第16話 境目の逆茂木、無抜の一撃
街道の砂利を踏む規則正しい蹄音が、秋の冷え始めた風に乗って近づいていた。
宗玄は歩みを止めず、道端の枯れ薄の際へと身体を寄せた。
前方三町ほどの街道筋に、頑丈な丸太を組んだ二重の逆茂木と、突き固められた土塁が見える。
土塁の上には「違い矢」の定紋を染め抜いた紺色の旗指物が等間隔で風を孕み、黒漆の胴丸を着込んだ弓兵が三人、街道を見下ろして直立していた。
黒石の無秩序な混乱とは異なる。
境界を封鎖し、怪異や流民を徹底して選別するための、規律ある軍陣の構え。
「何者だ! その場に止まれ!」
鋭い怒号とともに、前方の木立から四騎の馬が躍り出た。
同時に、左右の笹薮から六人の足軽が長柄の槍を水平に揃え、街道の中央へ躍り出る。
無駄口はない。足軽たちの穂先は寸分の狂いもなく宗玄の膝と喉仏に定まり、騎馬の二騎が左右へ展開して退路を塞ぐ。手慣れた包囲の陣。
宗玄は両手をだらりと下げ、足裏を砂利の上に落ち着かせた。
背負った大太刀の鹿革紐が微かに軋む。
先頭の騎馬武者が手綱を引き、泥を跳ね上げて馬を止めた。
二十代半ばとおぼしき若武者。鉄黒の筋兜に三枚錣を垂らし、腰には研ぎ澄まされた太刀を佩いている。若いが、その眼光には実直な軍律を守る者特有の硬質な光が宿っていた。
「……落ち武者か」
若武者の冷徹な視線が、宗玄の破れた小袖と竹胴の残骸、そして――背中に括り付けられた四尺八寸の豪刀へと注がれた。
「奇妙な身なりだな。高坂の足軽風情が身につける竹胴をまといながら、背負うはその豪刀。……どこで掠め取った。高坂の館の焼け跡から逃げ出してきた盗賊か」
足軽たちの槍衾が一斉に半歩前進し、切っ先が宗玄の鼻先一尺へ迫る。
宗玄は眉一つ動かさず、静かに呼気を整えた。
「某は高坂の足軽頭、九十九が倅、弥十郎。盗賊ではない」
青年の低く澄んだ声音。
怒りも焦りもないその響きに、若武者の眉がわずかに動いた。
「高坂は三日前の夜にマガツモノの群れに呑まれ、壊滅いたした。某は山中の常世穴へと潜り、元凶となっていた業鬼の首を落としてここへ抜けて参った。この刀は、その業鬼の佩いていた得物よ」
事実のみを淡々と告げる言葉。
だが、若武者の口元には冷笑が浮かんだ。
「戯言を。常世穴は人外の巣窟。我が佐原家でも、物頭十騎を率いてなお封鎖が精一杯の死地だ。それを足軽上がりの小倅が一刀で断ったなどと、どこの間者が吐く出任せだ」
若武者は鞍の上から身を乗り出し、腰の太刀の鍔を親指で弾いた。カチリと澄んだ音が鳴る。
「佐原領の境目代官、梶原兵部が配下、成瀬新十郎である。怪しき落ち武者、その背の大太刀と腰の刀を地面へ捨て、縄を受けよ。……刃向かうならば、この場で間者として両断する」
「縄は受けられぬ」
宗玄は穏やかに首を横に振った。
「乱世において武士が腰の鉄を捨てるは、自ら首を差し出すに等しい。……それに、某の言葉に偽りがあるか否かは、この刀を合わせずとも知れるはず」
「減らず口を!」
新十郎の双眸に鋭い殺気が宿った。
男は馬腹を蹴って飛び下り、砂利を踏みしめて宗玄の正面二間へと進み出た。
抜刀はしない。鞘を払わぬまま、右手に提げた鞘付きの太刀を中段に構える。
「貴様の骨柄がただの足軽か、それとも腕利きの間者か、我が太刀の鞘で確かめてやる。……抜け、九十九弥十郎」
宗玄は腰の打刀へ手をかけなかった。
右手を下げ、左手もだらりと垂らし、ただ自然体で砂利の上に立つ。
「抜くには及ばぬ。……お主の気の済むように打ち込まれるがよい」
「愚弄するか!」
新十郎の踏み込みは鋭かった。
佐原家に伝わる実戦の太刀法。鞘走りを効かせ、相手の鎖骨を砕かんと斜め上段から振り下ろされる、無骨な鞘当ての一撃。風を裂く重い唸り。
だが、宗玄の眼には、その初動のすべてが白日の下に晒されていた。
踏み込む前の一瞬、新十郎の右肩がわずかに一分吊り上がり、左の踵が泥を踏みしめる「起こり」。
(打ち気に逸って、正中線が前のめりになっておる)
宗玄は太刀を抜かなかった。
半歩。
前へ滑り込むのではなく、新十郎が振り下ろす軌道の真下、相手の右肘の真横へ向けて、音もなく身体を横滑りさせた。
静観流・身構えの極意「葉隠の体捌き」。
ヒュンッ!
新十郎の鞘が、宗玄の左耳の横わずか半寸の虚空を切り裂いた。
空振りの瞬間、新十郎の顔に驚愕が走る。相手を捉えたはずの視界から、青年の姿が煙のように消え失せていたからだ。
すでに宗玄は、新十郎の懐の内側、完全に無防備となった右脇腹に密着していた。
宗玄は拳を握らない。
左手の掌底を、新十郎の右脇の肋骨の隙間へそっと当てた。
そして、腰の打刀の「鞘尻」を、新十郎の右膝の裏の窪みへと、滑り込ませるように引っ掛けた。
打撃ではない。
相手の前傾する運動エネルギーを、支点を変えて回転させる「てこの理」。
「なっ――!?」
新十郎の視界が反転した。
足元を払われたわけでも、力任せに突き飛ばされたわけでもない。自らが全力で踏み込んだ勢いのまま、天と地がひっくり返り、背中から砂利道へ叩きつけられていた。
ドサァッ!
砂煙が舞い上がる。
新十郎の手から太刀が零れ落ち、砂利の上を転がった。
「若殿ッ!?」
周囲の足軽たちが色めき立ち、槍の切っ先を宗玄へ向けようとした瞬間――。
宗玄はすでに、倒れ伏した新十郎の胸元へ、静かに歩み寄っていた。
抜刀はしていない。腰に差したままの打刀の鐺が、新十郎の喉仏の上、わずか一寸の位置にピタリと止められていた。
動けば、喉が砕ける。
新十郎は仰向けに倒れたまま、息を呑んで硬直した。
額から冷や汗が噴き出し、胸板が激しく上下する。
何が起きたのか、頭の理解が追いついていなかった。刀を抜くことすら許されず、触れられた感触すらないまま、一瞬で地面に転がされていたのだ。
「……打ち込みの筋は悪くない」
見下ろす宗玄の声は、秋の湧き水のように澄んでいた。
「だが、相手の呼吸を見ずに太刀を振れば、自らの勢いに呑まれる。……某に敵意はない、成瀬殿」
宗玄は静かに鞘尻を引き、半歩下がって姿勢を正した。
敵意のない構え。だが、その佇まいは、周囲を取り囲む槍の穂先をまるで道端の枯れ枝であるかのように無視していた。
新十郎は震える手で砂利を掴み、ふらつきながら上体を起こした。
落とした太刀を拾い上げることすら忘れ、泥塗れの青年を凝視する。
(……化け物か。この身のこなし、百戦錬磨の老将ですら見たことがない……)
恐怖ではない。
純粋な武芸者としての圧倒的な力量差に対する、底知れぬ戦慄。
新十郎は荒い息を整えると、泥を払って立ち上がり、周囲の足軽たちへ片手を挙げて制した。
「……槍を引け」
足軽たちが戸惑いながら穂先を下げる。
新十郎は宗玄に向き直り、腰の太刀を両手で拾い上げると、深々と頭を下げた。
「……我が浅慮、平にご容赦願いたい。某の太刀筋など、端から見切られていたか」
「構わぬ。境目を守る武士として、当然の警戒よ」
宗玄の老成した返答に、新十郎は奇妙な畏敬の念を抱きながら、背後の陣構えへと手を差し伸べた。
「九十九殿とお呼びすべきか。……貴殿のような達人を、この境目で野垂れ死にさせるわけにはいかん。我が主、梶原兵部様に引き合わせたい。……陣中へお越し願えるか」
宗玄は秋空を仰ぎ、静かに頷いた。
乱世の渦中、老宗家の剣理は、新たな主筋と領地の狭間へと足を踏み入れようとしていた。
お読みいただきありがとうございました。
刀を抜くことすらなく若武者を制した宗玄。境目を守る代官・梶原兵部との対面がどのような展開を生むのか、ご期待ください。
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