第一話 舞姫、流せない
春が来ていた。
あの凄惨な謀反から、一年。
いつしか人々は、あの一夜を「八重御所の変」と呼ぶようになっていた。
一周忌を迎えるこの夜、帝都を流れる川には、ひとつ、またひとつと小さな灯籠が浮かべられていた。
誰が始めたのかは分からない。
あの夜に失われた命を悼み、せめてその魂が迷わず行けるようにと、誰かが灯した光だった。
初めは数えるほどだったという。
それがいつしか十となり、百となり、今では川面を埋め尽くすほどの光となって、静かに帝都の川を流れている。
桜桃はその無数の小さな光を、ただじっと見つめていた。
六花。父。亡くなった皇族や近衛。
あの夜に命を落とした多くの者たちの光。
夜の揺らぎに身を任せ、遠ざかりながら、やがて淡い光の粒となって暗い夜の川へと溶けていった。
春の夜風が吹き抜ける。
その風に乗って、満開の桜の花びらが川面へ舞い降りていく。灯篭の灯りに下から照らされた花びらは、白く、淡く、幻のように静かに流れていった。
桜桃は、冷たい川風が吹きつける岸辺に佇んでいた。
その手の中には、まだ小さな灯篭がひとつ、取り残されたように収まっている。
火は灯っているものの、彼女にはどうしてもそれを水面に放つ気になれなかった。流してしまえば、何かが本当に失われてしまうような気がしたのだ。
押し寄せていた人波が、少しだけ途切れた頃。背後に、気配がした。
振り返らなくても、誰だか分かった。
「……来てたの」
「ええ」
いつの間にか、朝凪が隣に並んでいた。
なぜここがわかったのか、それを問う必要はなかった。いつものことだった。
二人はそれ以上言葉を交わさず、黙って川面を見つめた。
ひとつの灯篭が、不意の風に押されてゆっくりと向きを変える。
そして、再び川の流れに乗り直すと、また遠ざかっていった。
「……一年、経ったわね」
「……ええ」
ゆらゆらと揺れる川面の光が、二人の横顔を微かに照らし出している。
「朝凪は、誰の光を流したの」
朝凪はすぐには答えず、少しの間を置いた。
「……私は、まだ流せていません」
「どうして」
「流してしまったら、すべてが終わるような気がして」
短い沈黙が、二人の間に降りる。
桜桃は、隣に立つ朝凪の横顔を盗み見た。いつも通り穏やかで、静かで隙のない顔。
けれど今夜だけは――その奥にあるものが、ほんの少しだけ透けて見えた気がした。
桜桃は諦めたように、また前を向く。
「……私も、同じ」
それだけをぽつりと言い残し、また口を閉じた。
風が吹き抜け、花びらが再び夜空に舞う。
朝凪が静かに言った。
「……武州の件、責任を取った者が出ました」
「……そう」
桜桃は川面を見たまま、答えた。
「誰?」
「民部省で徴収基準に関わっていた官吏です。すでに職を解かれたそうです」
「それで終わり?」
「兵の配置との繋がりは確認できなかったと」
桜桃はしばらく黙っていた。
「誰が調べたの?」
「文書については中務省です。雲英殿から報告が上がっています」
「雲英様……」
桜桃は小さくその名を繰り返した。
何かが、胸の奥に引っかかった。
民部省の官吏が職を解かれて、この案件は終わった。
この構図は以前もあった気がする。
あれは……因州の水路のとき。
「……飛燕様の時も、そうだったわね」
桜桃が朝凪を見る。
「あの人も、すべての責任を負わされて……最後には殺された」
川面を渡る風が、桜桃の髪を揺らした。
ふと、あの日の光景が脳裏を過る。胸を射抜いた矢。崩れ落ちる身体。そして――その場にいた、自分と朝凪。
「そういえば、飛燕様を殺した者は……私たちのことも見ていたのかしら」
「おそらく」
朝凪はさほど気に留めた様子もなく答えた。
「暗殺を請け負った者でしょう。私たちが依頼の対象でなければ、顔を見られたところで手は出しません」
「……そういうものなの?」
「余計な人間まで殺せば、それだけ足がつきますから」
あまりにも淡々とした答えに、桜桃は少しだけ眉を寄せた。
「朝凪は、そういうことに詳しいのね」
「……仕事柄」
「どんな仕事よ」
朝凪は答えなかった。
桜桃は川に流れる灯籠に視線を移した。
(……雲英様が調べた方は何も出なかった)
何かが、胸に小さく引っかかった。
言葉にはできなかったが、ただ、引っかかりだけが残った。
しばらくして、桜桃は抑えきれない胸のざわめきを吐き出すように言った。
「……昊夜様が、お父様を殺したって、噂……聞いた?」
「……はい」
「本当なの?」
朝凪は少しだけ間を置き、感情の読めない声で返した。
「……まだ、分かりません」
桜桃は川を見つめたまま、白くなるほど唇を強く結んだ。
かすかに、声が震える。
「お父様が殺されたあの時。あの場に、昊夜様がいたかもしれないの。私……あの目を見た気がするの」
指先が、手の中の灯篭の縁をそっと強く握りしめる。
「何度も夢に出るの。何度も、何度も……。あの夜の暗い廊下。鼻を突く血の匂い。お父様の最後の声。そして――あの目」
それは、昊夜の持つあの鋭い瞳だった。
(どこかで、見たことがある)
ずっと、そう思いながらも、どうしても思い出せずにいた。
「私の思い違いかもしれない。暗かったし、混乱していたし。でも……」
こみ上げる熱いものを抑え込むように、ゆっくりと息を吐き出す。
「消えてくれないの。どうしても、あの目が頭から消えてくれない」
灯篭は、無情にも水面を流れ去っていく。
ふっと、風がやんだ。
行き場を失った花びらが、ゆっくりと川面へと落ちていく。
その時、朝凪が静かに手を動かした。
桜桃の、今にも折れそうな肩にそっと触れる。壊れ物を扱うかのように優しく、けれど確かにここにいると伝えるように。
「姫様」
包み込むような穏やかな声だった。
桜桃はそっと目を閉じた。
肩に触れる朝凪の手の温もりだけを、静かに求めていた。
二人はしばらくの間、そのままの姿勢でいた。
やがて、桜桃が静かに口を開いた。
「謀反のことでずっと気になっていたことがあるの」
朝凪が、視線を動かして桜桃を見た。
「朝凪は知らないと思うけど、私、侍女として如月様の手伝いをしていた時期があったの」
「知っています」
「え?」
「いえ……続けてください」
朝凪の妙に確信に満ちた返答に一瞬戸惑いながらも、桜桃は続けた。
「如月様は謀反を調べていた。その資料の中に、奇妙なものを見たの」
「奇妙なもの、とは」
桜桃は、遠い記憶の糸を手繰り寄せるように目を伏せた。
「二つの異なる帳簿に、全く同じ人物の記録があったのよ」
「……同じ人物の、ですか」
「ええ。でも、その内容が矛盾していたの」
朝凪の目に鋭さが宿った。
「謀反が起きる少し前の日付だったわ。片方の帳簿には、その人物は地方の視察で不在だったと書いてある。なのに、もう片方には、その日、宮廷内で執務していたと記録されていたの」
「……」
「どちらかが嘘なのよね」
「そうですね」
「なぜそんな記録が残っているのか、分からなくて」
朝凪はしばらくの間、沈黙を守った。その間にも、灯篭がひとつ、またひとつと水の流れに乗って遠ざかっていく。
「……その帳簿がある場所は、分かりますか」
「書庫に戻したわ。棚の位置なら、今でも覚えてる。でも、確かめに行く機会がなくて」
桜桃は朝凪を真っ直ぐに見つめた。
「誰かが、あの謀反の前に、何か重大なことを隠そうとしていた気がしてならないの」
少しの間を置いてから、桜桃は声を潜めて続けた。
「閲覧制限がかかっていないといいのだけど」
「閲覧制限、ですか」
「ええ。謀反の後、未散様がいくつかの重要書物に閲覧制限をかけたらしいの」
朝凪は、静かに桜桃を見つめ返した。
「……皇后が」
「ええ」
どの本に制限がかかっているのか、正確なところは分からない。だが、あの謀反の後に、わざわざ皇后の手によって──。
言葉にはしなかった。だが、そのいくつかの符丁の一致が、桜桃の胸の中に冷たい澱のように引っかかっていた。
矛盾した記録、消された名前、そして未散の名――それらが、目に見えない何かで繋がっている予感がしてならなかった。
川は冷たく流れ続ける。灯篭は光を放ちながら流れ続ける。花びらは夜空を舞い続ける。
すべてが動き続けるその光景の中で、ただ二人だけが、時間を止めたように川面に流れゆく光を見つめていた。
***
少し離れた薄暗い川べりに、昊夜が佇んでいた。
六花がどこにいるか、千弦に尋ねたところ「川べりの方へ向かわれました」とだけ返答があった。その言葉だけを頼りに、ここまで足を運んだのだ。
川沿いに広がる人波をかき分けるように歩くうち、見知った後ろ姿が不意に視界に飛び込んできた。
昊夜の足が、ぴたりと止まる。
六花のすぐ隣に、朝凪がいた。
その手が、六花の華奢な肩にそっと触れている。
昊夜はその場から一歩も動かず、影に身を潜めた。
二人の会話は聞こえない。十分な距離があり、舞い散る花びらと人々のざわめきが間を遮っている。ただ、灯篭の光に浮かび上がるその親密な光景だけが、彼の目に焼き付いた。
二人は川を見つめている。並んで、静かに、まるで外界を拒絶するかのように。
そのとき、不意に風の向きが変わった。
川面を滑る夜風が二人の声を拾い、昊夜の耳元へ送り届ける。
「――姫様」
朝凪の声だった。
その一言が鼓膜を叩いた瞬間、昊夜は不審に眉をひそめた。
だが、再び激しく風が流れると、追うべき声は雑音の中に消えてしまった。
昊夜はしばらくの間、彫像のように動かなかった。
川面を埋める灯篭が、水面を揺らしながら無数に流れていく。その光に照らされた彼の瞳は、暗く、底が知れなかった。
やがて、彼は何事もなかったかのように静かに踵を返した。
三歩後ろの暗がりに、千弦が静かに控えていた。
「……昊夜様」
主の様子を窺うように千弦が声をかけるが、昊夜は何も語らなかった。
ただ、冷たい夜気を切り裂くように、再び歩き出す。
その峻烈な横顔の奥に何が隠されているのか、千弦には推し量ることもできなかった。
ただ――いつも冷静な主の背中が、今夜だけは、ほんの少し違って見えた。
***
更に少し離れた橋の上にも、別の男が立っていた。
欄干へ腕を預けることもなく、ただ黙って、川面を埋めて流れていく無数の光を見下ろしている。
その手に灯篭はない。用意しなかったのだ。
「……多すぎるだろ」
誰に聞かせるでもなく、日向は呟いた。
灯篭が一つで済むはずがない。
主君も、娘も、部下たちも、あの夜に置いてきた者はあまりにも多かった。
やがて日向は、川下へと視線を移した。
その先、人々の間に見慣れた白い衣が見えた。
その傍らには、赤みがかった髪の男が立っている。
日向はしばらく二人を見つめたあと、ほんのわずかに目を細めた。
「……お前もか、朝凪」
朝凪の手にも、灯籠はなかった。
日向は小さく息を吐くと、踵を返し、雑踏に溶け込んでいった。




