第11話 峡谷の血煙、黒刃の胎動
頭上の枝葉が夜空を完全に覆い隠し、切り立った岩肌の間に吹き込む風が、湿った土煙を巻き上げていた。
道幅は一間半。荷車一台がやっと通れるほどの狭隘な切り通し。
両脇には切り立った黒々とした岩壁が迫り、逃げ場はない。
「う、わあぁあっ!」
先頭を進んでいた盗賊上がりの男が、喉を引き裂くような絶叫を上げた。
闇を割って降ってきたのは、無数の黒い影。
頭上の岩棚から跳躍した二体の糸繰が、鉄金具をチリンと鳴らし、長い節くれ立った脚を男の喉元と両肩へ突き立てた。肉がブスリと鈍く抉れる音。吹き上がった血が、松明の火に照らされて赤黒い湯気を立てる。
「出たぞ! 化生だ!」
「上からも来る! 岩壁を見ろ!」
同時に、行く手の暗闇の奥――鍾乳洞の黒々とした口から、四足で泥を蹴り立てる無数の爪音が押し寄せてきた。
骨喰の群れ。三体、四体ではない。白い頭骨を蠢かせ、縦に裂けた顎を打ち鳴らす異形の濁流。
「引くな! 突っ込め!」
後方から、鳥羽の冷酷な怒号が響いた。
生き残った牢人たちが恐慌に駆られて踵を返そうとした瞬間、闇を裂いて放たれた二筋の矢が、逃げ惑う男たちの胸板と喉笛を正確に射抜いた。泥濘に倒れ伏す味方の骸。
「背を見せた者は一人残らず射殺す! 前へ進め、神札を穴へ投げ込め!」
鳥羽ら四人の正規兵は、すでに狭路の出口に長槍の穂先を並べ、友軍を囮として異形の群れへ押し込む防壁を築いていた。前には飢えたマガツモノの牙、後ろには味方の射抜く矢。使い捨ての兵たちは狭い隘路の中で完全に袋小路へと追い込まれ、互いの体を押し合いながら瓦解していった。
宗玄は、叫びもせず、走りもしなかった。
背後から迫る混乱の波に巻き込まれぬよう、静かに身を半身に引き、左の岩肌の窪みへと背を預ける。
左官が壁を塗るように、無駄なく凹凸へ骨盤と肩甲骨を添わせる。
前方を塞がれようと、後方を断たれようと、背後の安全さえ確保できれば、敵が向かってくる角度は正面の半円に絞られる。多対一を制するための、古流における「壁背の理」。
「ギャチッ!」
仲間を喰い殺した骨喰の一体が、血塗れの顎を宗玄へ向けて泥を蹴った。
跳躍の頂点。牙が青年の頭蓋を砕かんと迫る。
宗玄の右手が、静かに動いた。
力んで柄を握りしめない。小指と薬指だけで包むように握り、親指の腹で鍔を弾く。
抜き打ち。
下段から斜め右上へ、流れるような逆袈裟の刃筋。
シュッ。
空気を切り裂く音すら微かだった。
吉蔵の炉で黒鉄の微粒子を噛ませ、捩れを叩き直した刃が、骨喰の喉元の骨と筋肉の継ぎ目を滑らかに捉える。
手応えが、まるで違っていた。
以前の鈍刀のような「骨に刃が噛んで引っかかる重み」が微塵もない。
黒鉄の驚異的な靭性と滑らかな焼き入れが、硬い頸椎の軟骨を豆腐のように断ち割り、一刀のもとに骨喰の頭部を胴体から切り離していた。
刃こぼれひとつない。
噴き出す黒い体液を浴びることなく、宗玄は返す刀で切っ先を左下へ滑らせ、足元へ這い寄ってきた二体目の前肢の腱を撫で斬りにした。
バツン、と弦が切れるような音とともに、二体目が泥の中へ前のめりに崩れ落ちる。
その無防備になった項へ、宗玄は太刀の切っ先を真っ直ぐに突き降ろした。
ズスッ。
頭骨の隙間を貫き、岩肌に切っ先が達する手前で寸止めする。引き抜かれた刀身には、黒鉄特有の深い青黒い刃文が、月なき闇の中で静かに冴え渡っていた。
(……見事な業物だ)
宗玄の老いた胸の奥で、確かな手応えが静かに沈殿する。
前世で追い求めた剣理が、この異形の乱世で、理想の道具を得て形を成していく。
だが、前方での殺戮に気を取られる間もなく、後方から異様な轟音が響いた。
ドガガガアンッ!
切り通しの出口。鳥羽たちが立っていた頭上の岩棚が、仕掛けられていた火薬によって爆破され、大量の巨岩と土砂が隘路の退路を完全に塞ぎ落としたのだ。
濛々と立ち込める土煙。
「な……岩が落ちたぞ!」
「退路が塞がれた! 閉じ込められたぞ!」
生き残った数名の牢人たちが絶望の叫びを上げる。
土砂の向こうから、鳥羽の嘲笑を孕んだ声が微かに漏れ聞こえた。
「――ご苦労であったな、死に損ないども! その血の臭いで化生どもを洞の奥へ引きつけ、そのまま腹を満たして果てるがよい!」
土煙の隙間から、鳥羽が持っていたはずの朱色の木箱が、放り投げられて泥の中に転がり落ちた。
箱は衝撃で砕け、中から現れたのは神札などではない。
赤黒い血で煮染められた、乾いた獣の心臓――マガツモノを狂乱させる、最悪の誘引の餌だった。
「ギチッ、ギギャアアアッ!」
その臭気に当てられ、洞窟の奥からさらに巨大な地鳴りが這い上がってくる。
生き残った牢人たちは武器を取り落とし、塞がれた落石の壁に爪を立てて泣き叫んでいた。もはや兵としての体裁などどこにもない。
宗玄は、落石の壁を一瞥もしなかった。
最初から、あの武者頭の言葉など信じてはいなかった。裏切りに怒る感情など、八十年の生涯で疾うに使い果たしている。
「……惑うな」
青年の低く澄んだ声音が、狂乱の闇に落ちた。
だが、パニックに陥った牢人たちの耳には届かない。彼らはただ、迫り来る異形の影に怯えて身を竦めるだけだった。
宗玄は足元の血溜まりを踏み越え、太刀の血脂を懐の反故紙で静かに拭い落とした。
そして、サヨから託された丸薬を一つ口に含み、舌の裏で転がす。
強烈な苦味と清涼感が喉を通り、濁りかけた夜気の瘴気を一掃していく。
退路はない。
ならば、道はただ一つ。
宗玄は腰を沈め、黒鉄の刃をだらりと下段へ垂らすと、生温かい風を吐き出し続ける暗黒の「常世穴」へと、迷いなくその静かな歩を進めた。
お読みいただきありがとうございました。
背後の退路を完全に断たれ、誘引の罠によって狂乱するマガツモノの巣窟へ踏み込む宗玄。
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