第2話 骨肉を調う
第2話です。
泥濘の死線を切り抜けた宗玄。手負いの肉体を整え、刃を研ぎ直す「武の準備」に入ります。
野盗の足音が笹薮の彼方へ消え去り、山道には再び雨音だけが残された。
九十九弥十郎――否、小野塚宗玄は、泥に膝を突くことなく、静かに立ち尽くしていた。
身体のあちこちが悲鳴を上げている。左肩の打撲、太腿の肉離れ、そして冷たい雨水が体温を容赦なく奪っていく感覚。だが、老いた精神は痛みに意識を奪われることを許さない。武道において、痛みに囚われることはすなわち「居着き」を意味するからだ。
(まずは、己の手足を検分せねばな)
宗玄は、絶命した野盗の骸の前にしゃがみ込んだ。
躊躇いはない。現代の倫理観を引っ張り出して感傷に浸る余裕など、この血生臭い山中には微塵もなかった。
男の腰布を探る。
湿った麻の巾着。中には、薄汚れた青銅の銭が七枚と、竹の皮に包まれた握り飯のようなものが一つ。米ではなく、粗末な雑穀を塩で固めただけの代物だが、鼻を近づけても腐臭はない。
さらに男が落としていった竹槍を検分する。先端は火で炙って硬化させてあり、歩行の杖としては申し分ない。
立ち上がり、今度は自分が宿っている「弥十郎」の荷を探る。
腰に差した無銘の打刀の鞘、腰籠に納められた真鍮の火打ち金、小さな油壺、そして懐に忍ばせてあった手のひら大の「合砥」――仕上げ用の小さな砥石の欠片。
(ほう……)
宗玄の口元に、微かな笑みが漏れた。
この弥十郎という若者、足軽頭の倅だったというだけあり、道具に対する最低限の心得はあったらしい。武士にとって刃の切れ味は命そのものだ。砥石を懐に入れていたのは僥倖というほかない。
「さて……まずは屋根だ」
宗玄は竹槍を杖代わりに突き、泥濘の坂道を登り始めた。
先ほど逃げた野盗が「山の上にある炭焼きの小屋を塒にしていた」と口走っていたのを、老宗家の耳は聞き逃していなかった。
雨足を避け、体温を保ち、刃を研ぎ直す。それができなければ、次の異形が現れた瞬間にこの若い命は潰える。
小半刻ほど獣道を進むと、杉林の切れ目に崩れかけた板葺きの小屋が見えてきた。
炭焼き窯の残骸と、半分朽ちた軒先。宗玄は小屋の手前五間で足を止め、竹槍を構え直して気配を探る。
獣の臭いはしない。煙の気配もない。
音もなく引き戸に手をかけ、わずかに隙間を開けて中を覗く。乾いた土間、転がる薪の束、そして奥に積まれた煤けた藁。先客はいない。
小屋の中へ滑り込み、背後で戸を閉めて閂を落とす。
その瞬間、張り詰めていた青年の肉体から、ぷつりと糸が切れるように力が抜けかけた。
「いかん、崩れるな」
宗玄は土間に腰を下ろし、壁に背を預けて呼気を整えた。
息を吸うたびに、肋骨の奥が痛む。右の太腿は泥と古傷の血で固まり、指先は寒さで白く強張っていた。
まずは火だ。
乾いた藁を少量引き抜き、土間の隅に組む。火打ち金を打ち合わせ、火花を火口に落とす。前世の現代生活ではとっくに失われた技術だが、古流の宗家として古文書や再現稽古で触れていた所作が、淀みなく両手を動かした。
細い煙が立ち上り、やがて小さな赤い炎が藁を舐める。
薪をくべると、パチパチと爆ぜる音とともに、暖かな熱が小屋の空気を緩め始めた。
宗玄は濡れそぼった竹胴と着物を脱ぎ捨てた。
痩せてはいるが、日々の鍛錬で無駄な肉のない若い骨格。だが、あちこちに内出血の紫の斑点が浮かび、右肩の関節は微妙に位置がズレている。合戦の混乱で誰かに組み付かれたか、転倒した拍子に外れかけたのだろう。
「ふむ……骨が噛み合っておらんな」
宗玄は壁に右肩を押し当て、息を吐ききると同時に、自重をかけて肩甲骨をわずかに捻り込んだ。
ゴキリ。
鈍い音とともに、関節が本来の溝へと収まる。激痛が脳天を突き抜けたが、眉一つ動かさない。八十年の人生、稽古中の脱臼や骨折など日常茶飯事だった。
正しく嵌まった腕を回してみる。可動域が三寸広がり、首筋の突っ張り感が消えた。
「よろしい。……次はこれだ」
宗玄は土間に胡座をかき、太刀を抜いた。
雨水と泥を藁で拭い、火の明かりに透かしてみる。
刃渡りは二尺二寸。反りは浅く、身幅はやや広い。実戦本位の無骨な刀だ。だが、先ほどの異形の骨を断った箇所を中心に、三箇所の刃こぼれが白く光っていた。さらに、人の脂を吸った刃先が曇り、切れ味が鈍っている。
宗玄は懐から取り出した砥石の欠片に唾を吐きかけ、太刀の刃先へ当てた。
シュッ、シュッ、と規則正しい研磨音が、静まり返った小屋に響き始める。
砥石を当てる角度は一分の狂いもない。刃先を潰さず、ササクレを削り落とし、再び「肉を滑らかに裂く刃筋」を作り直していく。
研ぎながら、宗玄はこの世界の構造を反芻していた。
(高坂の館が落ち、この山一帯はマガツモノに呑まれた……か)
野盗の男が言っていた言葉。
マガツモノ――あの縦に裂けた口を持つ、骨と異形のバケモノ。
あれは獣ではない。人の死骸を喰らい、死線を徘徊する、この世の理から外れた怪異だ。そして、その怪異の群れによって、この地方を治めていた武家が一夜にして壊滅した。
(そして、生き残った人間たちは飢え、落ち武者を狩り、奪い合っておる)
地獄のような乱世。
だが、不思議と宗玄の胸中に絶望はなかった。むしろ、冷え切っていた血が、芯からじわりと熱を帯びてくるのを感じていた。
前世の小野塚宗玄は、平和を愛していた。弟子たちにも人を傷つけるための剣は教えなかった。
しかし、心のどこかで常に飢えていたのだ。
古の達人たちが命を削り、泥と血の中で編み出した「静観流」の真の切れ味とは何なのか。ルールに守られた防具試合ではなく、畳の上の形稽古でもない、本物の死線において、この剣理は本当に通用するのか。
「……試す機会を、神仏が寄越したというわけか」
研ぎ終えた太刀を構え、親指の爪の上に刃をそっと乗せて滑らせる。
爪に刃が吸い付くように止まる。脂は落ち、刃こぼれの角は丸められ、再び獲物を断つための鉄の牙が蘇っていた。
宗玄は立ち上がり、土間に素足で立った。
太刀を正眼に構える。
呼吸を腹の底へ沈め、若い肉体の筋肉を一つひとつ、脳内で再構築していく。
肩の力を抜き、肩甲骨を下げる。
骨盤を立て、足の指先で土を掴む。
頭頂部を天から一本の糸で吊り上げられているかのように、姿勢を垂直に整える。
(前世の儂と、この弥十郎の躰。……まだ半寸の狂いがある)
スッ、と一歩前へ踏み出す。
太刀が音もなく虚空を切り裂いた。風切り音はしない。空気を裂くのではなく、空気に刃を「滑り込ませる」静観流の一刀。
二振り、三振り。
素振りを繰り返すたびに、弥十郎の荒削りだった筋肉が、宗玄の八十年の剣理に矯正されていく。ぎこちなかった関節の動きが油を差したように滑らかになり、肉体と精神の境界が溶けていく。
「……よし」
十数合の素振りを終えたとき、宗玄の全身からは心地よい湯気が立ち上っていた。
まだ完全ではない。だが、少なくとも先ほどの泥濘での戦いよりは、数倍鋭く動ける手応えがあった。
宗玄は刀を鞘に納め、乾いた藁の上に腰を下ろした。野盗から奪った塩むすびを口に運ぶ。固く、塩辛い雑穀の塊が、空っぽの胃袋に染み渡っていく。
夜が明ければ、山を降りねばならない。
食糧も尽きる。鉄を鍛え直すための道具も、情報も必要だ。
だが、山を降りた先にあるのは平和な里ではなく、おそらくはマガツモノの脅威に怯え、疑心暗鬼に狂った人間たちの巣窟だろう。
その時、雨音の合間を縫って、遠く山裾の方角から異様な音が風に乗って届いた。
――風鈴を乱暴に鳴らしたような、甲高い金属音。
それに続いて、夜の闇を引き裂くような、女の短い悲鳴。
宗玄は咀嚼の手を止め、暗闇の奥へ鋭い視線を投げた。
「……夜歩きをする輩がおるな」
静かに太刀の柄へ手を添え、宗玄は立ち上がった。
乱世の夜は、まだ明ける気配を見せていなかった。
お読みいただきありがとうございました。
闇夜に響いた悲鳴と金属音。宗玄がどのような行動に出るのか、次話もお楽しみにしていただければ幸いです。
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