序 令嬢、嫁ぐ
冬はもう終わろうとしていた。
八重御所の中心に建つ紫宸殿からは、白い煙が細く、まっすぐに立ち上っていた。
厳かな香の匂いが、冷えた空気に淡く混じっている。
普段は帝への拝謁や皇家の大儀に用いられる殿舎も、今日ばかりはいつもと様子が違っていた。回廊のあちこちを官たちが慌ただしく行き来している。
それでも、誰も声を荒げる者はいない。せわしない足音も、重なる衣擦れの音も、みな一様に低く抑えられていた。その統制された沈黙が、かえってこれから始まる式の重さを際立たせていた。
婚礼の朝だった。
疾風は、冷気の満ちる回廊の端に身を置いていた。
式が始まるまで、まだ時間がある。
従者たちは細々とした準備に追われて周囲を動き回っていたが、張り詰めた面持ちの疾風を気遣ってか、誰も話しかけてはこない。
それでよかった。今はただ、一人で思考を沈めていたかった。
手すりの向こう、寒々とした庭に目を向ける。
張りつめた梢の先に、白梅が二、三輪だけ、ひっそりと花を咲かせていた。
冬の終わりに、咲く花だ。華やかさはない。ただ静かに、けれど確かにそこにある。
(椎香は、梅が好きだったか)
ふと頭をよぎった疑問は、すぐに確証を失って霧散する。
これまでの月日の中で、彼女の好きな花すら尋ねたことがなかった。
聞く機会などいくらでもあったはずなのに、そのときの自分は、彼女の何を見ていたのだろうか。
そんな些細な悔恨が今になって、妙に引っかかった。
背後で、衣服が擦れる微かな音がした。
振り返ると、控えていた従者が深く一礼して告げる。
「そろそろお時間でございます」
疾風は短くうなずき、息を深く吐き出した。
重い足取りで回廊を歩く。紫宸殿の重厚な扉が視界に入ると、その両脇に立ち並んでいた者たちが、一斉に深く頭を下げた。
静かに扉が開かれる。
室内には、すでに張り詰めた空気が満ちていた。
翠陰家の者たち、皇族側の者たち、そして中央に控える官たちが、それぞれ定められた位置に整然と並んでいる。
白く細い香の煙が、人々の間を薄く漂っていた。
その正面に、椎香がいた。
一切の穢れを排したような、純白の衣を纏っている。髪は隙なく丁寧に結い上げられ、小ぶりな簪がひとつだけ挿されていた。
その顔はまっすぐ前を向いている。少しの揺らぎも、迷いも見せない、酷なほどに端正な横顔だった。
疾風は一歩を踏み出し、彼女のもとへと歩いた。
その隣に並ぶ位置まで進み、足を止める。
気配を察したのか、椎香の視線が動いた。目が合う。ほんの一瞬、瞬きをするほどの短い時間だった。それから彼女は、何事もなかったかのようにまた前を向く。
その冷ややかな瞳の奥に何があったのか、今の疾風にはどうしても読み解くことができなかった。
怒っているわけではない。悲しみに沈んでいるわけでもない。ただ、どこか――途方もなく遠かった。
(俺の手では、届かないところにいる)
そう直感した。確信して、それでもなお、その隣に立っている自分がいる。
滑稽で、馬鹿みたいだ、と自嘲する。
だが、ここから逃げ出すつもりも、手を離すつもりもなかった。
やがて、宮内卿の赤楊が厳かに口を開く。
「これより、婚儀を執り行います」
澄んだ声が、静まり返った室内の隅々にまで染み渡っていく。
疾風は正面を見据えた。
椎香もまた、前を向いたままだ。
二人の間に、交わされる言葉はない。
ただ、同じ寒空の下で、同じ方向を向いて並んでいる。
それでも疾風は、今はただ隣に立つことしかできないのだと思った。
同じ場所に立ち、同じ方向を向いている。
今は、それだけでいい。
いつか彼女がこちらを向いてくれる日まで、待てばいいのだと――このときの疾風は、そう思っていた。
式が厳かに終わり、集まった人々が静かに散っていった後。
奥殿の片隅にある一室で、雲英は椎香と静かに向き合っていた。
遠くで響く宴の喧噪は、厚い壁に遮られてここまでは届かない。
「おめでとうございます」
雲英は声音を落とし、静かに祝福の言葉を口にした。
椎香はそれに応じるように微笑む。それは先ほどの婚礼の間で見せたものと同じ、寸分の狂いもない、完璧に形の整った貼り付けたような笑い方だった。
「ありがとうございます」
「疾風殿は、真っ直ぐで、良い方です」
「……ええ」
椎香の視線が、雲英から外れ、窓の外へと逃げる。皇居の庭に咲く白梅が、冷たい風に吹かれて小さく揺れていた。
雲英はその視線の先を、静かに見つめ返していた。
「椎香様、これからも、よろしくお願いいたします」
添えられた言葉はそれだけだった。
だが、椎香はその短い一言に込められた、目に見えない責任と選択の重さを誰よりも知っていた。
「……こちらこそ」
かすかに声を震わせ、短く答える。
雲英は満足したように一礼すると、足音を忍ばせて部屋を出ていった。
残された椎香はしばらくの間、閉ざされた扉をじっと見つめていた。
やがて、諦めたようにゆっくりと窓の方へ向き直る。
視線の先で、白梅がまた、寒風にしなるように揺れた。
(これでよかったのよ)
自分に言い聞かせるように、心の中で強く思う。
そう思いながらも、なぜか胸の奥の鉛のような重みは、いつまでも消えてはくれなかった。
***
朝議の間は、不穏な静けさに包まれていた。
進行役を務める民部卿の橘の声が、厳かに響く。
「武州動乱の件ですが」
橘が、机上の別の書状を取り上げた。
「民部省から蘇原へ下った徴収指示について、内部の調査が終わりました。基準の算定に関わった者についても、処分を済ませております」
清明が視線を上げる。
「結局、どこに問題があったのです」
「武州から上がった報告の精査が不十分なまま、担当の官吏が徴収基準を定めていました。監督にあたった者も含め、すでに職を解いております」
「兵の配置については」
橘はそこで、雲英へ視線を向けた。
文書の往来について調べていた中務省から報告を引き継ぐように、雲英が静かに口を開く。
「こちらも関係する記録を照合いたしました。西部街道の治安悪化を受けて配置を改めたものですが、報告を過大に受け取った形跡があります」
「徴税と兵の配置に、繋がりは?」
清明が問う。
「確認できませんでした」
雲英は穏やかに答えた。
「時期が重なったことは事実です。しかし、それ以上のものは残っておりません」
清明はしばらく黙っていた。
「……では、二つの判断が重なった結果、蘇原をあそこまで追い詰めたと」
「記録を見る限りでは」
雲英の声音に揺らぎはなかった。
橘が悔しげに眉を寄せる。
「民部省については、私の監督が至らなかったことも事実です。今後、地方から上がる報告の確認を改めます」
清明は小さく息を吐いた。
「分かりました。処分についてはそれで進めなさい」
「はい」
雲英も静かに頭を下げた。
「中務省でも、関連する記録は引き続き保管しておきます」
その件の議論は打ち切られ、議は次へと進んだ。
橘が再び、別の書状を取り出す。
「辺境より報せが届いております」
その一言で、室内の緊張が一段と増した。
「狄族の一部が、不穏な兵の動きを見せ始めているとのことです」
誰も、すぐには口を開かなかった。互いの出方を探るような沈黙が流れる。
清明は手にした扇を弄びながら、居並ぶ官たちの顔を静かに見渡した。
突然の凶報に動揺を隠せず目を見張る者、深く眉をひそめて事態の重さを測る者、関わりを避けるように視線を伏せる者。それぞれの思惑が、その表情に映し出されていた。
「規模は」
問いを投げかけたのは、暁だった。
「まだ正確には把握できておりません。辺境の郷司からの第一報であり、州司も現在は詳細を確認中とのことです」
「ただの水利を巡る小競り合いか、あるいは組織的な別の動きか」
「……そこまでは、まだ」
橘は言葉を濁した。これ以上の情報がないのだ。その歯切れの悪さだけで、事態の全容が未だ霧の向こうにあることが十分に伝わってきた。
清明は、手の中で扇をぱちりと心地よい音を立てて閉じた。その音が、場を支配していた微かな動揺を打ち消す。
「引き続き、現地からの情報を集めなさい。動くのは、事態の全容が見えてからで遅くはありません」
「承知いたしました」
橘が深く一礼する。
やがて、玉座に鎮座する帝・虚空が、重い口を開いた。短く、しかし拒絶を許さない響きを伴って。
「調べよ」
絶対の一言によって、議はそのまま、次の議題へ移っていった。
***
「謀反の夜、帝を手にかけたのは昊夜殿下ではないか」
そのような噂が宮廷を覆ったのは、まもなくのことだった。
火種が誰の手によるものか、それを知る者はいない。
だが、噂はまるで澱んだ空気そのものに溶け込むように、急速に侵食を広げていった。
花梨はあてもなく回廊を歩いていた。
昨日も、今日も、同じ場所を行き来する。宮廷の深部で耳にする悪意ある囁きが、胸に棘のように刺さる。
(真実は、どこにあるの)
そう自問し、歩を早める。向かうべき先がどこなのか、答えはまだ見つからない。
それでも、ただ立ち尽くしていることだけは、彼女にはできなかった。




