第12話 常世の胎動、業の太刀筋
落石の重苦しい振動が静まり、背後の暗闇は完全に閉ざされた。
空気が変わる。
外の雨の冷たさとは異なる、ぬめり気のある地下の熱気。滴る水滴が鍾乳石を伝い、ペチャリ、ペチャリと等間隔で岩肌を叩く。
松明はない。だが、湿り気を含んだ鍾乳洞の壁面には、青白く脈打つ発光苔がびっしりと張り付いていた。その不気味な燐光が、天井から垂れ下がる無数の石柱を、巨大な獣のあばら骨のように浮かび上がらせている。
宗玄は静観流の「摺り足」を保ったまま、音もなく傾斜を下っていた。
足裏の地下足袋が、濡れた石灰岩の凸凹を捉える。滑りやすい泥濘、鋭利な岩の角。足場の悪さは前世の道場とは比べ物にならないが、重心を低く落とし、膝の力をわずかに抜いていれば、身体の芯は一切揺らがない。
懐の丸薬が効いている。舌の裏に残る苦味が、鼻腔を満たす濃厚な血脂の悪臭を押し返していた。
(……ほう)
洞窟が大きく開けた広間に出た瞬間、宗玄は鍾乳石の陰に身を滑り込ませ、息を殺した。
青白い燐光に照らし出された洞底の泥濘には、夥しい数の甲冑や武具が、死骸とともに幾重にも折り重なっていた。高坂の合戦で斃れた兵の残骸が、雨水とともにこの地底へ流れ着いたのか、あるいはマガツモノたちが巣へ引きずり込んできたのか。
その骸の山が、微かに蠢いていた。
泥の中から立ち上る赤黒い瘴気が、錆びた南蛮胴や折れた槍、そして白骨の隙間へと、血管のように絡みついている。
骨が軋み、鉄板が擦れ合う鈍い音。
引き裂かれた四肢が黒い筋繊維で継ぎ合わされ、新たな「骨喰」の歪な四つ足が泥を掻き分けるようにして生み出されていた。
(獣の変異ではない。……血と怨念が、この地の歪みに呑まれて形を成しておるのか)
自然の理から外れた怪異の発生。
だが、宗玄の老いた観察眼は、そこに潜む「力学の原則」を見逃さなかった。
いかに異形と化そうと、動くためには骨格の支点があり、肉を引っ張る筋肉や腱の代用物が存在する。理合を解剖し、支点を断てば、どれほど巨大な怪異であれ自重で崩壊する。それは先刻の錆甲冑で実証済みだった。
宗玄は気配を消したまま、その蠢く泥濘を迂回し、さらに奥へと続く巨大な竪穴の回廊を進んだ。
風が吹いている。
洞窟の最奥から、生温かい呼気のように吹き上がってくる地脈の風。
硫黄の匂いと、冷え固まった古い血の匂い。
やがて足元は完全に平坦な一枚岩へと変わり、視界が途方もなく広がった。
巨大な地下空洞。
天井は闇に溶けて見えず、中央には天から突き落とされたような巨石の柱が一本、地底の泥土を穿つように聳え立っていた。
そして――その石柱の前に、「それ」がいた。
人丈を優に超える巨躯。
だが、これまで対峙してきた骨喰や糸繰のような、知性を失った獣の四つ足ではない。
二本足で直立し、煤けた漆黒の大鎧を隙間なく纏っている。兜の吹き返しは折れ、面頬の隙間から覗くのは、爛々と赤く光る二つの双眸。首筋から胸元にかけて、黒い鉄の塊と乾いた筋繊維が皮膚を突き破り、人外の筋骨を形成していた。
――業鬼。
かつて高坂家に仕え、剛勇をもって知られた武将か、あるいは城下に名を馳せた流派の指南役か。生前の武骨な威厳をそのまま鎧ごと残しながら、常世の瘴気を限界まで吸い上げて人外の悪鬼と化した存在。
業鬼が、宗玄の気配に反応してゆっくりと首を巡らせた。
ギリ、ギリと、首の骨と鉄板が擦れ合う音が大空洞に反響する。
その右手には、五尺に近い豪壮な太刀が握られていた。
錆びてはいない。青白い苔の光を浴びて、妖しい刃文をギラつかせる一振りの名刀。
宗玄は足を止めた。間合い、五間。
相手の足幅、腰の落ち方、そして太刀の構え。
(……我流の振り回しではないな)
宗玄の背筋に、氷を当てられたような戦慄が走った。
だが、それは恐怖ではない。
老剣士の血が、八十年の時を超えて、皮膚の表面を粟立たせる歓喜の熱さだった。
業鬼の構えは、完璧な「正眼」だった。
切っ先がわずかに宗玄の喉元を捉え、両足の親指が硬い石畳の床をしっかりと掴んでいる。巨躯でありながら、腕力に任せた無駄な力みが肩に一切入っていない。
死してなお、肉体に刻み込まれた「武芸の型」が、この人外の躰を正確に制御していた。
「……見事な構えだ」
宗玄は青年の喉から、静かに独り言を落とした。
力任せの怪異なら、入り身と合気で重心を奪える。だが、相手もまた間合いを測り、正中線を奪い、刃筋を通す術を知る者であるならば――ここから先は、純粋な「理合の削り合い」となる。
宗玄は腰を落とし、打ち直された黒鉄の打刀を右手に握った。
親指の腹で鍔を弾く。
カチリ。
澄んだ金属音が大空洞の岩壁を反響し、水滴の落ちる音をかき消した。
抜刀。
二尺二寸の白刃が、青白い燐光の下で静かに抜き放たれる。
構えは、静観流・「下段の霞」。
切っ先をだらりと床面へ垂らし、右肩を下げ、全身の力を丹田の底へと沈める。
一見すれば無防備な死に体。だが、相手が一歩踏み込めば、最短の軌道で喉首を突き上げる無形の罠。
業鬼の赤黒い双眸が、わずかに細まった。
刃を向けられた怪異が、その足裏で一枚岩の床を微かに擦る。踏み込みの予備動作。
息詰まる沈黙の中、落ちる水滴が岩を叩いたその刹那――。
巨大な黒鎧の影が、大空洞の空気を爆ぜさせて踏み込んできた。
お読みいただきありがとうございました。
常世穴の最深部に君臨する、武芸の型を宿した巨躯の怪異「業鬼」。達人同士の理合を懸けた立ち合いの幕が上がります。
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