第三話 舞姫、泣く
川べりから屋敷へと戻ると、静まり返った奥殿の闇からひょっこりと刹那が這い出てきた。
着物の裾を片手で無造作に直しながら、大きな欠伸をあからさまにかみ殺している。
緊張感の欠片もない、ずいぶんとくつろいだ様子だった。
「お帰り」
あまりの警戒心のなさに、桜桃は毒気を抜かれたように立ち止まった。
「……今までどこで寝てたの?」
「縁側。この時期は夜になると、いい風が入ってくるからな」
「縁側で寝てたの?」
「悪いか」
悪い、とは言いにくいほど堂々とした顔をしていた。桜桃は呆れ半分に小さく息を吐いた。
「ごめんね。ずっとバタバタしていて、なかなかゆっくり時間を取ってあげられなくて」
「別に気にしてねぇよ。飯は毎日ちゃんと食わせてもらってるしな」
「それはよかったわ」
「なぁ、ここ、やたらと飯がうまい邸だな」
「清明様が手配してくださっているのよ」
「へぇ、至れり尽くせりじゃねぇか。これなら毎日泊まりに来てもいいな」
「毎日は困る」
刹那は悪戯っぽく笑った。それにつられて、桜桃の強張っていた頬も少しだけ緩む。
二人は示し合わせたわけでもなく、そのまま縁側に並んで腰を下ろした。
手すりの向こうの夜の庭には、満開の桜の花びらがまだ名残惜しそうに舞っている。
しばらくの間、心地よい沈黙が二人の間を流れた。
「朝凪は?」
ふと、刹那が静かに口を開いた。
「宮廷に忘れ物をしたみたいで、私をここに送り届けてくれたあと、宮廷へ取りに行ったわ」
「ふぅん……」
刹那は生返事をしながら、さりげなく桜桃の横顔を見つめた。そして、その瞳に宿る陰りに気づいた瞬間、先ほどまでの軽い笑みをかすかに引っ込めた。
刹那は桜桃が持って帰ってきた灯籠に目を落とし、静かに問うた。
「流さなかったのか」
「……流せなかったの」
「そうか。だったら、流せるまで置いとけばいい」
刹那の声があまりにも優しくて、胸の奥につかえていたものがほんの少しだけほどけた。
目の前の、真っ直ぐな目をした刹那に心の拠り所を求めてしまいたくなる。
「……私だけ生き残っちゃったから……」
そう呟くと、胸がぎゅっと詰まったようになって、視界が少しだけ滲んだ。
朝凪も、灯籠を流せなかったと言っていた。彼が負った傷も、一年経った今でもまだ昇華しきれてはいない。
あの日失ったものはあまりにも多すぎる。
父や六花、他の皇族や近衛たち。
日向も朝凪も――誰もが、自分の選択を、自分の無力を責めている。だからこそ桜桃は、彼らの前では弱音一つ吐けずにいた。
目に涙を溜めた桜桃の頭を、刹那はそっと撫でた。
「朝凪の許嫁も……私のせいで死んじゃったの」
その告白に、刹那の手が止まった。
桜桃は涙を堪えるように唇を噛み締める。
「日向は『生きなさい』って言ってくれたのに……私は、まだこんなことばかり考えてる」
小さな肩が、激しく震えた。
「あの子の分まで強く生きなきゃいけないって、頭では分かってるのに……灯籠ひとつ、流すこともできなくて……」
途切れた声の隙間から、ぽろぽろと涙だけが零れ落ちる。
刹那は泣き続ける桜桃の頭を、拒むことなく、ただもう一度ゆっくりと優しく撫でた。
「……一年、よく頑張ったな」
その声はどこまでも静かで、凍てついた心をそっと溶かすように穏やかだった。
「泣きたい時くらい、泣け」
「……本当にこれでよかったのかなって、今でも怖くなるの。誰も彼も護れなくて、みんなに背負わせて、私だけが生き残って……これで、いいはずないのに」
震える声で紡いだ弱音を、刹那は遮ることも否定することもなく、ただ静かに聞いていた。
それから、困ったような、けれど痛いほど優しい笑みを浮かべて、そっと桜桃の頭を引き寄せる。
「いいわけないだろ」
「……え」
「お前が平気な顔で『これでいい』なんて言えないことくらいわかってる。……でも、悔しくて、情けなくて、夜も眠れないくらいなら、もう十分だろ」
大きな手のひらが、乱暴にならないよう気遣うように、ふわりと髪を撫でる。
「全部一人で抱え込んでんなよ。お前が泣くときは、俺が聞いてやるし、いくらでも付き合ってやるからさ」
「……ずるい、そんなこと言われたら、また……」
涙で滲んだ視界の向こうで、刹那が「ほら、泣くなよ」と小さく笑った。
その温もりに触れていると、硬くなっていた心がゆっくりとほどけていくのだった。
ひとしきり泣いたあと、桜桃が顔を上げると、刹那は変わらず穏やかな瞳で見つめてくれていた。
赤くなった顔を自覚し、少しだけ気恥ずかしくなる。
「……泣き止んだか? ……って、その顔はまだなんか言いたげだな」
ふっと茶化すような、けれどどこか優しい言い方に、桜桃は思わず小さく笑みをこぼした。
「……あのね、刹那」
「ん?」
「朝凪の許嫁が亡くなって…………そのあと、朝凪は椎香様と将来を誓い合ったらしいの」
「……ええっ!?」
刹那が素っ頓狂な声を上げた。桜桃は驚いて、思わず身を引いた。
「な、何?」
「朝凪が? 椎香って奴と? 将来を誓い合った?」
「そうなの。……でも、椎香様も疾風様と結婚しちゃって……」
「いや、ちょ……待て待て。情報量が多い。……誰が言ってたんだよ、そんなこと」
「花梨様よ。椎香様も朝凪も、何だか様子がおかしかったし……」
「……あいつが?」
刹那はしばらく口を開けたまま固まっていたが、やがて額に手を当てた。
「……俺の知らねぇ間に、あいつ何やってんだよ」
「刹那も知らなかったの?」
「知るわけねぇだろ。許嫁がいたって話だって、この前初めて聞いたんだぞ」
「そうだったわね……」
桜桃は小さく息を吐き、膝の上で指を重ねた。
「朝凪には、いつか幸せになってほしいのだけれど……」
「……ああ、うん」
刹那は何とも言えない顔で頷いた。
「……よし。あとで本人に聞く」
「……そうしてあげて」
「おう。きっちり聞いてやる」
妙に力のこもった返事に、桜桃は不思議そうに首を傾げた。
刹那はそんな彼女を眺め、深々と息を吐いた。
「……で、まだ何かあるんだろ?」
「え?」
「さっきから、何か言いたそうな顔してるぞ」
桜桃は少し迷ったあと、視線を自分の膝の上へと落とした。
「ねえ、刹那。……もしもね、大切な人や、信じたいと思っている人の『良くない噂』を聞いてしまったらどうする?」
「良くない噂?」
「ええ。とても残酷で、できれば信じたくないようなこと……。もしもそれが本当だったら、その人のことを今まで通りには見られなくなってしまうかもしれない。そんな、恐ろしい噂よ」
春の冷たい夜風が、二人の間をすり抜けるように通り過ぎていく。
刹那はしばらくの間、夜の庭を見つめて沈黙していたが、やがて鼻で小さく笑った。
「そんなの、本人に直接『本当か?』って訊くだけだろ。……って言いたいところだけど、それができないから、今そんな死にそうな顔してんだよな、お前」
桜桃は否定もできず、小さく、頼りなく頷いた。
昊夜にただでさえ正体を怪しまれているのに、そんなことを尋ねるなどできそうもない。
刹那は少しだけ、そのぶっきらぼうな声を柔らかくした。
「いいか、姫。噂なんてものはな、誰かが自分に都合のいいように流す、ただの『声』に過ぎねぇんだよ。戦場じゃ、敵を油断させるためだの、身内を陥れるためだの、毎日嫌ってほどそんな雑音が飛び交ってたぜ。だから俺は、自分の目で見たものしか信じないことにしてる」
「自分の目で、見たもの……」
「そう。噂がどうとかじゃなくてさ、お前の傍にいるそいつが、今までお前にどんな目を向けてた? どんな風に、お前の前に立って守ろうとしてた? 誰が流したかも分からねぇ噂の言葉なんかより、そっちの記憶の方が何百倍も本物だろ」
刹那の言葉は、粗削りながらも確かな芯を持っていた。それが、冷え切っていた桜桃の心に、じわりと温かく染み込んでいく。
「……そうよね」
「ああ。どうしても怖くて動けねぇなら俺が代わりにその噂、調べてきてやるよ」
刹那は少しだけ身を屈め、下から覗き込むようにして、悪戯っぽく不敵に笑ってみせた。
その軽妙で、けれどひたすらに心強い優しさに、桜桃の顔にようやく笑顔が戻った。
ふと庭に目を向けると、満開の桜が舞っていた。
「そういえば、刹那はいつまでここに滞在するつもりなの?」
「うーん。しばらく、かな」
「しばらくって、どれくらい?」
「さあな」
「武州動乱の後因州に帰ったと思ったら、またすぐに来て。何しに来たの」
「彪に行けって言われた」
桜桃が振り返る。
「彪様に?」
「ああ。殿から、何か頼まれたらしい」
「日向が?」
刹那が不思議そうに眉を上げた。
「ん? 殿って、お前の父親だろ。暁のおっさんが言ってたけど」
「えっ」
桜桃は一瞬、言葉に詰まった。
そうだった。六花は、日向の娘なのだ。
分かっていたはずなのに、これまで一度として、その人を父と呼んだことはない。
「……あ、お父様が?」
口にした途端、なんだか気恥ずかしくなった。
刹那が何とも言えない顔をする。
「……なんでお前が照れてんだよ」
「照れてないわよ」
「いや、照れてるだろ」
「そ、それより、お父様は彪様に何を頼んだの?」
桜桃は強引に話を戻した。
「『六花のことで』って言ってたらしい。俺もそれ以上は知らねえよ」
「私のことで、刹那をここに来させるように言ったの?」
「たぶんな。詳しくは本人に聞いてくれ」
桜桃は少し考え込んだが、日向が素直に教えてくれる姿がまるで想像できず、小さく息を吐いた。
「……そうするわ」
「ああ。俺を間に挟むな」
刹那はそう言ってから、ふと思い出したように空を見上げた。
「そういや、琥珀も帝都に来たがってたよな」
「そうね」
「琥珀、年が明けてしばらくした頃に因州を出たらしい」
桜桃は眉を寄せた。
「ひとりで?……大丈夫なの?」
「俺も気になって彪に聞いたんだけどな。『あいつが決めたことだ』って」
「……彪様がそう仰るなら、大丈夫なのよね」
「たぶんな」
「夢を叶えられたのかしら」
「そうかもな」
刹那は苦笑した。
「まあ、元気にしてるだろ」
庭に、また気まぐれな風が吹き抜けた。
淡い光を吸い込んだ桜の花びらが、二人の視線の先で、静かな夜の中をゆっくりと流れていった。




