第5話 霧中の驕気、馬上の理合
乳白色の霧が、馬の荒い鼻息で渦を巻いた。
宗玄は左手でサヨの肩を軽く押し、街道脇の立ち枯れた楢の木の陰へ下がらせた。自身は竹槍を地面へ斜めに立て、泥の上に静かに両足を沈める。
足裏の三点――親指の付け根、小指の付け根、踵に均等に体重を分散させ、いつでも膝を抜ける態勢を整える。
現れたのは、一騎の馬と五人の徒歩武者。
馬に乗る男は、黒漆の剥げ落ちた胴丸に緋色の威糸を垂らした、筋骨たくましい武者だった。右の草摺が裂け、太腿に血塗れの布を巻きつけている。
従う歩兵五人は陣笠を傾げ、長柄の槍を杖代わりに引きずっていた。足取りは重いが、眼窩の奥に宿る光は異様なほど鋭くギラついている。敗走の屈辱と、死線を彷徨った極限の飢えが、彼らの理性を獣のそれへと削り落としていた。
「……おう?」
先頭の足軽が立ち止まり、霧の向こうに立つ宗玄の姿を認めて声を上げた。
馬上の武者が手綱を引き、泥飛沫を上げて馬の足を止める。
「何だ、先遣の落伍者か」
馬上からの濁った声。男の顔には、生々しい刀傷が斜めに走り、乾いた赤黒い血が髭にへばりついていた。その視線が、宗玄の破れた竹胴から、腰に佩いた打刀へと滑る。
「……ほう。手入れの行き届いた業物を下げておるな。足軽風情が、戦場で上位の骸から掠め取ったか」
武者の細い目がさらに歪み、楢の陰で木箱を抱え込むサヨの姿を捉えた。
「おい、後ろの娘。その背負い袋の臭い……薬種か。木箱の中身を出せ」
サヨの指先が白く強張る。宗玄は一歩前へ出て、馬上からの視線を遮るように正中線を重ねた。
「高坂の御家人衆とお見受けする。某は先陣の足軽頭、九十九が倅、弥十郎。この娘は城下の薬師で、黒石へ逃げ延びる途上にて保護いたした。奪われる筋合いのものは持ち合わせておらぬ」
青年の喉から出た声は、平穏そのものだった。怒りも、怯えもない。ただ池の面に小石を落としたときのように、波紋のない静けさだけが漂う。
馬上の男が、喉の奥で下卑た笑いを漏らした。
「九十九の小倅か。確か足軽頭の爺いは、館の門前で化生に頭から噛み砕かれたはずだがな。……親の死に目も見ずに逃げ出した腰抜けが、一人前に刀を差して女連れとは笑止」
従う足軽たちが、嘲笑とともに槍の穂先を向けながら、半円を描いて宗玄を囲みにかかる。
「おい、九十九。お前が生きているのは武運ではない、ただの逃げ足だ。その刀と薬、そして娘を置いていけ。傷の疼く儂らが使ってやる。生きて黒石へ行きたくば、身ぐるみ脱いで泥を啜りながら歩くことだな」
言葉とともに、馬上の男が腰の太刀の柄へ手をかけた。
手負いの獣が、自らより弱いと踏んだ同類を喰らう――乱世の戦場では掃いて捨てるほど転がっている、醜悪な略奪の図式。
宗玄は、心の中で深く息を吸い込んだ。
(……人の形をしてはいるが、心根はあのマガツモノと大差ないか)
八十余年の生涯で培った静観流の教えには、「無益の殺生を慎むべし」とある。だが同時に、宗玄の師がかつて説いた言葉が脳裏に甦る。――「理を解さぬ狂犬に背を見せるは、慈悲ではなくただの怠慢である」。
「退かぬか」
「足軽風情が生意気な口を!」
馬上の男が太刀を一気に引き抜いた。
鈍い鉄色の刀身。刃こぼれはあるが、青年の華奢な身体なら袈裟懸けに叩き割るに十分な厚みがある。
「踏み潰せ!」
男が拍車を当て、馬の脇腹を蹴った。
ヒヒィン、と馬がいななき、前脚を高く跳ね上げる。重い泥を蹴散らし、四本の蹄が一直線に宗玄の頭上へと迫る。
馬上の斬撃は、高所からの位置エネルギーと馬の突進力が乗るため、刀で受け止めれば骨ごと両断される。足軽ならば、槍を捨てて泥に伏せるしかない局面。
だが、宗玄は竹槍を両手で水平に構え、退くどころか前へ半歩、滑り込んだ。
(獣の足首には、必ず関節の撓りがある)
馬が前脚を泥に着地させ、首を沈めて加速へ移行する刹那。
宗玄は竹槍の石突を泥に深く斜めに突き立て、柄の中央を左手の掌底で強く押し当てた。
槍先を突き刺すのではない。突進してくる馬の左前脚の「腱」の直前に、しなる竹の腹をそっと差し入れたのだ。
バツン!
硬い竹が馬の脚に絡みつき、強烈な摩擦音を立てる。
馬の左前脚が引っかかり、前方の重心が突如として行き場を失った。
「なっ――!?」
男の叫び。
巨躯の軍馬が前へつんのめり、頭から泥濘へと崩れ落ちる。
落馬の瞬間、馬上の男は慣性の法則により、頭から前方の虚空へと放り出された。
空中に投げ出された男の身体。手足がバタつき、太刀の切っ先が宙を泳ぐ。完全な「虚」。
宗玄はすでに竹槍を放していた。
泥を滑るように前進し、男が地面へ激突する直前の落下点へ、音もなく身体を滑り込ませる。
抜刀はしない。
宗玄は右手の手刀を、男の右肩の関節の内側へ添え、左手で男の太刀を握る手首を外側から巻き込んだ。
相手の落下速度を殺さず、円運動へと変換する「合気」の崩し。
グワシャアン!
男の巨体が泥水の中へ叩きつけられた。
その右腕は宗玄の身体の下で関節を逆方向に極められ、手首の骨がギシリと音を立てて悲鳴を上げる。
「ぐ、あ……ッ!?」
泥に顔を押し付けられた男が息を詰まらせる。
宗玄は極めた腕を固定したまま、左手で男の腰から脇差を音もなく抜き放ち、その冷たい切っ先を、男の頸動脈の皮一枚のところへ垂直に突き立てた。
「……動くな。首の筋を撫でるぞ」
青年の低く澄んだ声音が、男の耳元に落ちた。
馬の倒れる重い音、泥の跳ねる水音、そして男の呻き声。すべてが一瞬の出来事だった。
「ひ……」
「た、隊長が……!」
周囲を取り囲んでいた五人の足軽が、槍を構えたまま凍りついた。
馬の突進を竹一本でいなし、空中で絡め取って一瞬で首を押さえる。彼らが戦場で見てきた「足軽の槍働き」でも、「武者の斬り合い」でもない。まるで人体の仕組みを知り尽くした異形の仕業を見るような戦慄が、足軽たちの泥塗れの顔を白く染めていた。
宗玄は視線だけを足軽たちへ向けた。
「槍を捨てよ。……次はお主らの膝の皿を割る」
カラン、と一本の槍が泥に落ちた。
それを皮切りに、残る四人も争う意志を喪失し、槍を投げ捨てて後ずさった。
泥に伏した武者が、激痛と屈辱に顔を歪めながら呻く。
「き、貴様……何者だ……九十九の小倅が、このような手を……」
「九十九弥十郎だ」
宗玄は切っ先をわずかに深く当て、皮を半ミリ裂いて赤い血の玉を滲ませた。
「だが、お主のような濁った刃に背を見せるほど、安く生きてはおらん。……馬はまだ息がある。連れて山へ戻るか、泥を舐めて這い出すか、選べ」
宗玄は脇差を引き抜き、男の背中から身を離した。
泥に塗れた武者は、折れかけた右腕を抱えて転がるように立ち上がると、足軽たちに支えられながら、折れた前脚を引きずる馬の手綱を引いて逃げ出した。
二度と振り返る気力も残っていないようだった。
「……ふう」
宗玄は脇差の泥を拭い、腰の帯に差した。手頃な短刃が一合手に入ったのは儲けものだった。
「サヨ、怪我はないな」
楢の木の陰から、サヨがおそるおそる姿を現した。その丸い瞳には、畏怖と敬意が入り混じった複雑な光が宿っていた。
「は、はい……。九十九様、あの技は……」
「昔、山で熊をいなす老人に教わった知恵よ」
宗玄は老練な嘘をあっさりと吐き、足元に落ちていた竹槍を拾い上げた。柄に亀裂が入っている。馬の突進を受け止めたため、もう長くは持たないだろう。
薄明の空が急速に白み始め、風が街道の霧を吹き払い始めていた。
宗玄が顔を上げると、霧の晴れ間の向こう、半里ほど先に黒々とした威容が見えた。
幾重にも巡らされた空堀と、乱杭。土塁の上に築かれた頑丈な黒板塀と、朝日に照らされ始めた物見櫓。
「……あれが、黒石か」
「はい……! 黒石の宿場です!」
サヨの声に、ようやく安堵の響きが戻った。
だが、宗玄の細められた目は、その宿場町の物見櫓に掲げられた旗印が、不穏に風に揺れているのを見逃さなかった。
生き残った人間たちが集まる場所。そこが本当に安住の地であるのかどうか――老剣士の勘は、新たな火種の気配を静かに告げていた。
お読みいただきありがとうございました。
馬上の武者を一瞬で制した宗玄。ついに目的地である「黒石の宿場町」に辿り着きますが、果たしてそこは安全な場所なのか――。
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