第3話 風鈴の誘い、蜘蛛の糸
第3話です。
闇夜に響く不気味な鈴の音。荷車を襲う蜘蛛型のマガツモノ「糸繰」に対し、研ぎ直した太刀と竹槍を手にした宗玄が対峙します。
夜気は冷たく、湿った杉の葉を踏む感触が地下足袋の薄い底を通じて伝わってくる。
宗玄は竹槍を右手に提げ、左手で太刀の鞘口を親指でそっと押さえながら、無音で斜面を下っていた。
歩法は静観流の「摺り足」。膝のバネを殺さず、骨盤の水平を保ったまま、泥の抵抗を最小限に逃がして滑るように進む。炭焼き小屋で肩の脱臼を嵌め直し、素振りで筋の強張りをほぐした甲斐があり、弥十郎の若い肉体は先ほどより遥かに素直に動いた。
チリン、……シャラン。
雨音の隙間を縫って、再びあの音が響いた。
耳障りなほど澄んだ金属音。風鈴ではない。戦場で武者が身につける陣貝の金具か、あるいは馬具の鈴が擦れ合う音だ。規則正しい風の揺らぎではなく、獲物をじらし、誘い込むような意図的な間がある。
木立の切れ目、山裾を通る街道とおぼしき泥道が見下ろせる岩陰に身を潜めた。
街道の中央に、泥濘に車輪を取られて傾いた一台の大八車。積荷のむしろが引き裂かれ、乾物や薬草の束が散乱している。
その荷車の陰で、小柄な女が泥に塗れて腰を抜かしていた。頭から濡れた市女笠を落とし、浅葱色の小袖を泥で汚しながら、胸元に小さな木箱を必死に抱きしめている。
そして――荷車を挟んで十歩先の頭上、太い松の枝の上。
「……ほう」
宗玄は息を細く吐き、樹皮の影に潜む異形を値踏みするように見据えた。
骨喰とは骨格が根本から違う。
胴体は、無残にひしゃげた当世具足を無理やり巻き込んだ肉塊。そこから生えているのは、人間の四肢ではない。節くれ立った関節が六つ、細長く折れ曲がり、まるで巨大な蜘蛛のように松の幹をがっしりと抱え込んでいた。
背中に背負い込んだ無数の折れた矢や金具が、異形が身じろぎするたびに「チリン」と澄んだ音を立てる。
あれが音の主――「糸繰」か。
異形の顔面には皮膚がなく、髑髏の眼窩にあたる部分から、赤黒い複眼のような肉の突起が蠢いていた。
顎がカチカチと乾いた音を鳴らす。次の瞬間、その裂けた口から、濁った灰白色の筋が矢のような速度で射出された。
ピシィッ!
「きゃあっ!」
女が悲鳴を上げる。
糸は女の肩をわずかにかすめ、背後の荷車の木枠へ突き刺さった。鋼の針金のように細いが、引き絞られた瞬間に木枠がミシミシと音を立てて削れる。蜘蛛の糸というより、強靭な動物の腱を撚り合わせたような粘着性の繊維だ。まともに絡め取られれば、青年の膂力でも引きちぎることは叶わない。
(頭上からの立体機動。腕は六本、間合いは読めん。……そして、あの糸か)
宗玄の老いた眼光が、冷徹に獲物を解体していく。
手入れしたばかりの太刀を抜く気は毛頭なかった。あの節くれ立った硬い脚や、鉄具足の残骸に刃を当てれば、たちまち刀身が歪むか叩き折られる。
宗玄は竹槍の柄を握り直した。
先端を火で炙っただけの無骨な竹。だが、間合いを稼ぐにはこれで十分だった。
異形が枝の上で身を低く沈める。
跳ぶ。獲物の女へ向けてではなく、頭上から一気に押し潰す軌道。
宗玄は泥を蹴った。
音は立てない。重心を前へ投げ出し、斜面を滑り降りる勢いをそのまま加速へ変える。
「ギチッ、シャァッ!」
宙を舞う糸繰が、横合いから突如として現れた影に気づき、空中で二本の脚を鎌のように振り抜いた。
風を裂く重い一撃。
宗玄は立ち止まらない。
竹槍の石突を泥に突き立て、自らの進行方向を強引に右へ四十五度逸らす。静観流・槍の理合「蜻蛉の捌き」。相手の攻撃軌道に対し、直角に身を滑り込ませて空振らせる。
ズドン!
異形の巨躯が泥濘へ叩きつけられ、泥水が激しく跳ね上がった。
着地の瞬間。異形の六本の脚が泥に沈み、姿勢を立て直そうと筋肉が硬直する――武道でいう「居着き」。
(そこだ)
宗玄は槍を突かなかった。先端の竹では、あの甲冑を貫けない。
両手で槍の柄を広く持ち、腰の回転とともに、一番外側にある異形の「関節の裏」へ向けて、横一文字に柄を叩きつけた。
バキィッ!
鈍い破砕音が夜の闇に響く。
強固な甲殻も、関節の内側は柔らかい軟骨で繋がれているに過ぎない。人であれ獣であれ、動くための蝶番の強度は変わらないのだ。
「ギィエエッ!?」
右の第一脚が不自然な方向へ折れ曲がり、異形がバランスを崩して泥に転がる。
異形はパニックに陥り、残る脚をデタラメに振り回しながら、口から無数の糸を放射状に吐き散らした。
宗玄はすでに間合いの外へ退いている。
糸が虚空を薙ぎ、近くの立ち木をギリギリと締め上げるのを冷ややかに見つめながら、男は竹槍を捨て、腰の太刀の柄へ手を添えた。
「暴れるな。……足元がお留守だぞ」
片脚を失った異形は、泥の上で滑り、立ち上がることができない。重心が右へ大きく傾いている。
宗玄は雨水の中を静かに歩み寄った。
抜刀。
ギラリと、焚き火で研ぎ澄ましたばかりの刃先が、暗闇の中で青白く光る。
異形が最後の悪あがきとして、長い左前脚を槍のように突き出してきた。
宗玄は上体をわずかに反らせてそれを躱し、流れるような動作で太刀の峰を相手の脚の甲に添え、下へと押し切った。
刃で叩き切るのではない。
相手が突き出してきた力をそのまま下方へ受け流し、異形の顔面を泥の中へと引きずり倒す「合気」の理。
頭部が泥にめり込んだ刹那、宗玄は太刀の切っ先を逆手に持ち替えた。
狙うのは、甲冑と肉が癒着した首の根元――唯一、白い筋が剥き出しになっている指二本分の隙間。
「ふッ」
短い呼気とともに、体重のすべてを柄頭へ乗せて踏み抜く。
ズシッ。
骨と軟骨の隙間を、刃が正確無比に滑り落ちていく感触。
異形の全身が弓なりに反り、金具を激しく鳴らしたのち、泥水の中に脱力して沈黙した。
静寂が戻る。
宗玄は太刀を引き抜き、異形の体液を笹の葉で手早く拭うと、静かに鞘へと収めた。
刃こぼれはない。骨を断たず、関節の隙間を撫でるように穿ったため、刃先は爪に吸い付く切れ味を保っていた。
「……さて」
宗玄が視線を上げると、大八車の陰で、女が息を呑んだまま硬直していた。
泥に塗れた顔の中で、丸い瞳だけが信じられないものを見るように見開かれている。
「怪我はないか、娘」
青年の低く澄んだ声が、雨煙る街道に静かに落ちた。
第3話をお読みいただきありがとうございました。
新たな異形「糸繰」を理詰めで下した宗玄。助けられた娘との出会いが、今後の道筋にどう関わっていくのかご期待ください。
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