第17話 砦の軍容、老将の品定め
西日が山稜を血の色に染め、長く伸びた影が土塁の斜面を這い上がっていた。
成瀬新十郎に先導され、宗玄は二重の逆茂木の隙間を抜けた。
丸太の切り口にはまだ白さが残り、打ち込まれた太い鉄鎹には油が引いてある。急造の防陣ではあるが、突貫工事特有の歪みや隙間は見当たらない。
砦の内側へ足を踏み入れた宗玄の鼻腔を、微かな藁灰と炊き出しの湯気の匂いがくすぐった。
黒石の宿場町を満たしていた、腐敗した傷口と恐怖の混ざり合う饐えた臭気はない。
土間に並べられた俵にはきっちりと菰が掛けられ、二人の足軽が槍の石突を揃えて番に立っている。天幕の脇では、鍛冶師とおぼしき職人が炭火を起こし、長柄の曲がった穂先を鎚で叩いて焼き直していた。泥濘を歩く兵たちの草鞋の音すら、どこか一定の拍子を保っている。
(統率の利いた陣だ……)
宗玄の老いた鑑識眼が、砦の隅々を素早く値踏みする。
兵力は百に満たない。だが、兵糧の管理と武器の保全が徹底されている。上に立つ者が、乱世における「兵の損耗と士気の維持」を骨の髄まで弁えている証左だった。
「こちらだ、九十九殿」
新十郎が陣幕の垂れ布を押し上げた。
幕の内には、白木の床几が据えられ、奥に掛けられた床の間には「不動心」の墨書が掲げられていた。
床几に腰掛けていたのは、六十を数えたとおぼしき老将だった。
白髪をきっちりと結い上げ、羽織った藍染めの直垂の左袖は、肘のあたりで結ばれて虚空に垂れ下がっている。隻腕。
だが、右手の太い指先が膝の上に置かれた様は、巨岩が大地に根を張ったような重みを持っていた。右頬から顎にかけて走る古い太刀傷が、西日の赤光を浴びて白く引き攣れている。
「兵部様。境目の斥候より戻りましてございます」
新十郎が膝を突き、深々と頭を垂れた。
「……新十郎か。その若造はどこの落ち武者だ」
梶原兵部の声は、低く濁った鐘の音に似ていた。
隻腕の老将の細い眼光が、新十郎の背後に立つ宗玄を捉える。
破れた小袖、泥の落ちた竹胴の残骸、そして――背負われた四尺八寸の大太刀。
新十郎はわずかに口篭り、屈辱を噛み殺すように告げた。
「……高坂の足軽頭が倅、九十九弥十郎殿と名乗っております。某、不審を抱いて立ち合いましたが……抜刀の一撃も許されず、体捌きのみにて転がされました」
「ほう?」
兵部の白眉がわずかに持ち上がった。
新十郎は佐原家中でも太刀筋の良さで知られる若手。それを抜身も見せずに制したという。
宗玄は歩みを半歩進め、両手を膝に添えて頭を軽く下げた。武家の礼法に寸分の狂いもない、静かな姿勢。
「九十九弥十郎と申します。梶原兵部殿とお見受けいたす」
「足軽の小倅が、ずいぶんと古風な礼を執るな」
兵部は隻眼のような鋭利さで宗玄の全身を射抜いた。
「背負いし長刀、備前長船の作風と見える。高坂の家中にその大太刀を佩く武者は一人しかおらぬはず。……指南役を務めておった、大河原典膳殿の得物だ。なぜ貴様がそれを持っておる」
「典膳殿が変異された『業鬼』より、常世穴の奥底にて奪い取りました」
宗玄は平然と答えた。
「高坂は三日前の夜に壊滅。黒石の代官は保身に狂い、穴の封鎖を口実に落ち武者らを捨て駒として突入させました。某は穴の底で典膳殿の業を断ち、落石の裏の裂け目からこの地へ抜け出たまで」
陣幕の内が、しんと静まり返った。
新十郎が息を呑む気配。
兵部は動かない。宗玄の瞳を、じっと見据えている。
そこに虚飾や誇張の色を探ろうとしているのだ。だが、青年の両眼には、波一つ立たない秋の湖面のような静寂があるだけだった。
「……典膳殿が、業鬼となったか」
兵部が深く、重い息を吐き出した。
「剛剣をもって鳴らした男だ。我が佐原でも、立ち合って勝てる者は片手もおらんかった。……それを、お主が断ったと申すか」
「剛力を正面から受けず、間合いの長さを狭隘な岩肌に噛ませ、自重の崩れに刃を滑り込ませたまでのこと。……理合に従えば、人外の剛腕とて断つに難くはございません」
宗玄の淡々とした返答に、兵部の口元が微かに緩んだ。
「理合、か。……小倅、年の頃は二十前と見えるが、腹の中に百戦の古狸を飼っておるような口を利く」
兵部は立ち上がり、片腕で腰の帯を直した。
「よい。黒石の代官の腐りようは兼ねてより耳に入っておる。貴様を間者として斬る理由は失せた。……新十郎、この者に乾いた粗衣と、塩を利かせた握り飯を二つ持たせよ。裏の厩の板の間に寝床を空けい」
「はっ!」
「九十九殿とやら。貴殿のその腕、佐原の境目で貸してもらえぬか。……ただ飯を食わせるほど、今の我が領も長閑ではない」
兵部の視線が、西の空――暗雲が垂れ込め始めた山あいの谷間へと向けられた。
「高坂の山から抜け出たのは、貴殿だけではないのだ。昨夜半、街道を外れた深山にて、斥候の二人が喉を掻き切られて死んでおった。傷口は太刀筋ではない。……鋭利な嘴か鉤爪で引き裂かれたような跡だ」
宗玄の脳裏に、かつて思い描いたマガツモノの分類が浮かび上がった。
(……烏天狗、嘴喰の類か)
空中からの急降下、群れを成す人型の鳥類。
地を這う骨喰や糸繰とは、間合いの捉え方が根本から異なる敵。
「鳥の如き叫びを上げ、木々の間を跳び交う化生が、二体か三体、この砦の背後の山林に巣食っておる。……今宵、奴らがこの境目の防陣を空から越えれば、背後の村々が血に染まる」
兵部が宗玄を振り返った。老将の隻腕の肩が、微かに吊り上がる。
「貴殿のその『理合』とやらで、空を飛ぶ人外の首を落とせるか」
宗玄は背負った大太刀の鹿革紐を指先でなぞり、静かに息を吸い込んだ。
「……落ちてくるものには、必ず重力が働きます。落ち際の一寸を見極めれば、鳥とて同じこと」
老宗家の平穏な声が、夕闇の陣幕に冷たく染み渡っていった。
お読みいただきありがとうございました。
隻腕の老将・梶原兵部との邂逅、そして提示された「空飛ぶ人外」の討伐。新たな敵を前に、宗玄の剣理がどう冴え渡るのかご期待ください。
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