第1話 泥濘の死線
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本作は、現代で天寿を全うした古流剣術の老宗家が、異形の跋扈する過酷な乱世へと転生し、生涯をかけて磨いた剣理のみを頼りに切り拓く物語です。
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生温かい風が、鼻腔の奥へ鉄と腐肉の混ざり合った臭気を押し込んできた。
頭痛とともに意識が浮上する。濁った泥水が頬を浸し、冷たい雨粒が絶え間なく側頭部を打っていた。
視界を覆うのは、踏み荒らされた薄と、折り重なるように転がる甲冑姿の骸。折れた槍の柄、引き千切られた佩楯、そして泥に沈む無数の四肢。
(……畳の上では、なかったか)
男は肺の底から、泥水混じりの息を静かに吐き出した。
前世の記憶は鮮明だった。
小野塚宗玄。
古流「静観流」の第十四代宗家として弟子たちに囲まれ、老衰の床で静かに息を引き取ったはずだった。八十余年の生涯。木刀の素振りで擦り切れた掌、板の間を擦る足音、そして「平和な現代において古流を遺す意味」を問い続けた日々の果て。
だが、今この身体を支配しているのは、老境の枯れ木のような軽さではない。
筋は太く、骨も硬い。二十歳を出たばかりとおぼしき青年の肉体。
しかし、その全身は失血と打撲で鉛のように重く、胸板を縛る竹胴の紐が鬱血した皮膚を痛烈に締め上げていた。
状況を詮索する暇は、神仏から与えられなかった。
すぐ傍らで、濡れた布を怪力で引き裂くような、鈍い肉の破砕音が響いたからだ。
首をわずかに巡らせる。
三間ほど先。首のねじ曲がった武者の死骸に覆いかぶさり、貪り喰らっている「それ」がいた。
四肢は枯れ木のように異様に長く、関節が異様な角度で外側へ曲がっている。人の形を真似損ねたような背骨は弓なりに反り、首にあたる部位には、縦に裂けた大きな亀裂が穿たれていた。
その裂け目の奥で、びっしりと並んだ無数の細い歯が、骨を噛み砕きながら蠢いている。
(……化生の類か)
脳が現実味を拒否するより早く、八十年かけて骨の髄まで染み込ませた剣理が、男の右腕を動かしていた。
泥に半ば埋もれていた太刀の柄をまさぐる。
手汗で硬化した柄糸の感触。
小指を締め、薬指を添え、人差し指の力を抜く。
前世の手より節くれ立ち無骨だが、刀を握るための手の内は自然と定まった。
異形が、咀嚼の手を止めた。
頭部とおぼしき肉塊が、骨の軋む音を立ててこちらを向く。目鼻はない。だが、皮膚の毛穴という毛穴が「見られている」と警鐘を鳴らしていた。
間合いは二間。跳躍一歩の距離。
異形の長い前肢が泥を噛み、沈み込む。
「ふ、――っ」
男は呼気を腹の底へ落とし、泥の中で前足を半歩だけ滑り込ませた。
竹刀の軽快さではない。抜身の鉄が持つ、ずしりとした質量が右腕の筋をきしませる。
(人相手の急所を狙っても意味を成さん。……あれの重心はどこにある)
跳んできた。
雨を裂く黒い影。巨大な牙の裂け目が、男の頭部を丸呑みにせんと迫る。
男は刀を力任せに振らなかった。青年の傷だらけの肉体では、その質量を正面から受け止めれば腕の骨が砕ける。
左足をわずかに外へ開き、右肩を落とす。
前世で何万回と繰り返した「半身の捌き」。
異形の突進に対し、自らの正中線をわずか二寸だけずらし、すれ違いざまに太刀を構えた。
刃を叩きつけるのではない。
相手の突進する勢いを利用し、異形の喉元――前肢の付け根にある骨の継ぎ目へ、鍔元に近い頑丈な刃の腹を「当てる」ようにして滑らせた。
ズシ、と鈍い手応え。
脂の乗った筋繊維を断ち切る感触とともに、異形は自らの質量で自らを切り裂き、泥濘へ激しく転倒した。
「ギチッ、ガァアッ!」
縦に割れた口から濁った体液を撒き散らし、異形が暴れる。
男は息を乱さず、よろめく足を泥に食い込ませて間合いを詰めた。
刀を両手で握り直し、刃先を垂直に立てる。暴れる異形の背骨の隙間、肉が裂けて覗いた白い頸椎の継ぎ目を見極め、己の体重のすべてを柄頭に乗せて真下へと穿ち落とした。
ゴキリ、と硬い骨を貫く感触が柄を通じて掌に伝わり、異形は一度だけ大きく痙攣して泥の中に沈黙した。
「……ふう」
男は太刀を引き抜き、荒い呼気を整えながら切っ先を改めた。
刀身の半ばに、三箇所ほど指の爪ほどの刃こぼれが走っている。
「……横着をして骨に当てすぎたな。安物の刀か、あるいは手入れが怠られていたか」
独りごちた声は、前世の嗄れ声ではなく、低く濁った青年のものだった。
だが、その声音には老境特有の底知れぬ静けさがある。
余韻に浸る暇もなく、背後の笹薮がガサリと音を立てた。
一つではない。三つ。泥を踏みしだく、不揃いな足音。
「おい……見ろよ。バケモノを仕留めてやがる」
「手負いだ。肩で息をしてやがるぜ」
「あの刀と胴丸、城下の古道具屋に持ち込めば米三俵にはなるな」
現れたのは男が三人。
粗末な麻布を巻き、先端を斜めに削った青竹の槍と、錆で赤く染まった鉈を下げている。落ち武者狩りの野盗か、あるいは食い詰めた百姓か。眼球の奥に宿る濁った光は、飢えた野犬のそれと変わらない。
(息をつく間もないか)
男は心の中で苦笑した。
前世では、形の美しさや理合を説くだけで、人を殺める刃の重みを知らずに生涯を終えた。それがこの見知らぬ泥塗れの天地では、目覚めて半刻も経たぬうちに二度目の殺し合いを強いられている。
「おい、落ち武者! 刀を置いて這いつくばりな!」
先頭の背の高い男が、下卑た笑みを浮かべながら竹槍を構えた。両脇の二人が左右へ散らばり、退路を塞ぐように間合いを詰めてくる。
包囲の陣。だが、足の運びがまるで揃っていない。
男は刀を上段に構えることもなく、切っ先をだらりと泥に向けて下段に垂らした。
「草木も眠る」と称される、静観流特有の脱力の構え。
「……身ぐるみを剥ぐのは勝手だがな」
青年の喉から出た言葉は、冷や水のように澄んでいた。
「その前に、誰から先に死ぬか、話はついておるのか?」
「ああん!?」
竹槍の男が苛立ちを露わにし、泥を蹴って突進してきた。
体重をすべて前に預けた、無造作な突き。槍先の軌道は完全に読めていた。
男は左足をわずかに半歩、前へ滑らせる。
前世で八十年磨き上げた「入り身」。
竹槍の切っ先が武者の首筋を紙一重で空転した瞬間、男はすでに槍を繰り出した男の懐の内側、相手の右肘の真横に立っていた。
太刀を振るう空間はない。男は左手の掌底で、太刀の柄頭を相手の顎下へ向けて下から鋭く突き上げた。
ガツン、と頭蓋骨の軋む鈍い音が響く。
男の顎が跳ね上がり、視線が宙を泳ぐ。その無防備になった喉仏へ、男は返した太刀の鍔元を添え、水平に引いた。
じゅわり、と温かいものが溢れ出た。
「カ、……ッ」
男は喉を押さえ、泥の中に膝を突いた。
手の中で噴き出す血の熱さ。肉を断ち切る生々しい抵抗感。前世の自分が決して知ることのなかった、本物の人間の生命が零れ落ちる感触が、掌を通じて全身の毛穴を粟立たせる。
(……これが、人を斬るということか)
内臓の底が冷え返るような戦慄。
だが、老いた精神は動揺に足を止めさせなかった。
「て、てめぇ……!」
残る二人が硬直した。仲間が一瞬で、何の派手な動きもないまま喉を裂かれた光景が、彼らの頭の理解を超えていたのだ。
致命的な「虚」。
男は返り血を浴びた顔のまま、静かに前足を一歩踏み出した。
「立ち位置を誤っているぞ」
乾いた声とともに、男は生き残った二人の「重なり」へ向けて滑り込む。
二人が同時に槍を繰り出せぬよう、手前の男の影に奥の男を隠す運足。多対一を、連続した一対一へと解体する古流の理合。
手前の小柄な男がパニックに陥り、錆びた鉈をデタラメに振り回した。
男は一歩引いて空振らせ、相手の肘が伸び切った刹那、太刀の峰でその手首の骨を容赦なく叩き折る。
「ぎゃあっ!」
鉈が泥に落ちる。男はその男の襟首を掴み、奥で竹槍を構え直そうとしていた三人目に向けて力任せに投げつけた。
人間同士が衝突し、泥水の中に転がる。
男は太刀をだらりと下げたまま、泥を踏みしめて歩み寄った。
刃こぼれした刀身から、赤い雫が雨水とともに滴り落ちる。
「ひ、ひぃっ……!」
手首を折られた男を突き飛ばし、三人目の男が尻餅をついたまま後ずさる。先ほどまでの下卑た欲望は消え去り、瞳には底知れぬ化け物を見るような恐怖だけが張り付いていた。
「助け……悪かった! 見逃してくれ、身ぐるみなんか剥がねえから!」
男は青年特有の切れ長な目を細め、冷ややかに見下ろした。
老境の心は、無益な殺生を好まない。だが同時に、甘さを残せば背後から刺される乱世の冷酷さも、八十年の読書と見聞で弁えていた。
「……一つ、問う」
男は切っ先を、恐怖で震える男の鼻先三寸へぴたりと止めた。
「ここはどこの領地だ。それと……あの人外のバケモノは、このあたりにどれほど巣食っておる?」
「え……?」
「答えよ。次はお主の喉にこの刃を滑らせる」
「い、言う! 言うから刃を引いてくれ!」
男が早口で喚き立てる。
ここは北嶺の山中、かつて高坂という土豪が治めていた地だが、三日前の夜に突如現れた無数の「マガツモノ」によって館が落ち、領主も一族も皆喰い殺されたのだという。
生き残った兵や百姓はちりぢりに逃げ出し、いまやこの山一帯は、人食いの異形と、落ち武者を狙う野盗だけが徘徊する死地と化していた。
(……なるほど。この肉体の主も、その合戦で敗走した一人というわけか)
記憶の片隅にある断片的な残滓が、男の言葉と一致する。
この青年の名は、九十九弥十郎。十九歳。足軽頭の倅として槍を取ったが、異形の襲撃に部隊は瓦解し、ここまで逃げ延びて力尽きたのだ。
「ぜ、全部話した! 見逃してくれ……!」
男は切っ先を静かに引いた。
「行け。倒れている仲間を連れて、里へ降りろ。……二度と抜身を向けるなよ」
「ひ、ひいっ!」
野盗は手首を押さえて呻く仲間を無理やり引きずり起こすと、泥を跳ね上げながら笹薮の向こうへ転がるように逃げ去っていった。
しん、と静まり返る雨の山道。
残されたのは、喉を裂かれて泥に沈んだ最初の野盗の骸と、異形の死骸。
そして、血塗れの太刀を提げた一人の青年だけだった。
「九十九、弥十郎……か」
男は己の手を見つめ、握り直した。
若い皮膚。だが、人を斬った右腕は、まだ微かに芯が粟立っている。
小野塚宗玄としての八十余年、追い求め続けた「古流の理合」。まさか命脈尽きた後に、このような血生臭い現世で、その切れ味を試すことになろうとは。
「……業の深いことだ」
自嘲気味に呟きながら、弥十郎――宗玄は、転がっていた野盗の死骸から麻の布切れを剥ぎ取り、太刀の血脂を丁寧に拭い始めた。
雨はまだ止みそうにない。まずは濡れた身体を休め、この鈍った刃を研ぎ直せる場所を探さねばならなかった。
泥濘の死線に、ひとりの老剣士の新たな呼吸が、静かに刻まれる。
第1話をお読みいただきありがとうございました。
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次話は本日更新予定です。




