第8話 空堀の蠢動、黒鉄の理合
風が落ち、底冷えのする湿気が足首にまとわりつく。
「来たぞ! 銅鑼を鳴らせ!」
「槍衾を作れ、堀端から離れるな!」
闇を裂いて甲高い銅鑼の音が響き渡り、胸壁の裏で足軽たちの怒号が交錯した。
堀の底――深さ二間の泥濘から、無数の節くれ立った爪が土手を削る音が這い上がってくる。ザリ、ザリ、と湿った赤土が崩れ落ちる音に混ざり、腐肉を煮詰めたような饐えた熱気が立ち込めた。
骨喰の群れだ。
その数は十や二十ではない。松明の赤暗い光が届く縁に、縦に裂けた顎を無数に蠢かせた白い四つ足が次々と姿を現す。
「突けっ、突き落とせ!」
隣の牢人が血相を変えて槍を繰り出す。力任せの突きは骨喰の頭骨を捉えたが、硬い骨に穂先が滑り、逆に長い前肢で槍の柄を鷲掴みにされた。
「しまっ――」
牢人の身体が前のめりに引きずり込まれかける。
その刹那、宗玄は半歩左へ踏み込み、手にした長槍の石突で牢人の膝裏を軽く叩いて姿勢を落とさせた。同時に、赤錆の浮いた長槍を両手の中で滑らせる。
力で押し返すのではない。
堀の急傾斜を登ろうと、爪先だけで自重を支えている骨喰の前肢――その「肘の裏」へ、槍先を正確に添えた。
トン、と軽く突いて引く。
わずかな打撃だが、相手の力点を外すにはそれで足りる。支えを失った骨喰は、自らの体重と前のめりの突進力でバランスを崩し、泥濘の底へと真っ逆さまに転落していった。下から鈍い骨折の音が響く。
「……槍は力で押すな。突いて引く、ただそれだけでよい」
宗玄は隣の男へ短く告げると、胸壁の丸太に長槍を預け、静かに呼気を整えた。
登ってくる獲物は、下から上への運動エネルギーを使い切る瞬間、必ず「静止の刹那」を迎える。胸壁の縁に前肢をかけたその一瞬、筋肉が強張る頸椎の継ぎ目へ、宗玄の長槍が音もなく吸い込まれていく。
ズス、と正確に急所を穿ち、抜く。
二体、三体。
宗玄の前に立った骨喰は、咆哮を上げる間すら与えられず、糸の切れた人形のように堀の底へ転がり落ちていく。無駄な踏み込みも、汗を飛ばすような怒号もない。まるで藁人形を相手に淡々と突きの基本を反復しているかのような静寂が、青年の周囲だけを支配していた。
だが、その規則正しい解体の律動は、堀の底から響いた異様な地鳴りによって断ち切られた。
ドスゥン。
重い鉄の塊が、泥の底へ落ちたような振動。
群がっていた骨喰たちが、蜘蛛の子を散らすように左右の闇へ逃げ散っていく。
「な、何だ……?」
「下から何か上がってくるぞ!」
松明の光が届かぬ闇の底から、ぬらりと巨大な影が立ち上がった。
人の丈の倍はある。
纏っているのは、泥と錆にまみれた南蛮胴と大鎧の残骸。何十人分もの合戦の死骸から剥ぎ取られた鉄板、折れた太刀、千切れた鎖帷子が、黒く固着した血脂と筋繊維によって無理やり人型に練り固められていた。
頭部とおぼしき位置には、顔がない。
ただ錆びた兜の吹き返しだけが歪に残り、その奥で、凝固した鉄の滓のような赤黒い光が蠢いている。
――錆甲冑。
右手に握られているのは、刃渡り五尺を超える無骨な大太刀の残骸。
刃の半ばまで赤錆と脂で茶色く濁り、もはや斬るためではなく、質量で叩き潰すための鉄塊と化していた。
「ひ、化け物……!」
「逃げろ! こんなもん、槍で止められるか!」
胸壁を守っていた足軽たちが、我先にと武器を放り出して後方へ遁走し始めた。
錆甲冑は重い足取りで堀の縁へ手をかけると、巨大な大太刀を片腕で軽々と掲げた。
空気を切り裂く、重苦しい風切り音。
バギャアッ!
丸太を荒縄で固めた胸壁が、まるで枯れ枝のように粉砕され、木片が四方へ弾け飛んだ。
直撃を受ければ、人間など骨ごと挽き肉にされる。
宗玄は手にした長槍を迷わず投げ捨てた。
こんな竹の柄の槍では、あの大太刀の風圧だけで叩き折られる。
腰の打刀へ右手を添える。だが、抜かない。
(吉蔵の言った通りだ……刃を当てれば、この刀など一撃で粉微塵になる)
相手は全身が鉄と骨の塊。
斬れる肉も、突くべき生身の喉も存在しない。
だが――宗玄の老練な眼光は、粉砕された胸壁の土埃の向こうで、巨躯が次の一撃を繰り出そうとする「骨格の理」を捉えていた。
(動く以上、支点は必ずある)
五尺の大太刀を振り上げるには、尋常ならざる遠心力が生じる。
巨躯の重心が、右足の泥濘へ深く沈み込んだ。
振るわれる。斜め上段からの、大地を断ち割るような袈裟懸け。
宗玄は退かなかった。
間合いを外すのではなく、死線へと身を投じる「前進」。
静観流・体術の極意「草摺潜」。
大太刀の切っ先が空気を爆ぜさせるその一瞬手前、宗玄は泥を擦るような低い姿勢で、相手の懐――右の脇腹の真下へと滑り込んだ。
頭上を巨大な鉄塊が通過し、巻き起こった突風が青年の濡れた前髪を激しく揺らす。
空振りの瞬間。
大太刀の重量に引かれ、巨躯のバランスが前のめりに傾く。
(今だ)
宗玄は抜刀した。
だが、狙いは鉄の甲冑ではない。
大鎧の草摺と胴を繋ぐ、右の股関節の隙間。泥と錆の鉄板の継ぎ目から、黒く脈打つ太い筋繊維が剥き出しになっていた。その中央に、周囲の鉄を吸い寄せて核となっている、拳大の「黒鉄の塊」が鈍く光っている。
宗玄は刀を振り回さない。
右手の打刀を逆手に構え、左手の掌底を柄頭へ添えた。
相手の前傾する質量、前のめりに倒れ込もうとする重力。そのすべての力を利用し、黒鉄の塊の「根元」へ、刃先を錐のように押し当てた。
「……沈め」
短い呼気。
宗玄は己の体重を完全に抜き、相手の運動エネルギーをそのまま刃先へと預けた。
グヂュ、と鉄と油が擦れ合う異様な音が柄を通じて掌へ伝わる。
筋繊維が断ち切られ、核となっていた黒鉄が、関節の蝶番から抉り出されるように泥濘へと弾け飛んだ。
「――ガ、ギギギッ!」
錆甲冑の喉奥から、鉄板をヤスリで擦るような悲鳴が漏れた。
右足の支点を失った巨躯が、自らの大太刀の重量に耐えきれず、横倒しになって堀の縁へ激突する。
ズドォオン!
土煙が舞い上がる。
宗玄は転がる巨躯の隙間から滑り出るように身をかわし、泥の中に転がった拳大の「黒鉄の塊」を左手で素早く拾い上げた。
ずしりと重い。通常の鉄の倍はある比重。表面には血管のような細い溝が走り、炉の熱を宿したかのように生温かい。
倒れ伏した錆甲冑は、核を失ったことで急速にその形状を崩壊させ始めていた。
鎧を繋ぎ止めていた黒い筋繊維が乾いた泥のように崩れ、大鎧の残骸や折れた刀剣が、ただの鉄屑となってバラバラと堀の底へと滑り落ちていく。
残ったのは、静まり返った空堀と、粉砕された胸壁の残骸だけだった。
「……ふう」
宗玄は打刀の刃先を検分した。
鉄に触れさせず、隙間の筋だけを断ち切ったため、刃こぼれは一つもない。息を整え、刀を静かに鞘へ納める。
カチリ、と静寂に響いた鯉口の音。
遠巻きに逃げていた足軽や牢人たちが、腰を抜かしたまま、泥塗れの青年の背中を凝視していた。
槍衾すら粉砕した人外の巨塊を、抜身の一撃で泥に沈め、その核を平然と拾い上げる落ち武者。
畏怖と戦慄が、夜の防衛線に冷たく染み渡っていく。
宗玄は振り返ることもなく、左手の黒鉄を麻布で包むと、腰の帯へと結びつけた。
「……さて。吉蔵殿の火を借りに行くとしようか」
老宗家の澄んだ独り言が、夜明け前の冷たい闇の中へ静かに溶けていった。
お読みいただきありがとうございました。
巨塊「錆甲冑」の力を逆手に取り、見事に黒鉄の核を奪い取った宗玄。
少しでも面白いと感じていただけましたら、ブックマーク登録や下部の【☆☆☆☆☆】での評価・応援をぜひお願いいたします!




