第6話 黒石の木戸、冷鉄の品定め
霧が完全に吹き払われた街道の先に、黒石の威容が剥き出しになっていた。
幅二間はある空堀には逆茂木が隙間なく敷き詰められ、掻き上げられた土塁の上には、雨風で黒く煤けた杉板の塀が連なっている。
街道を塞ぐ巨大な冠木門の脇には、太い丸太を組んだ物見櫓。その上から、番兵が二人、藤繰の弓に矢をつがえたまま、街道に群がる人々を見下ろしていた。
「……酷い、ありさまですね」
サヨが背負い袋の紐を握りしめ、痛ましげに声を落とした。
門の前には、五十人を超える避難民が泥濘に座り込んでいた。着の身着のままで逃げてきた百姓の家族、血に染まった包帯を巻いた手負いの足軽、親を探して泣き叫ぶ童。だが、門扉は固く閉ざされ、わずかに開いた潜り戸の前には、陣笠に鎖帷子を纏った屈強な男たちが十数人、長槍を交差させて人の波を押し留めていた。
「通せ! わしらは高坂の領民だぞ!」
「怪我人がいるんだ、中に入れてくれ!」
怒号と悲鳴が飛び交うが、門番たちの表情は鉄のように動かない。
「黙れ! 喚く者は矢を射掛けるぞ!」
小頭とおぼしき髭面の男が、鞘に入れたままの太刀の先で、すがる百姓を冷酷に突き放した。
「昨日も傷を隠して入り込んだ男が、夜半にマガツモノへと変じたばかりだ! 噛み傷のある者、瘴気に当てられて目の濁った者は一切通さん! 改めを受ける順を待て!」
マガツモノの瘴気に当てられた者が変異する――サヨが言っていた噂は事実らしい。感染か、あるいは死毒の類か。いずれにせよ、内部からの崩壊を恐れる宿場側の警戒は、理に適っていると宗玄は観察した。極限状態における防衛線とは、情を捨てた冷徹さによってのみ維持される。
「サヨ、某の背後にいろ。余計な口は利くな」
「……はい」
宗玄は竹槍の折れた残骸を街道の端へ捨て、両手をだらりと下げて歩を進めた。
泥濘を踏む足音は低く、呼吸は深い。怒号渦巻く人混みを、水が岩を避けて流れるようにすり抜けていく。群衆の殺気や焦燥に一切同調しない青年の佇まいは、それだけで異様な異物感を放っていた。
潜り戸の前に達した時、門番の足軽たちが一斉に槍衾を作った。
「止まれ! ……落ち武者か」
槍の穂先が宗玄の胸元三寸で止まる。
奥から、腕組みをした一人の男がのっそりと進み出てきた。
五十がらみ。煤けた革胴に、無骨な大刀を佩いている。左目は白濁して潰れ、筋骨隆々の首筋には幾筋もの古い太刀傷が走っていた。並の郷士ではない。幾多の修羅場をくぐり抜けてきた、雇われの老練な牢人だ。
男の濁った単眼が、宗玄の全身を頭から爪先まで舐めるように走った。
「小倅、どこの手勢だ。竹胴は砕け、血の臭いが染みついておる。……後ろの娘は誰だ」
宗玄は視線を逸らさず、男の正中線を見据えたまま静かに口を開いた。
「某は高坂の足軽頭、九十九が倅、弥十郎。この娘は城下の薬種問屋の生き残り、サヨ殿。山中で糸繰に襲われていたところを拾い、ここまで連れて参った」
「薬種問屋だと?」
牢人の眉がピクリと跳ねた。
サヨが背負い袋から、小さな木箱と包みを取り出し、震える手で差し出す。
「高坂城下にて薬匠を営んでおりました。これは傷塞ぎの膏薬と、熱を冷ます乾草です。……町の中でお役に立てるかと存じます」
牢人は包みを奪い取るように受け取ると、指先で黒い膏薬を少し掬い、鼻先へ近づけた。
「……本物だな。上等な樟脳の臭いだ。城下が落ちて以来、傷薬は砂金より貴重だ。娘、入れ」
「あ、あの……九十九様は」
牢人の冷たい視線が、再び宗玄へ戻った。
「足軽の小倅は通せん。山から下りてきた武者は、噛み傷を隠して紛れ込む手合いが多すぎる。……それに、お前、その刀はどうした」
牢人の指が、宗玄の腰にある二尺二寸の打刀と、奪ったばかりの脇差を指した。
「足軽の分際で、柄巻も緩んでおらん刀を二本差しとは妙だな。仲間の死体から漁ったか、主筋の首でも刎ねて奪ったか。……脱走兵の疑いもある」
門番の足軽たちが、じりじりと間合いを詰めてくる。
宗玄は動じない。肩の力を完全に抜き、両腕の指先をだらりと開いたまま、牢人の隻眼を静かに見返した。
「山中でマガツモノを二体、落ち武者狩りの野盗を一人、さらに道を塞いだ乱暴者の騎馬武者をいなして奪ったまでのこと。……疑うならば、身体を検分されるがよい」
宗玄は一切の敵意を消し、胸前の竹胴の紐を解いた。
濡れた着物をはだけ、傷だらけの胸板と肩、太腿を晒す。
打撲の紫斑や、サヨが手当てした黒い膏薬の痕はあるが、牙で肉を抉られたような致命の噛み傷は一つもない。
牢人が無言で歩み寄り、宗玄の右肩の関節を荒々しく掴んだ。
外れて嵌め直したばかりの患部。普通ならば悲鳴を上げて飛び退くような力で圧をかけられる。
だが、宗玄は眉一つ動かさず、息を腹の底へ沈めたまま、男の体重を足裏から泥へと逃がした。
「居着き」のない、完全な脱力。
牢人の手がピタリと止まった。
掴んでいるはずなのに、手応えがない。まるで大木に触れているか、あるいは水の中に手を差し入れているような、捉えどころのない感触。
(……何だ、この小倅は)
牢人の単眼に、警戒とは異なる戦慄が走った。
骨格はまだ若い。だが、この立ち姿、重心の落ち方、そして一切の乱れを見せない呼吸。人を殺し慣れた武者特有の血生臭い殺気ではなく、研ぎ澄まされた古寺の鐘のような静寂が、青年の全身を包んでいた。
牢人は手を離し、ゆっくりと間合いを半歩引いた。
「……噛み傷はねえな。化生に変じる気配もねえ」
「では、通していただけるか」
牢人は鼻を鳴らし、腰の大刀の柄頭を軽く叩いた。
「九十九弥十郎と言ったな。……腕に覚えがあるなら、この町は悪くねえ場所だぞ。いまや高坂領の残存兵や近隣の郷士どもが寄り集まり、防陣を組んではいるが、毎夜、外郭の空堀にマガツモノが這い上がってきやがる」
牢人は潜り戸の番兵へ顎をしゃくった。槍が引かれ、狭い扉が開く。
「町の広場に陣屋がある。外郭の警護や化生の首を狩った者には、米と銭の報奨が出る手筈だ。……もっとも、朝まで生きていられればの話だがな」
「重畳。手持ちの路銀が心許なかったのでな」
宗玄は竹胴を結び直し、サヨを促して潜り戸をくぐった。
黒石の町内へ足を踏み入れた瞬間、噎せ返るような線香の臭いと、血の饐えた臭気が鼻腔を衝いた。
街道の両脇に並ぶ宿場町の旅籠や商家は、ことごとく負傷者の仮小屋と化していた。板の間に転がる無数の手負い、泥の路上で握り飯の炊き出しを待つ女子供。巡回する郷士たちの目は血走り、誰もが極限の疲弊の中にあった。
「九十九様……私、陣屋の救護所へ参ります」
サヨが背負い袋を背負い直し、宗玄に向き直った。
「薬草を調合し、怪我人の手当てを手伝えば、雨風を凌げる寝床とわずかな雑穀は分けていただけるはずです。……九十九様も、ご一緒に」
宗玄は静かに首を横に振った。
「いや。某の役目はここまでだ。お主の薬の腕があれば、この町でも重宝されよう。某のような抜身の武者は、救護所よりも鉄の匂いがする場所の方が居心地が良い」
「九十九様……」
「達者でな。肩の手当て、見事であった」
宗玄が微かに目を細めると、サヨは深く頭を下げた。
「命の恩は決して忘れません。……もし、お身体の調子が悪くなりましたら、いつでも救護所のサヨをお呼び出しください」
娘が人混みの奥へ消えていくのを見届け、宗玄は宿場の目抜き通りへと視線を向けた。
通りの奥から、風に乗って規則正しい鉄の打撃音が響いていた。
カン、カン、と冷たい朝の空気を震わせる槌の音。
(鍛冶屋か)
宗玄は腰の無銘の打刀をそっと撫でた。
刃先の手入れはしたが、安物の刀身には先の戦いで生じた微小な金属疲労が残っている。乱世を生き抜き、さらに凶悪なマガツモノの骨を断つには、鉄を鍛え直す場所と、より頑丈な武具の調達が不可欠だった。
そして、夜になれば外郭に現れるというマガツモノの群れ。
「……まずは、この鉄の牙を打ち直すとしようか」
老宗家としての静かな観察眼を宿した青年は、槌の音を辿り、煤煙の立ち上る鍛冶場へと歩み出した。
お読みいただきありがとうございました。
無事に黒石の宿場へと入り、サヨと別れて鍛冶場へ向かう宗玄。
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