第八話 舞姫、奪われる
桜桃の元にその報せが飛び込んできたのは、邸に帰ろうとしていたときだった。
「花梨様が……雲英様が、皇居の回廊で血を流して倒れているのが見つかりました!」
息を切らせた侍女の言葉が最後まで終わらぬうちに、桜桃の足はすでに動いていた。着物の裾をなりふり構わず掴み、廊下を駆け抜ける。
現場に駆けつけたときには、すでに大勢の医師や兵たちが集まり、騒然としていた。
板敷きの廊下には、目を背けたくなるほど生々しい赤黒い血の跡が、長く引きずられたように残っている。
雲英と花梨の姿はすでになく、緊急の処置のために近くの別室へと運び込まれた後だった。
処置室の重々しい扉の前には、昊夜が立っていた。
そばにいる紬から状況を聞いているのだろう。彼は壁に背を預けて固く腕を組んでいた。
桜桃の近づく気配に気づいて一瞬だけ視線を向けたが、その瞳には、いつもの余裕は微塵もなかった。
昊夜はすぐに紬の方へと向き直る。
「……花梨は客殿から梨壺へひとりで戻るところだったのか」
「……はい。私どもが見つけた時には、お二人ともすでに、あそこで……」
「事件の際、近くに怪しい者の影はなかったのか。一緒にいた者は」
「どなたもいなかったようでございます……」
昊夜はそれ以上問い詰めず、視線を頑なな扉へと戻した。
閉ざされた扉の奥から、慌ただしく動く医師たちの緊迫した声がかすかに漏れ聞こえてくる。
桜桃は息を詰めて耳を澄ませたが、明確な言葉までは聞き取れない。その沈黙と遮断が、かえって彼女の恐怖を増幅させた。
「花梨様は……花梨様は、ご無事なのですか」
絞り出すような桜桃の問いに、昊夜は前を見据えたまま短く答えた。
「今、医師が総出で処置中だ」
それ以上の言葉は返ってこなかった。これ以上は言えないのか、あるいは言いたくないのか、今の桜桃には判別がつかなかった。
ただ、腕を組んだ昊夜の大きな手が、自身の服の布地を破らんばかりに強く握り締められ、強張っているのが見えた。
桜桃は、ただその扉を凝視するしかなかった。
視界の端で、さっきまで自分と一緒にいた花梨の姿が、鮮明に脳裏に浮かび上がる。
つい先ほどまで、楽しそうに針を動かしていた。悪戯っぽく笑っていた。「へこたれるのが面倒なだけ」と、凛とした声で言っていたのだ。
(どうして。どうして、花梨様がこんな目に遭わなければならないの――)
胸の奥底から、これまでにないほど激しい怒りと、冷たい何かが燃え上がるのを感じた。
激しい動悸の中で、つい先ほど、自分があの回廊の柱の陰で目撃した光景の断片が、頭の中をぐるぐると回り始める。
雲英と深黎が、人目を忍ぶように奥へと消えていった後ろ姿。
雲英が周囲の気配を異常なほど警戒していた目。
そして、回廊の端まで確かめてから、深黎に向き直った時の、あの声の変わりよう。
花梨と同じところで雲英も刺された。
(深黎――!)
「……少し、ここを外します」
桜桃は、怒りで震えそうになる声を必死に抑え、静かに告げた。
昊夜の鋭い眼光が、即座に彼女を捉える。
「どこへ行く」
「すぐ、戻ります」
昊夜はしばらくの間、桜桃の顔をじっと見つめていた。その目は、これまで見たことがないほど真剣で、どこか鬼気迫るものがあった。
「……一人で行くな」
「大丈夫です」
「そういう話をしているのではない」
遮る声は冷ややかだった。昊夜は一歩踏み出し、桜桃の逃げ道を塞ぐように立ちはだかる。
「花梨を刺した者が、まだこの近くに潜んでいるかもしれない。犯人の目的が分からぬ以上、一人で出歩くことは絶対に許さん」
「……」
「分かったか、六花」
桜桃は少し間を置き、彼の気迫に圧されるようにして小さく頷いた。
「……はい。朝凪が迎えに来てくれるので」
神妙に返事をして、桜桃は廊下を歩き出した。
しかし、昊夜の視線が届かなくなる最初の曲がり角を一つ折れた瞬間、彼女は約束を破り、弾かれたようにその足を限界まで速めた。
走りながら、桜桃の思考は激しく回転する。
(雲英様を疑いすぎていた……)
中務省から証拠が出なかったこと。一人に罪を着せようとしていると思ったこと。しかし――深黎に刺された雲英が、彼と組んでいるはずがない。
雲英は最初から深黎を警戒していた。ただ、それだけのことだったのだ。
桜桃は前を向き、決意を固める。
今はただ、深黎を見つけることだけを考えればいい。
深黎を探して走る桜桃の足は、朝堂院の外れ、陽の落ちかけた不気味な薄闇の中でぴたりと止まった。
探すまでもなかった。
回廊の影から、まるであらかじめそこで待っていたかのように、深黎がぬっと姿を現したからだ。
「……探しましたよ、六花さん」
夕闇に溶け込むような穏やかな声。驚いた様子など微塵もない。むしろ、彼の方から桜桃を誘い出したかのようだった。
「花梨様と雲英様を刺したのは、あなたね」
桜桃は一歩も退かずに言い放った。深黎は答えず、ただ静かに微笑んでいる。それが肯定だった。
「なぜ……花梨様は何も知らなかったのに!」
「聞いてしまったのだから、仕方がありません。宮廷とは、そういう場所でしょう?」
冷ややかな言葉に、桜桃は怒りで拳を強く握りしめた。
「あなたに、聞きたいことがあるわ。如月様が亡くなったあの夜、書庫にいたのは――」
「質問は、こちらの用件が済んでからにしてもらいましょうか」
深黎の視線が、桜桃の胸元へと注がれた。衣の上からでも、「小さな玉」の形がうっすらと透けて見えている。
「あなたがそれを持っているとは、思いもしませんでした。如月様が最期に千切り取った、私の首飾りの一部……。やはり、あの日向という男が回収していたのですね」
深黎の目が、初めて昏く歪んだ。
「それがある限り、私はいつまでも如月暗殺の影に怯えねばならない。……返していただきます」
不意に、深黎の身体が陽炎のように揺らいだ。
「っ――!」
避ける間もなかった。常人の間合いを無視した、音も気配もない足さばき。深黎の手が容赦なく桜桃の胸元へと伸びる。
「下がってください、六花!!」
突風と共に、鋭い声が響いた。
割り込んできたのは朝凪だった。凄まじい速さで抜刀し、深黎の手首に容赦なく刃を振るう。
並の武人であれば、腕ごと飛ばされている一撃。しかし、深黎は驚異的な身のこなしで刃の軌道から「消えた」。
いや、消えたのではない。骨がないかのように奇妙に身体を軟化させてねじり、刃の風圧を滑るようにしてかわしたのだ。
「……さすがは元近衛中将」
深黎の袖口から、チリン、と不気味な鈴の音が鳴り響いた。
「……っ!?」
朝凪の踏み込みが、一瞬だけ狂った。脳を直接揺さぶるような音響と、深黎の放つ独特の「殺気のなさ」に、武人としての勘が惑わされる。
まともな打ち合いを仕掛けてこない。影を相手にしているかのような、捕らえどころのない異質な暗殺術。
(狄族……!)
朝凪の体勢が一瞬崩れた瞬間、深黎は朝凪との戦闘を完全に放棄し、その隙を突いて桜桃へと視線を極限まで集中させた。
深黎の指先が、桜桃の衣の隙間に滑り込む。
「そうはさせない」
朝凪は体勢を崩されながらも、強引に刀の軌道を反転させ、深黎の顔面へと鋭い風を奔らせる。
「――っ」
深黎の細い眉が、初めて跳ねた。
自身の肉体が斬られる恐怖すら持ち合わせていないかのような深黎だったが、朝凪の刃までは完全に避わしきれない。
凄まじい風切り音と共に、深黎の白い頬に、一文字の赤い線が走った。
鮮血がじわりと噴き出す。
しかし、深黎はその痛みに目もくれず、頬を切り裂かれながらもその手をさらに奥へと伸ばした。
ブツン、と細い紐が切れる音が響く。
深黎は頬から血を流しながら、その手の中に、確実に玉を収めていた。
深黎は自身の血を滴らせながら数歩飛び退き、朝凪の間合いから完全に離脱した。
指先で頬の傷から流れる血を拭い、それを一瞥する。その目は、傷を負わされたことへの怒りよりも、ただ淡々とした静けさに満ちていた。
手の中の玉を強く握りしめ、彼は相変わらずの穏やかな声で桜桃を見つめる。
「これでもう、私を縛る証拠はどこにもない。……ご理解いただけましたか」
「……っ!」
桜桃の喉が、怒りと恐怖で激しく震えた。
「あなたが如月様を……! そして花梨様まで……!!」
深黎はそれには答えず、鋭い殺気を放ち直した朝凪の刀を一瞥した。これ以上深追いすれば、いかに狄族の技があろうとも、次は命がないと踏んだのだろう。
「お気をつけて。この宮廷の夜は、あなたが思うよりもずっと深い」
それだけを言い残すと、深黎の身体は夕闇に消えるように、音もなく消え去った。
「六花!」
激しい息を吐きながら、朝凪が桜桃の肩を掴んだ。
彼の端正な額には、珍しく冷や汗がにじんでいる。異質の敵を仕留めきれなかった口惜しさと消耗が、その表情に濃く影を落としていた。
桜桃は、深黎が消え去った方角を見つめたまま、凍りついたように動けなかった。
朝凪は乱れた呼吸を強引に整えながら、目の前の桜桃の顔を覗き込み、痛ましげに眉を寄せた。
「……大丈夫ですか」
「……うん」
「怪我はありませんか」
「ないわ」
朝凪は桜桃の全身をくまなく視線で改め、それから周囲の暗がりに向けて鋭い警戒の目を一度走らせた。
しかし、深黎の気配はもうどこにも残っていなかった。
「また、このような危ない真似を……」
向けられた声は静かだった。しかし、底冷えするほど低かった。
「深黎を、一人で追ったのですか」
「……追ったというか、その」
「六花」
「追っていたら、向こうから来たの。まるで、私が持っているものを知っていたみたいに」
朝凪は、切られた紐が残る桜桃の胸元を見つめ、少しの間、苦渋の沈黙を落とした。
桜桃は耐えかねたように俯く。
「狄族って……一体、何者なの?」
「……ああいう、戦の形を持たぬ民族です」
朝凪の脳裏に、かつて北の辺境で繰り広げられた、狄族との戦がよみがえる。
彼らは子供の頃から、遊びの延長として命の奪い合いを覚えるのだ。武人のように洗練された型も、流派の理も一切ない。
骨をねじり、気配を消し、時に奇怪な呪術すら絡めて肉に喰らいついてくる。
戦いづらいことこの上ない、武人にとっては極めて相性の悪い部族。それが狄族だった。
「日向が……せっかく見つけてくれた玉だったのに」
桜桃の声が、微かに掠れた。
「あの夜の、確かな証拠になるかもしれないって。だから……だから肌身離さず持っていたのに……」
行き場のない悔しさに、下ろした拳がまたきつく握りしめられる。爪が皮膚に食い込み、白く強張っていく。
「私のせいで、如月様の無念を晴らすための証拠が……」
「いえ、仕留めきれなかった私の責任です。ですが」
朝凪が、そっと一歩踏み出し、桜桃の正面に立ち塞がるようにして彼女の視線を遮った。
「――あなたに、怪我がなかったこと。それだけは、本当によかった」
「でも……!」
「それだけは、本当によかったのです」
朝凪は言い聞かせるように、静かに、もう一度だけ繰り返した。
その声はどこまでも優しく、そして断固としていた。
取り返さなければならなかったはずの玉。如月の死の真相。それが、目の前で完全に闇に葬られてしまった。
ただ、玉を奪われた桜桃の手だけが、夕闇の中でただ震えていた。




