第14話 常世の曙光、業を断つ刃
岩盤を噛んだ大太刀の軋みは、業鬼が強引に腕を引き絞った瞬間、鍾乳石を砕く鈍い破砕音へと変わった。
石の粉塵が白く舞い散る。
その刹那、宗玄はすでに踏み込んでいた。
退路のない石柱の狭間。間合いは一尺にも満たない。
業鬼の喉奥から、地鳴りのような唸りが漏れた。大太刀を引き抜く暇なしと悟るや、巨躯は空いた左手を熊手のように開き、宗玄の頭蓋を握り潰さんと振り下ろしてくる。黒々とした爪が空気を引き裂く。
宗玄は刃を掲げて防ぐ愚を冒さない。
左手を下から差し入れ、相手の太い手首の内側――腱が走る窪みへ、己の掌底を柔らかく当てた。
打撃ではない。添えるだけの手の内。
静観流・組太刀裏の理合「水月の受け」。
業鬼の怪力が、宗玄の掌を通じてそのまま青年の肉体へとなだれ込む。宗玄はその凄まじい衝撃を腕で受け止めず、骨盤をわずかに右へ旋回させ、右足の地下足袋から一枚岩の床へとそのまま逃がした。
足裏の岩肌が擦れ、わずかに煙が立つ。
行き場を失った業鬼の剛力は、自らの前傾した質量となって巨躯を前のめりに引き倒した。
重心の完全な崩壊。
大鎧の首当てと胴丸の間に、拳ふたつ分の隙間が生じる。
露出したのは、青黒く脈打つ太い筋繊維と、その中心で赤熱した炭のように脈動する拳大の「黒鉄の核」。
(……八十年の道程、無駄ではなかったぞ)
宗玄の胸中に、老いた確信が満ちる。
呼気を吐ききり、全身の筋肉の緊張を水のように抜いた。
抜力による「落下の質量」。
青年・弥十郎の肉体がおよそ百四十斤(約80kg)の重力塊となり、両手で垂直に掲げた打刀の切っ先へと収束する。
吉蔵が鍛え直した黒鉄の刀身。
反りの捩れを正し、粘りを極限まで高めた白刃が、重力と合気のすべてを乗せて真下へと穿ち落とされた。
ズンッ。
甲高い音はしなかった。
まるで熱した鉄棒を脂身に押し当てたかのような、重苦しく湿った抵抗感。
黒鉄を噛ませた刃筋が、業鬼の首筋の硬化した筋を断ち割り、その奥に鎮座していた心核の真芯へと深々とめり込む。
「――ガ、ギッ……!?」
面頬の奥の赤い双眸が、激しく明滅した。
宗玄は両足を踏み締め、刃を押し込んでは引く「鋸の理」で、手首をわずかに返した。
パキンッ。
冷たい鍾乳洞の底に、乾いた氷が割れるような音が響き渡った。
業鬼の核が、内部から四つに裂けて砕け散る感触が、柄を通じて掌の皮を震わせる。
刹那、業鬼の喉から、耳介を聾するような断末魔の咆哮が吹き上がった。
巨躯が激しく痙攣し、鎧の継ぎ目という継ぎ目から、黒い煤煙のような瘴気が噴き出す。
宗玄は太刀を一気に引き抜き、血飛沫の届かぬ間合いへと身を翻した。
バシャアンッ。
支えを失った漆黒の大鎧が、自らの重量に耐えかねて岩盤の上に崩れ落ちた。
鍾乳石に深々と噛み合っていた五尺の大太刀が、持ち手を失って甲高い音を立てて倒れ、石畳の上を滑る。
巨躯を繋ぎ止めていた黒い筋繊維は、心核の破壊とともに急速に炭化し、灰となって冷たい風に散っていった。
残されたのは、抜け殻となった煤けた大鎧と、主を失った無傷の豪刀だけだった。
「……ふう、――っ」
宗玄は膝をつきそうになる身体を、太刀の石突を床に立てて辛うじて支えた。
額の傷から流れた血が顎を伝い、泥の上に落ちる。
全身の関節が軋み、右腕の筋肉は引き攣れたように熱を持っていた。だが、骨の折損はない。吉蔵の打刀を検分すると、業鬼の核を砕いたというのに、刃こぼれひとつなく青白い刃文が澄み渡っていた。
宗玄は荒い息を整えながら、岩場に転がった業鬼の長刀へ歩み寄った。
柄を拾い上げる。ずしりとした手応え。
刃渡りは四尺八寸。身幅は広く、重ねも厚い。だが、腰反りが深くついており、重心が鍔元に近いため、見た目ほどの重さを感じさせない。
刃先を透かすと、波打つような乱れ刃の刃文が、青白い光の下で静かに輝いていた。
「……名のある刀工の手による業物だな。高坂の重臣が佩いていたものか」
錆びひとつない白刃。マガツモノの骨を断つための、これ以上ない剛刀だった。宗玄は転がっていた大鎧の佩楯から丈夫な鹿革の紐を切り取り、長刀を背負えるよう手早く結わえ付けた。
ふと、周囲の空気が動いた。
洞窟の壁面を覆っていた青白い発光苔の光が、急速に色褪せていく。
澱んでいた生温かい腐臭が引き、代わりに、どこからか清冽な土と草木の匂いが流れ込んできた。
核を失ったことで、常世穴を満たしていた瘴気が急速に霧散しているのだ。
宗玄が顔を上げると、大空洞の奥、崩落した巨石柱の背後の岩壁に、亀裂が走っているのが見えた。
天井の裂け目から、一筋の白い光が射し込んでいる。
外の光だ。
宗玄は二本の刀を身に帯び、瓦礫を足掛かりにしてその裂け目へと攀じ登った。
冷たい風が顔を撫でる。湿った土の匂いが濃くなり、やがて狭い岩穴を抜けた瞬間、眩い光が視界を満たした。
視界一面に広がっていたのは、朝露に濡れて黄金色に輝くススキの野だった。
鳥の囀りが耳に届く。
東の空から、雲の切れ間を縫って柔らかな陽光が山肌を照らしていた。雨は完全に上がり、秋の澄み切った大気が肺を満たしていく。
宗玄は崖の縁に立ち、眼下を見渡した。
谷を隔てた遠くの山裾に、黒板塀で囲まれた宿場町「黒石」の町並みが、芥子粒のように小さく見えている。
町を守る代官、そして自分たちを使い捨ての囮として穴に閉じ込めた武者頭・鳥羽。
彼らは今頃、先陣が全滅し、常世穴が土砂で埋まったと信じて安堵していることだろう。
だが、宗玄の老いた胸中に、憎悪や焦燥の炎は燃え上がらなかった。
八十余年の人生で、人の浅ましさや乱世の不条理など、嫌というほど見届けてきた。謀略に憤って無謀に斬り込むのは、血気盛んな若者のやることだ。
(黒石へ戻る道もある。だが……)
宗玄は背に負った剛刀の重みと、腰の打刀の確かな感触を確かめた。
手元には、マガツモノの骨を断てる二振りの鉄の牙。
そして、この若い肉体に馴染み始めた、前世の研ぎ澄まされた剣理。
急ぐ必要はない。
まずはこの山野で傷を癒やし、肉体を完全に調律する。そして、乱世を武士として、一人の剣士として生き抜くための足場を、己の力で固めればよい。
「……さて。まずは腹ごしらえと、刀の手入れだな」
初老の落ち着きを湛えた十九歳の青年は、朝日に背を向け、静かに山裾の獣道へと歩み出した。
泥濘の死線を越えた老宗家の新たな道が、ここから始まろうとしていた。
お読みいただきありがとうございました。
常世穴の激闘を制し、ついに死地を脱した宗玄。第一章にあたる脱出劇がここに完結となります。
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