け取った書状を開いた瞬間、橘はその顔面から完全に血の気が引いた。


「『神祇官ひとりを、族長の令孫のもとへ嫁がせよ。満月が三度巡るまでに答えがなければ、辺境の集落をひとつ残らず焼く』」


 室内が、静かになった。というより――凍りついた。誰も口を開かなかった。


 雲英は眉を寄せた。清明は扇を閉じたまま、微動だにしない。暁は両手を膝の上で固く握り、じっと前を向いている。昊夜は、ただ目を細めて前を見つめていた。


 やがて、誰かが息を吐いた。それが合図のように、ざわめきが戻ってきた。


「……嫁がせる」


「和平のために……」


 清明がゆっくりと扇を開いた。


「状況を整理しましょう」


 室内が静まる。


「一つ。相手の要求は婚姻による和平。二つ。期限は満月が三度——約三ヶ月。三つ。拒否した場合、辺境の集落が焼かれる」


「兵を動かすべきでは」


 疾風が言った。


「動かせますか」


 清明の静かな返しに、疾風が口ごもる。


「武州の動乱の後処理で、まだ兵が分散しています。即座に動かせる数は……」


 暁が、重い声で引き取る。


「今の状態で辺境に兵を出せば、後詰めがない。仮に出して、押し込まれれば——帝都まで直線だ」


 広間にまた、重苦しい静寂が満ちる。


「国庫は」


 清明の問いかけに、大蔵卿の鷹取が、言いにくそうに答える。


「底をついているとは言いませんが、長期の出兵には耐えられません」


「つまり、兵を出せない。出せても、長くは続かない。拒否すれば、辺境の民が死ぬ」


「……はい」


 鷹取が短く答えた。清明が続ける。


「和平の道を探るとなれば、婚姻しかない、と」


「慣わしとしては、そういうことになります」


 橘が言葉を補う。


「昔から、こういった時には婚姻によって絆を結んできました。相手が首を縦に振るかどうかは、送る相手次第ですが」


「相手が納得する者でなければ、意味がない」


「では、誰を」


 宮内卿の赤楊光則が口を開く。


「皇族から出せばよいのでは、という意見もあろうかと思いますが……。強いて挙げるならば、久しく出仕されておらぬ宮家に年頃の姫君がおいでですが、何ぶん宮中とは距離を置いておいでですから、反発も大きいでしょう」


 室内を重苦しい静寂が満たす。誰もが黙り込み、その意見をただ静観していた。


 宮中から忘れ去られた宮家を今さら引っ張り出すなど、現実的ではない。それは一同の共通認識だった。


 橘が不安そうに、言葉を紡ぐ。


「先方が求めているのは、あくまで神祇官です。皇族とはいえ、宮中での影も薄い姫君では、狄族への『形だけの婚姻』という侮りを与えかねませんよ」


「なぜ神祇官なのだ」


「神を祀る者を娶れば、神の加護も得られると考えているのかもしれません。狄族には、そういった信仰がありますので」


「神聖な婚姻ということか」


「……おそらく」


 ――神祇官。


 その明確な限定に、一人の少女の姿が浮かび上がる。


(いや……まさかな。他にもいるはずだ)


 暁は額に滲む汗を悟られぬよう、必死に己に言い聞かせた。昊夜もまた、静かに口を閉じている。雲英は扇を握る手に力を込める。


「神祇官に、年頃の者は何人おりましたか」


 赤楊の問いに、鷹取が記憶を整理しながら冷静に声を上げた。


「初音という者はいかがでしょう。祭主を務める方で、格もある」


 淡々と、名前が挙げられた。


「……初音は」


 雅が、扇を開いたまま少し間を置いた。


「未婚でいらっしゃいますね」


 そこへ橘が、純粋な補足のつもりで言いにくそうに付け加える。


「本人は、かねてより……その、婚姻を、焦っ……望んでおられると聞きますが」


「望んでおられるなら話が早いのでは」


「彼女であれば格も申し分ない」


 鷹取が雅に視線を移す。


「おいくつでしたか」


「二十八です」


「……二十八」


「はい」


「……」


 鷹取が、視線を逸らした。


 しばらく沈黙が続く。


 その沈黙に耐えきれずに、橘が不思議そうに室内を見回した。


「……それにしても、皆さん、随分と静かですね。 何か不都合でも」


 至極真っ当な疑問だった。


 扇を握る雲英。銅像のように動かない暁。一点を見つめている昊夜。扇で口元を隠す雅。窓の外を見る清明。


 いつもなら意見を挟むはずの面々が揃って押し黙っている空間に、純粋な違和感を覚えた。


(不都合は大ありだ、だが言えるわけがない……!)


 暁は内心の冷や汗を必死に押し殺し、鷹取の言葉に全力で「初音で決定してくれ」と念を送っていた。昊夜は腕を組み、目を閉じた。


 雲英が諦めたように静かに口を開いた。


「先方が求めているのは神の加護です」


「とはいえ、年頃の娘は、もうほとんど嫁いでしまっています」


 雅が、扇を手に言った。


 清明は一度だけ、ゆっくりと扇を閉じた。


「和平を選ぶ以上、相応の者でなければなりません。家格があること。神祇官であること。辺境にも名が知られていること」


 そこで、これまで静観していた蘇芳が、冷酷な一言を盤面に突き刺した。


「和平の婚姻とは、単に人を送ることではありません。国の意思を送ることです。相手が『この国は本気だ』と思わねば意味はありません。だからこそ、送る者は、この国が最も惜しむ者でなければならない。」


 畳み掛けられた条件に当てはまる存在の影が、室内に濃く落ちる。条件が揃いすぎている。


(やめろ。その名だけは出すな)


 暁は組んだ指が白くなるほど拳を握り締め、心の中で叫んでいた。


 隣の昊夜を見れば、腕を組んだまま目を閉じ、完全に気配を消している。だがその肩は微かに強張っていた。


 清明は穏やかな表情を崩さず、ただ視線だけで雅を促した。


(……あなたから、おっしゃいますか?)


 その視線を受け止めた雅は、いつも通りの穏やかな微笑のまま、視線で返す。


(よしてくだされ。その名を私の口から言わせるおつもりですか)


 二人の間だけで、無言の鋭い応酬が交わされる。


 その緊迫した沈黙の中、雲英がじっと雅を見つめていた。


 その視線に気付いた雅がふわりと微笑む。


「……皆さん、そう私の方を睨まないでください。まるで、うちの可愛い娘を標的にされているようだ」


「八意殿に娘がいらしたのですか」


 赤楊が目を丸くして言った。


「ええ。とても愛らしい子なのですが……何分、まだ四歳なものでね」


「四歳……」


「猫ですが」


「そうではなく……!」


 雲英が思わず声を上げた。何とか話題を逸らそうとする雅の態度が、かえって不自然だった。


 そこで橘が、


「あの……」


 と遠慮がちに手を挙げる。


(――しまっ、)


 暁の背中に嫌な汗が伝った。空気の読めない男が、一番最悪な角度から口を開こうとしている。


 全員の視線が橘に集まった。


「いつも祭礼で舞っておられる方がいらっしゃいましたよね」


 室内の空気が、完全に凍りついた。


 橘だけが、その致命的な温度差に気付いていない。


「ほら、因州で雨を呼んだ奇跡の舞姫と呼ばれてる――」


 誰も返事をしない。遮ろうにも、ここで過剰に反応すればかえって怪しまれる。


 昊夜は微動だにせず、暁はただ橘の口がこれ以上開かないことを祈るように、奥歯を噛み締めた。


「ええと、確か……」


 橘が記憶を手繰り寄せるように首を傾げる。


 雅は緩やかに扇で扇いだまま、これ以上は引き延ばせないと諦めたように目を伏せた。


 橘が思い出したように弾んだ声を上げた。


「そうだ、六花殿です」


 昊夜が、弾かれたように目を開けた。


 暁の顔から、一気に血の気が引いていく。


 清明は何も言わなかった。ただ、鋭さを帯びた双眸がその顛末を静かに見つめている。


 雅の扇を持つ指先が止まった。


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