第4話 夜半の灸治、霧中の蹄音
第4話です。
蜘蛛の異形を退けた宗玄は、荷車に残されていた薬師の娘と出会います。手当と道具の補給を受け、宿場町「黒石」を目指して霧の街道を進みますが、背後から近づく蹄音が新たな波乱を告げます。
雨脚はいつの間にか弱まり、街道の窪みに溜まった泥水が波紋を失っていた。
立ち込める冷涼な夜気の中、泥と生臭い異形の体液が混ざり合った臭気が、白く濁る霧とともに足元を這い回る。
宗玄は泥に転がっていた竹槍を拾い上げ、石突の泥を草で拭った。柄のしなりに折れはなく、まだ使えそうだと確認してから、荷車の脇で蹲る娘へ歩み寄る。
「……ひっ」
娘の細い喉が小さく鳴った。
引き裂かれた市女笠の隙間から覗く顔は血の気が失せ、抱きしめた木箱の角に指先を食い込ませている。
血飛沫を浴び、泥にまみれた竹胴の武者。常世の穴から這い出た怨霊か、あるいは身ぐるみを剥ぎに来た落ち武者に見えても無理はない。
「怯えるな。……立ち上がれるか」
宗玄は太刀を下げたまま、間合いを二間取って腰を落とした。上から見下ろさず、相手の目線と高さを合わせる。八十余年の人生で、稽古中に怯えた幼子を落ち着かせるときと同じ、平坦で澱みのない声だった。
娘は呼吸を浅く乱しながら、震える手で地面をまさぐった。
「あ、なたは……人の、方ですか」
「一応はな。落ち延びる途中で、あの異形の手足の音が耳障りで寄ったまでだ」
宗玄は竹槍の先で、泥濘に沈む糸繰の死骸を指した。
「あれの仲間が臭いを嗅ぎつければ厄介だ。怪我がないなら、まずはその車から離れよ」
「……は、はい」
娘は泥を這うようにして立ち上がろうとしたが、膝が笑って再び崩れかけた。宗玄は踏み込まず、竹槍の柄をそっと差し出して握らせる。娘はその竹に縋り、ようやく両足で泥を踏みしめた。
息を整える間、宗玄は娘の風体を素早く観察した。
指の爪は手入れされ、荒れた野良仕事の手ではない。浅葱色の小袖は仕立てが良く、腰から下げた小さな革袋からは、微かに乾燥した苦い草根の匂いが漂っていた。
「……薬師か」
「え、……あ、はい。高坂の城下で薬種問屋を営んでおりました、サヨと申します。父や店の者は、三日前の晩に……」
サヨの声が湿り気を帯びて震え、言葉が途切れた。
追及する必要はなかった。高坂の館が落ちたという話は、先刻の野盗からも聞いている。館が灰燼に帰したのなら、その膝下にあった城下町がどうなったかなど、語るまでもない。
「儂――いや、某は九十九弥十郎。高坂配下の足軽頭の倅だった男だ。隊は散り散りになり、見ての通りの落ち武者よ」
宗玄は青年の名を名乗り、大八車へ視線を移した。
車輪の半分以上が粘土質の泥に深く食い込み、車軸には太い松の根が絡みついている。荷台には雨除けのむしろが掛けられているが、積まれているのは麻袋や薬草の束だ。
「この車は諦めよ」
「ですが、これは店から持ち出せた最後の薬種で……!」
「引けぬ。泥を掻き出し、根を断ち切るには半刻はかかる。その間に次のマガツモノが来れば、二人まとめてあの糸の餌食だ」
サヨの瞳に葛藤の色が浮かび、やがて諦念へと沈んだ。
「……わかりました。大事なものだけ、まとめます」
「手早くやれ。……ところでサヨとやら、この街道の先はどうなっている。生き延びた民はどこへ向かった」
サヨは荷台の筵を剥ぎながら、小さく息を吸った。
「……南へ三里ほど下ったところに、『黒石』という宿場町がございます。あそこは四方を空堀と石垣で囲まれており、関所を守る郷士たちが防陣を敷いていると……城下から逃げる折、耳にいたしました」
「黒石か。防備が整っているなら、怪異の群れも容易には踏み込めまいな」
「はい。ただ……山道には、館の焼け跡から逃げ出した兵を狙う野盗や、人を喰らい慣れたマガツモノが群れているとも聞きます。特に、死体の臭いに引き寄せられる骨喰の群れが……」
やはり、この山全体が巨大な狩場と化しているらしい。夜が明けて霧が晴れれば、遠目も利くようになり、かえって人間を狙う輩に見つかりやすくなる。
サヨは手早く背負い袋へ、高価な生薬の包みと、木箱から取り出した小さな陶器の壺を詰め込んでいた。
その手つきを見つめながら、宗玄は自分の右肩を無意識に左手で押さえた。関節は嵌めたものの、周囲の筋が熱を持ち、鈍く疼いている。
サヨがその仕草に気づき、眉を寄せた。
「九十九様……そのお身体」
「骨は収めた。古傷と打撲の腫れだ、気にするな」
「いいえ、見過ごせません。怪異を打ち払っていただいた恩がございます。……少し、お座りいただけますか」
サヨは背負い袋から、油紙に包まれた黒い練り薬と、細く裂いた晒を取り出した。
宗玄が言われるまま荷車の踏み板に腰を下ろすと、サヨの手が迷いなく竹胴の隙間から滑り込み、右肩の関節の窪みを的確に捉えた。
「――っ」
強い圧が加わり、宗玄の喉から短い呼気が漏れる。
ツボを外していない。それどころか、筋繊維が引き攣れている箇所を、指先の感触だけで寸分の狂いもなく探り当てている。
「関節の隙間が鬱血しております。この膏薬を擦り込みますね。……少し、熱くなりますよ」
ハッカと樟脳に似た強烈な芳香が立ち込めた。
サヨの掌が、素早く、しかし力強く患部に薬を擦り込んでいく。皮膚の表面が焼けるように熱くなり、数息の後、その熱が筋肉の奥深くまで浸透して強張りを一気に解いていくのが分かった。
(見事な手の内だ……)
前世の道場で、幾度となく弟子たちの身体を手当てしてきた宗玄の目から見ても、無駄のない手際だった。単なる商家の娘ではない。確かな技術を持った薬師だ。
「……楽になった。礼を言う」
「とんでもございません。命を拾ったのは私の方です」
サヨは晒をきつく巻き終えると、荷車から引き抜いた包みを宗玄の足元へ置いた。
「これ……荷台の奥にあった乾飯と、砥石です。重いので迷いましたが、武士の方なら、刃を研ぐ石が必要かと思いまして」
包みを開くと、掌大の荒砥と、竹筒に入った菜種油が現れた。
宗玄の懐にあるのは仕上げ用の小さな合砥のみ。荒れた刃先を一から整え直すための荒砥と、錆を防ぐ油は、何にも代えがたい財宝だった。
「重畳。ありがたく使わせてもらう」
宗玄は乾飯を二握りほど口に放り込み、水筒の水を流し込んだ。
胃の腑が温まり、肩の重みが劇的に引いていく。道具が揃い、肉体の調律がさらに進んだ。
東の空が、重苦しい墨色からわずかに紫がかった薄明へと移ろい始めている。
雨は完全に上がり、代わりに乳白色の濃い霧が、街道の先を白く覆い隠していた。視界は五間先がせいぜいだ。
「サヨ、支度を終えよ。夜明けの霧に紛れて山を下りる」
「はい!」
サヨは重い背負い袋を背負い、木箱をしっかりと抱え直した。
宗玄は竹槍を右手に持ち、左手で太刀を腰に落ち着かせると、霧の中へと足を踏み入れた。
泥の感触を足裏で確かめながら、街道の端――いつでも木立へ飛び込める側を選んで進む。
風はなく、木々の葉から落ちる雫の音だけが、ぽつり、ぽつりと響いていた。
半里ほど進んだ頃だろうか。
宗玄は不意に立ち止まり、右手を横へ出してサヨを制した。
「……九十九様?」
「静かに」
宗玄は耳介を澄ませ、霧の奥へ意識を研ぎ澄ませた。
風上の遠く。山の上から下りてくる街道の先から、規則正しい音が微かに響いていた。
ペチャ、ペチャと泥を跳ね上げる複数の足音。草鞋ではない。鉄の鋲を打った脛当が擦れ合う微かな金属摩擦音。
そして――ブフゥ、と低く鼻を鳴らす、馬の息遣い。
一騎ではない。少なくとも騎馬が二、歩兵が五つか六つ。
野盗の不揃いな足音とはまるで違う。隊列を組んだ軍勢の移動のそれだ。
(落ち延びる正規の兵か。あるいは……)
宗玄の老練な勘が、背筋に冷たい刃を当てられたような緊張を告げていた。
乱世において、武装した集団はマガツモノと同じか、それ以上に恐ろしい獣となる。
霧の向こうから、重苦しい馬蹄の音が次第に輪郭を帯びて近づいてきた。
第4話をお読みいただきありがとうございました。
霧の立ち込める山道に響く馬蹄の音。現れた武装集団は味方か、それとも――。
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