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狂桜華《きょうおうか》~亡国の姫は、名を捨て帝を目指す~  作者: 澪
第五章 偽りの花嫁【異郷婚姻編】

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第二話 皇子、近いと指摘される

 川べりから離れた暗がりに、桜桃たちは移動していた。


 ここからでも、まだ川の様子は視界に捉えられる。灯篭の赤子のような火が、ぽつぽつと帯をなして流れていく。


 どんなに遠くなっても、その小さな光は決して消えなかった。そのひたむきな輝きを、彼女はもう少しだけ見つめていたかった。


「先に戻ってて」


 隣に佇む朝凪に、そう声をかけた。

 朝凪はすぐには動かず、躊躇う気配を見せる。


「……こんな夜更けに、お一人でいるのは」


「すぐ戻るわ。本当に、もう少しだけだから」


「危険です」


「見えるところにいるから大丈夫よ」


 それでも朝凪は動かない。その頑なな沈黙に、桜桃は重ねて声を絞り出した。


「朝凪、お願い。少しだけ、一人にして」


 長い、引き延ばされたような間があった。


「……五十数えたら、迎えに来ます」


「百にして」


「七十です」


「……分かったわ」


 妥協案を示すと、朝凪の気配がゆっくりと闇の向こうへ遠ざかっていった。


 一人残された桜桃は、再び川面へと視線を戻した。

灯篭の火が、ひとつ、またひとつと視界の端へ消えていく。


 静寂が戻ると同時に、あの禍々しい噂が、また頭の底から這い上がってきた。


『謀反の夜――帝を手にかけたのは、昊夜ではないか』


 必死に頭を振って打ち消そうとする。けれど、一度こびりついた疑念は消えてくれない。


 あの夜のことは、あまりの恐怖と混乱で記憶がひどく混濁していた。ひたすらに暗く、恐ろしかったことしか思い出せない。


 ただ――あの血の海のなかで、凍りつくような冷たい瞳を見た気がするのだ。


 それが誰の目だったのかは、暗闇のせいで今も確かめようがない。なのに、あの執拗な眼光だけが夢に出てくる。何度も、何度も。


 そしてその残像は、ときおり昊夜が見せる冷徹な瞳と、恐ろしいほどによく似ていた。


 似ていただけかもしれない。そう自分に言い聞かせるが、確証はどこにもなかった。


「六花」


 不意に、背後から声をかけられた。


 驚いて振り返ると、いつの間にかそこに昊夜が立っていた。


「……昊夜様」


「一人か」


「ええ……少しだけ、灯篭の火を見ていたくて」


 昊夜はそれ以上、理由を問い詰めようとはしなかった。


 桜桃はいたたまれなくなり、きまずさを隠すように川の方へ向き直った。


 今の彼女には、昊夜の顔をまともに直視する勇気がなかった。

 前帝殺しの噂――その不穏な言葉が脳裏をよぎるたび、心が凍りつくように冷たくなっていく。


「……もう、戻ります」


 耐えきれず、逃げるように踵を返した。


「六花」


 背後から、重い声が降ってきた。その響きに射すくめられ、足が止まる。


「避けているのか、私を」


 桜桃は唇を噛み締め、答えることができなかった。


「六花」


「……避けてなど、いません」


「相変わらず、嘘が下手だな」


 一歩、衣服を擦れさせて彼が近づく足音がした。

それだけで心臓が跳ね上がる。桜桃は恐怖に急き立てられるように、たまらず早足で歩き出した。


「おい」


 背中にかかる追手を振り切り、焦りから半ば無我夢中で角を曲がった。だが、曲がった先は不運にも行き止まりの石壁だった。


 しまった、と振り返った瞬間には、すでに遅かった。目の前に漆黒の影が立ちはだかる。


 ドン、と重い鈍い音が夜の空気に響いた。


 桜桃の頭のすぐ横の壁に、昊夜の右手が容赦なく突かれる。完璧な包囲だった。


 彼の大きな体躯に視界を完全に遮られ、桜桃の目に入る世界は、一瞬にして彼の姿だけで満たされる。


 至近距離で見下ろす昊夜の瞳には、怒りと焦燥、そしてかすかな安堵が入り交じっていた。


 その圧に息を詰まらせながらも、桜桃は隙をついて彼の左側へと身体を滑り込ませた。――だが、それすらも織り込み済みだったかのように、次の瞬間。


 今度は桜桃の左側――塞がれていないと思われた空間の壁に、彼の左手が突き出され、逃げ道を完全に封鎖する。

 

 桜桃は、右と左、両側から壁を叩きつけるような腕の中に閉じ込められ、逃げ場を完全に失った。


「っ――」


「逃げるな」


 静かな声だった。決して感情を剥き出しにして怒っているわけではない。だからこそ、逃げ場のない圧倒的な威圧感が、壁との狭間に閉じ込められた桜桃へ容赦なくのしかかってくる。


 桜桃は浅い呼吸を繰り返しながら、恐る恐る昊夜を見上げた。彼の端正な眉が、わずかに中央に寄せられている。


「……何か聞いたか」


「……噂なら、少し」


「それを信じたか」


「信じて、いません」


「だが、怖いか」


「……」


 痛いところを突かれ、桜桃は言葉に詰まった。


「私の顔を見て逃げ出すということは、何かしら胸に思うところがあるのだろう」


 桜桃はいたたまれなさに、そっと視線を逸らした。昊夜はそれ以上彼女を追及することはせず、ただ静かに見下ろしていた。


 沈黙が二人の間に落ちる。


「ところで」


 不意に、昊夜が声音を変えた。


「さっき、朝凪がお前に何と言っていた」


 予想外の問いに、桜桃の身体が固まる。


「……何か、言いましたか」


「『姫様』、と言っていたな」


「聞き間違いです」


「私の耳は、人より良い方だが」


「それでも、聞き間違えることくらいあります」


 昊夜は値踏みするような目で桜桃を見つめ、桜桃も負けじと彼を見返した。


「……私は以前、朝凪と一緒に皇女様にお仕えしていたんです。その頃の昔話をしていただけです。聞き間違いです」


「……」


「本当に、それだけのことです」


「そうか」


 昊夜の目が、細められた。


 信じているのか、それとも嘘を見抜いているのか、まったく読めない瞳だった。それでも桜桃は、頑なに視線を逸らさなかった。


 やがて、昊夜はふっと壁から手を離した。捕縛を解くように、一歩、潔く身を退く。


「お前は、近づいてきたかと思えばこうして逃げ出す」


 静かな、けれどどこか呆れたような、あるいは愛おしむような声だった。


「まるで猫みたいなやつだな」


 桜桃は予想もしなかった例えに、少し間を置いた。


「……猫?」


「そうだ」


 生まれて初めて言われた言葉だった。自分がそんなふうに思われていたなど、考えたこともなかった。


 気づけば、昊夜の表情は驚くほど穏やかになっていた。


 いつもの刺すような鋭さが綺麗に薄れて、どこか全く違う人のようにすら見える。

 

 桜桃はその端正な顔を見つめたまま、不覚にも胸が跳ねて、動けなくなってしまった。


「逃げるな。私から」


 それは命令ではなかった。


 責めるような響きも一切ない。ただ、本音をそのまま素直に口にしたような、どこか甘やかな響きをはらんでいた。


 桜桃は一気に顔が熱くなるのを感じながら、潤んだ目で昊夜を見た。昊夜もまた、彼女を真っ直ぐに見つめ返している。


 張り詰めた空気が色を変え、彼女が何かを言いかけた、そのときだった。


「六花」


 背後から、朝凪の声が飛んできた。


 角の向こうから、普段の冷静さを欠いた足早さで現れた。


 彼は桜桃の無事を確かめるように目を走らせ、それから、眼前の昊夜に冷ややかな視線を移した。


 壁と、桜桃と、昊夜。その不自然な距離感を、朝凪は一瞬で推し量った。


 朝凪は躊躇うことなく、桜桃と昊夜の間にすっと身体を割り込ませた。


 そして桜桃を背後に隠すようにして、昊夜から引き離す。一切の迷いがない、流れるような自然な動作だった。


 昊夜は眉を動かし、不快感を露わにする。


「……朝凪」


「お前は、いつも距離が近すぎる」


 朝凪が、静かに言い放った。


 遮られた桜桃は、少し目を丸くする。


 昊夜もまた、一瞬だけ意表を突かれたように目を見開いた。


「……私が、近いというのか」


「近い」


「お前に言われたくないな」


「私は日向殿から娘を頼まれている。お前が公私のわきまえもなく無闇に近づくのとは、訳が違う」


「同じようなものだろ」


「違う」


 二人は至近距離で、火花を散らすように静かに見合った。


 やがて、昊夜がふっと退屈そうに目を逸らした。


「……まあいい」


 そのまま綺麗に踵を返す。


 数歩歩いてから、振り返ることもせずに言った。


「七十数えたら来ると言ったんじゃなかったのか」


「五十で来た」


 昊夜はそれ以上何も言い返さなかった。


 そのまま、深く澱んだ夜の闇の中へ消えていった。


 しばらくして、朝凪が心配そうに桜桃を見下ろした。


「大丈夫ですか」


「……ええ」


「何か、妙なことでも言われましたか」


「色々よ。……猫みたい、とか」


「猫、ですか」


「うん」


 朝凪は少し間を置いた。


「昊夜は、とにかく距離が近い」


「……そうね、確かに」


「気をつけてください」


「何に?」


 朝凪はそれには答えず、静かに視線を落とした。


「……色々と、です」


 桜桃は、彼の端正な横顔をじっと見つめた。何かを言いかけて、けれど言葉を呑み込んだような、そんな切ない陰りがそこにはあった。


「朝凪……ありがとう」


 朝凪は桜桃を見つめ、それから、安心させるように小さく頷いた。


「行きましょう」


 去り際、もう一度だけ川の方を振り返ると、灯篭の火はまだ静かに流れ続けていた。


 どんなに遠く、小さくなっても、その光が途絶えることはなかった。



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