第二話 皇子、近いと指摘される
川べりから離れた暗がりに、桜桃たちは移動していた。
ここからでも、まだ川の様子は視界に捉えられる。灯篭の赤子のような火が、ぽつぽつと帯をなして流れていく。
どんなに遠くなっても、その小さな光は決して消えなかった。そのひたむきな輝きを、彼女はもう少しだけ見つめていたかった。
「先に戻ってて」
隣に佇む朝凪に、そう声をかけた。
朝凪はすぐには動かず、躊躇う気配を見せる。
「……こんな夜更けに、お一人でいるのは」
「すぐ戻るわ。本当に、もう少しだけだから」
「危険です」
「見えるところにいるから大丈夫よ」
それでも朝凪は動かない。その頑なな沈黙に、桜桃は重ねて声を絞り出した。
「朝凪、お願い。少しだけ、一人にして」
長い、引き延ばされたような間があった。
「……五十数えたら、迎えに来ます」
「百にして」
「七十です」
「……分かったわ」
妥協案を示すと、朝凪の気配がゆっくりと闇の向こうへ遠ざかっていった。
一人残された桜桃は、再び川面へと視線を戻した。
灯篭の火が、ひとつ、またひとつと視界の端へ消えていく。
静寂が戻ると同時に、あの禍々しい噂が、また頭の底から這い上がってきた。
『謀反の夜――帝を手にかけたのは、昊夜ではないか』
必死に頭を振って打ち消そうとする。けれど、一度こびりついた疑念は消えてくれない。
あの夜のことは、あまりの恐怖と混乱で記憶がひどく混濁していた。ひたすらに暗く、恐ろしかったことしか思い出せない。
ただ――あの血の海のなかで、凍りつくような冷たい瞳を見た気がするのだ。
それが誰の目だったのかは、暗闇のせいで今も確かめようがない。なのに、あの執拗な眼光だけが夢に出てくる。何度も、何度も。
そしてその残像は、ときおり昊夜が見せる冷徹な瞳と、恐ろしいほどによく似ていた。
似ていただけかもしれない。そう自分に言い聞かせるが、確証はどこにもなかった。
「六花」
不意に、背後から声をかけられた。
驚いて振り返ると、いつの間にかそこに昊夜が立っていた。
「……昊夜様」
「一人か」
「ええ……少しだけ、灯篭の火を見ていたくて」
昊夜はそれ以上、理由を問い詰めようとはしなかった。
桜桃はいたたまれなくなり、きまずさを隠すように川の方へ向き直った。
今の彼女には、昊夜の顔をまともに直視する勇気がなかった。
前帝殺しの噂――その不穏な言葉が脳裏をよぎるたび、心が凍りつくように冷たくなっていく。
「……もう、戻ります」
耐えきれず、逃げるように踵を返した。
「六花」
背後から、重い声が降ってきた。その響きに射すくめられ、足が止まる。
「避けているのか、私を」
桜桃は唇を噛み締め、答えることができなかった。
「六花」
「……避けてなど、いません」
「相変わらず、嘘が下手だな」
一歩、衣服を擦れさせて彼が近づく足音がした。
それだけで心臓が跳ね上がる。桜桃は恐怖に急き立てられるように、たまらず早足で歩き出した。
「おい」
背中にかかる追手を振り切り、焦りから半ば無我夢中で角を曲がった。だが、曲がった先は不運にも行き止まりの石壁だった。
しまった、と振り返った瞬間には、すでに遅かった。目の前に漆黒の影が立ちはだかる。
ドン、と重い鈍い音が夜の空気に響いた。
桜桃の頭のすぐ横の壁に、昊夜の右手が容赦なく突かれる。完璧な包囲だった。
彼の大きな体躯に視界を完全に遮られ、桜桃の目に入る世界は、一瞬にして彼の姿だけで満たされる。
至近距離で見下ろす昊夜の瞳には、怒りと焦燥、そしてかすかな安堵が入り交じっていた。
その圧に息を詰まらせながらも、桜桃は隙をついて彼の左側へと身体を滑り込ませた。――だが、それすらも織り込み済みだったかのように、次の瞬間。
今度は桜桃の左側――塞がれていないと思われた空間の壁に、彼の左手が突き出され、逃げ道を完全に封鎖する。
桜桃は、右と左、両側から壁を叩きつけるような腕の中に閉じ込められ、逃げ場を完全に失った。
「っ――」
「逃げるな」
静かな声だった。決して感情を剥き出しにして怒っているわけではない。だからこそ、逃げ場のない圧倒的な威圧感が、壁との狭間に閉じ込められた桜桃へ容赦なくのしかかってくる。
桜桃は浅い呼吸を繰り返しながら、恐る恐る昊夜を見上げた。彼の端正な眉が、わずかに中央に寄せられている。
「……何か聞いたか」
「……噂なら、少し」
「それを信じたか」
「信じて、いません」
「だが、怖いか」
「……」
痛いところを突かれ、桜桃は言葉に詰まった。
「私の顔を見て逃げ出すということは、何かしら胸に思うところがあるのだろう」
桜桃はいたたまれなさに、そっと視線を逸らした。昊夜はそれ以上彼女を追及することはせず、ただ静かに見下ろしていた。
沈黙が二人の間に落ちる。
「ところで」
不意に、昊夜が声音を変えた。
「さっき、朝凪がお前に何と言っていた」
予想外の問いに、桜桃の身体が固まる。
「……何か、言いましたか」
「『姫様』、と言っていたな」
「聞き間違いです」
「私の耳は、人より良い方だが」
「それでも、聞き間違えることくらいあります」
昊夜は値踏みするような目で桜桃を見つめ、桜桃も負けじと彼を見返した。
「……私は以前、朝凪と一緒に皇女様にお仕えしていたんです。その頃の昔話をしていただけです。聞き間違いです」
「……」
「本当に、それだけのことです」
「そうか」
昊夜の目が、細められた。
信じているのか、それとも嘘を見抜いているのか、まったく読めない瞳だった。それでも桜桃は、頑なに視線を逸らさなかった。
やがて、昊夜はふっと壁から手を離した。捕縛を解くように、一歩、潔く身を退く。
「お前は、近づいてきたかと思えばこうして逃げ出す」
静かな、けれどどこか呆れたような、あるいは愛おしむような声だった。
「まるで猫みたいなやつだな」
桜桃は予想もしなかった例えに、少し間を置いた。
「……猫?」
「そうだ」
生まれて初めて言われた言葉だった。自分がそんなふうに思われていたなど、考えたこともなかった。
気づけば、昊夜の表情は驚くほど穏やかになっていた。
いつもの刺すような鋭さが綺麗に薄れて、どこか全く違う人のようにすら見える。
桜桃はその端正な顔を見つめたまま、不覚にも胸が跳ねて、動けなくなってしまった。
「逃げるな。私から」
それは命令ではなかった。
責めるような響きも一切ない。ただ、本音をそのまま素直に口にしたような、どこか甘やかな響きをはらんでいた。
桜桃は一気に顔が熱くなるのを感じながら、潤んだ目で昊夜を見た。昊夜もまた、彼女を真っ直ぐに見つめ返している。
張り詰めた空気が色を変え、彼女が何かを言いかけた、そのときだった。
「六花」
背後から、朝凪の声が飛んできた。
角の向こうから、普段の冷静さを欠いた足早さで現れた。
彼は桜桃の無事を確かめるように目を走らせ、それから、眼前の昊夜に冷ややかな視線を移した。
壁と、桜桃と、昊夜。その不自然な距離感を、朝凪は一瞬で推し量った。
朝凪は躊躇うことなく、桜桃と昊夜の間にすっと身体を割り込ませた。
そして桜桃を背後に隠すようにして、昊夜から引き離す。一切の迷いがない、流れるような自然な動作だった。
昊夜は眉を動かし、不快感を露わにする。
「……朝凪」
「お前は、いつも距離が近すぎる」
朝凪が、静かに言い放った。
遮られた桜桃は、少し目を丸くする。
昊夜もまた、一瞬だけ意表を突かれたように目を見開いた。
「……私が、近いというのか」
「近い」
「お前に言われたくないな」
「私は日向殿から娘を頼まれている。お前が公私のわきまえもなく無闇に近づくのとは、訳が違う」
「同じようなものだろ」
「違う」
二人は至近距離で、火花を散らすように静かに見合った。
やがて、昊夜がふっと退屈そうに目を逸らした。
「……まあいい」
そのまま綺麗に踵を返す。
数歩歩いてから、振り返ることもせずに言った。
「七十数えたら来ると言ったんじゃなかったのか」
「五十で来た」
昊夜はそれ以上何も言い返さなかった。
そのまま、深く澱んだ夜の闇の中へ消えていった。
しばらくして、朝凪が心配そうに桜桃を見下ろした。
「大丈夫ですか」
「……ええ」
「何か、妙なことでも言われましたか」
「色々よ。……猫みたい、とか」
「猫、ですか」
「うん」
朝凪は少し間を置いた。
「昊夜は、とにかく距離が近い」
「……そうね、確かに」
「気をつけてください」
「何に?」
朝凪はそれには答えず、静かに視線を落とした。
「……色々と、です」
桜桃は、彼の端正な横顔をじっと見つめた。何かを言いかけて、けれど言葉を呑み込んだような、そんな切ない陰りがそこにはあった。
「朝凪……ありがとう」
朝凪は桜桃を見つめ、それから、安心させるように小さく頷いた。
「行きましょう」
去り際、もう一度だけ川の方を振り返ると、灯篭の火はまだ静かに流れ続けていた。
どんなに遠く、小さくなっても、その光が途絶えることはなかった。




