第四話 元近衛中将、女たらし説
部屋から出た桜桃は、薄暗い廊下の途中でぴたりと足を止めた。
角の向こうから、ちょうど朝凪が歩いてくるところだった。
二人は言葉もなく、同時に互いの姿を見つめ合う。
「……ただいま戻りました」
「おかえりなさい」
それだけを交わし、桜桃は逃その場を去り、自室へと消えていった。
刹那は、桜桃の背中が完全に闇へ溶けるまで見送っていた。
それから、静かに近づいてきた朝凪へと視線を移す。
「座れよ」
短く促された朝凪は、少し間を置いてから、着物の裾を払って縁側の端に腰を下ろした。
庭に夜風が吹き抜けていた。
しばらくの間、二人とも言葉を発しようとはせず、ただ沈黙だけが流れる。
やがて、朝凪が静かに口を開いた。
「六花の様子はどうだった」
「まぁ、相変わらずなんか一人で抱え込んで悩んでるみたいだったが……」
「そうか」
刹那は庭の景色に目を向けたままだった。
朝凪は、黙って前を見据える刹那の横顔をじっと見つめていた。
それ以上、何を話したのかとは尋ねなかった。
桜桃が自分や日向には言えないことがあるのを、朝凪は知っていた。自分たちが同じ日の記憶を抱えているからこそ、口にできないことがある。
だから今夜は、刹那に任せた。
この男になら、少しくらいは弱音を吐けるのではないかと思ったのだ。
「なあ」
刹那が、ぽつりと間を置いて切り出した。
「お前、昔、許嫁がいたんだって?」
その一言に、朝凪の目が、わずかに動いた。
「……誰から聞いた」
「姫だよ」
朝凪は視線を外し、静まり返る庭へと目を向けた。
決して隠していたわけではない。
だが、自分から進んで他人に話すようなことでもなかった。ただそれだけのことだった。
「日向殿の勧めだ」
「へえ」
刹那は少し意外そうな顔をして、眉を上げた。
「殿がそんなこと言うなんて、ちょっと意外だな」
「立場上、周囲を納得させるだけの形式が必要だったのだろう」
「ふうん」
刹那は気のない返事をしながら、長く伸ばした足を縁側の端に乗せた。
「で、どんな人だったんだよ」
「……六花の知り合いだ」
「そうか」
また、冷たい夜風が二人の間を通り抜けていく。
朝凪は舞い落ちる桜の花びらを見ながら、一年前、桜の花びらを追いかけていた桜桃を愛しそうに見つめていた六花の姿を思い出した。
──許嫁。
確かに世間的な形としては、そう呼ぶべきものだった。
だが、それは世の男女が思い描くような、甘やかな契りではない。
恋情を交わしたわけでも、夫婦となる未来を夢見たわけでもなく、もっと静かで、互いの生き方を尊重する約束だった。
当時、本物の六花には、政治的な思惑の絡んだ縁談が次々と持ち込まれていた。けれど彼女はいつも、困ったように細い眉を下げて笑っていた。
『わたしは、姫様が一番なの』
柔らかな声だった。
だが、その可憐な瞳の奥にある覚悟には、一切の迷いも曇りもなかった。
『それをちゃんと理解して、邪魔をしないと言ってくれる方なら、いいかなって』
彼女の世界の中心は、どこまでも桜桃だった。仕えるべき人、命に代えても守るべき絶対の存在。
そして、その忠誠は、朝凪自身も全く同じだった。ただ桜桃の隣にいられれば、それで良かった。
だから、朝凪にとって、「姫様が一番」と言い切る六花は、これ以上ないほど信頼できる唯一無二の『同志』だったのだ。
「そういや、姫が言ってたけど」
刹那のその言葉に、朝凪の眉間にうっすらと皺が寄った。
「……今度は何だ」
「お前、椎香って女とも将来を誓い合ってたんだって?」
「…………」
「なんだよ」
「六花は、なぜそんな話ばかりお前にしている」
「俺に聞くなよ」
刹那は呆れたような返事をしたあと、朝凪の横顔を眺めた。
「お前、前に仕えてた皇女様のことも、ずいぶん大事にしてただろ?」
「……何が言いたい」
「いや、皇女様だろ。許嫁だろ。椎香とも将来を誓い合ってた」
「誓っていない」
「で、今は姫」
「聞け」
刹那は指を折って数えた。
「四人。……やべぇな」
「聞けと言っている」
「なんだよ」
「椎香殿とは何もない」
「じゃあ三人」
「そういう問題ではない」
「椎香以外は否定しないんだろ」
「……」
「黙ると余計やべぇぞ、お前」
刹那は、横目で朝凪の表情の読めない横顔をじっと見つめていた。
朝凪と再会するまでの四年ほどの間に女の影が四人。
椎香を除いたとしても三人。
口にしてみれば、呆れるほどの人数だった。
しかし、本当にそうなのだろうか。
会っていなかった四年の間に何があったかは知らないが、少なくとも、あちらこちらの女へ心を移すような男には到底見えなかった。
朝凪という男は、昔から自らの感情を押し殺して隠すのが異常に上手い。
だが、今はどうだ。
感情を隠しきれていない瞬間が確かにあった。特に、あの「姫」が絡む時だけは。
不意に、部屋の奥から夜風に乗って、かすかな薫香が漂ってきた。
刹那は小さく鼻を鳴らし、その部屋の香りを深く嗅ぐ。
「白檀の香り……か。高貴な香りだよな」
「……」
朝凪は何も答えなかった。
刹那はふっと自嘲気味に口元を歪めて笑う。
「あの男のせいで、その印象がついちまった」
朝凪はその言葉を、静かに聞いていた。
否定しなかった。できなかった。
ひと呼吸置いて、刹那が噛み締めるようにぽつりと言った。
「昔、お前が自分の仕えている皇女の話をしてくれたときの顔と」
庭の暗がりに視線を戻し、そのまま言葉を続ける。
「今ここで、姫と話しているときのお前の顔が……全く同じなんだよなあ」
朝凪は、その言葉に何も答えなかった。否定も、肯定もしない。
刹那もまた、それ以上深く踏み込んで聞くような真似はしなかった。
ただ、二人の座る縁側を、濃さを増した夜の静寂がゆっくりと満たしていった。
***
その頃、深奥の宮中では、全く異なる種類の火種が、静かに、しかし確実に燻り始めていた。
疾風の母――未散。
虚空帝の側室として嫁いだ女である。
昊夜の母が亡くなった後も、彼女は正妻の座に就くことは叶わなかった。
いつまで経っても、決して“二番目”という日陰の立場から抜け出せない苦しみ。そして、常に正妻の子が優先されてしまう現実。
未散はそれを、身を切られるような歳月のなかで嫌というほど思い知らされてきた。
だからこそ、彼女は執着を抱いていた。
自分の子が、この血生臭い宮廷で生き残ることを。
未散とて、今の疾風が、昊夜と並び立つ存在ではないことくらい、分かっていないわけではない。
虚空帝の長子であり、武功にも名声にも恵まれた昊夜と、第二皇子である疾風。
その二人を並べて、どちらを次代の帝にと問えば、朝廷の答えなど初めから決まっている。
けれど、昊夜本人だけなら、まだ何が起こるか分からない。
今はまだ疾風にも僅かに可能性が残されている。
その可能性を潰されないよう、未散が最も敵視し、警戒している存在こそが花梨だった。
青陽家から入御し、昊夜の正妃に最も近いと目されている妃候補。
今はまだ、その座が正式に定まったわけではない。
だが、もし花梨が昊夜の皇子を産めば、その時こそ正妃に冊立されるだろう。
そうなれば、青陽家が正式に昊夜の後ろ盾となる。
ただでさえ次代の帝として有力視されている昊夜に、四大貴族の一角である青陽家までつけば、宮廷の流れは決定的に昊夜へ傾いていく。
未散にとって、それは決して許容できる未来ではなかった。
そして、未散の懸念はそれだけではなかった。
ここ最近、宮中ではもう一つ、気になる噂が囁かれている。
神祇官として宮中へ出入りしている六花という娘が、かつて星河帝に仕えた近衛大将、朱明日向の娘であるというものだった。
出所は定かではない。だが、朱明家に連なる暁が人前でそう口にしたという話まである以上、単なる憶測として捨て置くこともできなかった。
それだけならば、未散とてさほど気には留めなかっただろう。
問題は、昊夜がその娘を妙に気にかけているという噂まで、同じ頃から聞こえ始めていることだった。
「……朱明家まで」
誰もいない部屋で、未散は低く呟いた。
花梨の背後には青陽家がある。
そして六花が本当に日向の娘ならば、その背後にあるのは朱明家だ。
現在の朱明家当主は日向の妹である日和だが、日向が再び表へ戻れば、朱明家の行く末がどう動くかなど誰にも分からない。
もし昊夜が花梨を正妃に迎え、さらに六花までその傍らへ置くことになれば。
青陽と朱明。
四大貴族のうち二家が、昊夜を中心として結びつくことになる。
未散の指先が、膝の上でゆっくりと衣を掴んだ。
だからこそ、花梨が皇子を産むより先に、疾風にも確かなものを残さなければならない。
最初は、それはごく穏やかな「気遣い」の形をとっていた。
「体調はいかが?」
「処方させた薬膳は、毎日欠かさず飲んでいるかしら」
「お体に冷えは大敵よ」
向けられる優しい言葉。母親のようになだらかな微笑み。
だが、時が経つにつれて、その干渉は次第に、隠しきれない異様な執着へと変貌していった。
「月のものは、いつおいでになったの?」
ある日、事前の挨拶もなく花梨が暮らす「梨壺」へと押し入ってきた未散が、開口一番に冷たく言い放った。
花梨は動じる風もなく、平然と答える。
「先月の末にございます」
「……遅いわね」
「そうでございましょうか。いつも通りかと」
「昊夜様とは、夜のお勤めをきちんと共にされているのですか」
不躾極まりない問いに、花梨はあえて形よく微笑んでみせた。
「ええ。毎晩、睦まじく過ごさせていただいておりますわ」
未散の眉が、不快感に跳ね上がった。背後に控えていた未散の侍女が、主の視線を受けて、手元の冊子に何事かを素早く書き記していく。
「それにしては、なかなか朗報が届かないようだけれど――」
「――」
未散の言葉を遮るように、花梨が口元を袖で隠しながら、ぼそりと呟いた。
その内容が聞こえたのか、花梨の側に控えていた侍女の紬が、不意を突かれたように小さく吹き出す。
「……は?」
未散の目が、鋭く据わった。
「御台様」
花梨は穏やかな笑みを崩さないまま、しかし明確な拒絶を込めて未散の言葉を遮った。
「そのような事につきましては、夫婦の間だけの事柄かと存じます」
「世継ぎを儲けるということは、夫婦二人の問題だけでは済まされないのです」
「ごもっとも。ですから、昊夜様とも日々、励んでおります」
未散は花梨を、射殺さんばかりの眼光に睨み据えた。
花梨もまた、その視線を真っ正面から受け止める。
どちらの顔にも美しい微笑が張り付いていたが、その目だけは一切笑っていなかった。室内の温度が、一瞬にして氷点下まで下がったかのような錯覚さえ覚える。
しばらくして、沈黙の重みに耐えかねたように未散が席を立った。
「……また参りますわ」
「ええ、いつでもどうぞ」
重々しい音を立てて襖が閉まる。
その気配が完全に遠ざかるのを待って、花梨は長く溜め込んでいた息を深く吐き出した。
隣に控えていた紬が、恐る恐る、顔色を窺うように声をかけてくる。
「……花梨様、大丈夫でございますか」
「大丈夫よ。このくらい、どうということはないわ」
「あの……先ほど、少しだけ聞こえてしまったのですが」
「何が?」
「その……『うるさい年増』と、仰っていませんでしたか……?」
花梨は少しの間、無言のまま手元の文に目を落とした。
「……聞こえていたの?」
「はい」
「あなただけかしら」
「……おそらく、私だけかと存じます」
「そう」
花梨は文を手に取ると、いたずらが成功した子供のような目を一瞬だけ覗かせた。
「今の言葉は、初めから聞かなかったことにしてちょうだいね」
「……かしこまりました」
紬が深く頭を下げる。
花梨は何事もなかったかのように再び文へ視線を戻したが、その瞳には、宮廷の荒波をどこまでも戦い抜く強い光が宿っていた。




