第8話
帝都の外港、第一軍港の石造埠頭。
初夏の強い日差しが照りつける海面に、見上げるような巨躯を誇る一隻の船が浮かんでいた。
帝国海軍が外洋遠征用に建造した重装甲捕鯨船だ。
鋼鉄で補強された船体には巨大な銛打ち機が据え付けられ、荒波に耐えうる極太のマストが幾重にも天を突いている。
埠頭には、数日前まで密輸の罪で縄を打たれていた船乗りたちが、真新しい防水衣と耐圧革鎧に身を包んで整然と物資を積み込んでいた。
「おい、鉄兜!」
甲板の舷側から、よく通る太い声が響いた。
手すりに両肘を乗せ、不敵に口端を吊り上げて見下ろしていたのは、マリナだった。
帝国の正式な艦長服を乱雑に着崩し、トレードマークである褐色の素肌を惜しげもなく晒している。
その背後では、潮風に煽られた外套の隙間から、逆三角形に発達した極太の広背筋が力強く脈打っていた。
「あの小娘長官にゃ一杯食わされたが……まあ、腐った港湾局の地下牢でカビが生えるよりは、西の荒波で化け物相手に銛を打ち込む方が性に合ってる」
マリナは腰に差した新しい海軍制式サーベルの鞘を鳴らし、白い歯を見せて笑った。
「沿岸の連中に公正な値段で塩を届けてくれたことだけは、礼を言ってやるよ。……だが勘違いするな。西の海で一番でかい海獣を仕留めて戻ってきたら、今度こそその頑丈な兜を叩き割ってやるからな。首を洗って待ってろ!」
重厚な銅鑼の音が港に響き渡る。
号令とともに巨大な錨が巻き上げられ、幾重にも張られた白帆が海風を孕んで大きく膨らんだ。
巨大な装甲船が、軋む音を立てながらゆっくりと埠頭を離れていく。
密輸組織の首領としての誇りと腕前をそのままに、彼女とその船乗りたちは、帝国に莫大な富をもたらす外洋の開拓戦力として、西の大洋へと旅立っていった。
埠頭の突端、冷たい海風を受けながらその巨船を見送るヴォルフの表情は、深く被った鋼の兜に遮られて窺い知ることはできない。
だが、その視線は遠ざかっていく甲板の上、舵輪を力強く握り込むマリナの後ろ姿――肩甲骨から腰へと鋭角に絞り込まれた、見事な広背筋の陰影を、水平線の霞に消える寸前まで静かに追い続けていた。
(……あの強さなら、背中を任せるに足る相棒になれたはずだがな)
手元に残されたのは、艦隊への引渡受領証の束と、ロザリアの署名が記された数枚の決裁文書だけだった。
「実に素晴らしい結末ですね、隊長!」
隣で同じく見送りをしていた副官のレオンが、寸分の曇りもない晴れやかな表情で敬礼した。
「東方の港湾には公正な関税秩序を取り戻し、余剰となった海賊戦力を西方の戦略資源獲得へと転換する……。ロザリア閣下の冷徹なまでの最適配置と、隊長の迅速な現場制圧。まさに帝国特務機関の模範と呼ぶべき連係であります!」
「……ああ、そうだな。貴様が戦闘記録に敵首領の広背筋の可動域と筋緊張を極めて詳細に書き残してくれたおかげで、人事の適材適所が完璧に機能したよ」
「はっ! 正確な観察記録の集積こそが軍務の本分でありますゆえ!」
レオンは微塵の皮肉も疑いもなく、敬愛する上官の役に立てた喜びに満ちた、純粋極まりないキラキラとした瞳でこちらを見つめ返してきた。
ヴォルフは兜の奥でわずかに口を開きかけた。
貴様が余計な詳細を書かなければ帝都近郊の部隊に残せたのではないか、そもそも敵の筋力構造を五分間も見つめていたなどと報告書に書く必要があるのか――。
喉元まで出かかった小言は、しかし音になることはなかった。
レオンは軍規に寸分違わず従い、副官として完璧な仕事をこなしただけだ。手抜きも捏造もなく、ただただ忠実に観察事実を記録したに過ぎない。部下として何一つ間違ったことはしていないのだ。
(……何も、責められる要素がない)
ヴォルフは小さく息を呑み込み、開きかけた口を静かに閉じた。
「……行くぞ、レオン」
「はっ!」
失意を胸の底へ押し殺し、ヴォルフは無言で踵を返した。
現場の第一部隊長に、立ち止まる時間など許されていない。
帝都中央区の特務機関本部へ戻り、自室の重いオーク扉を開けると、黒塗りの執務机の中央にはすでに新しい封筒が一通、無造作に置かれていた。
赤い封蝋には、見慣れたロザリアの印章がくっきりと刻まれている。
ヴォルフは兜を脱ぐこともせず、机に歩み寄って封筒を引き裂いた。
中から滑り出たのは、帝国の西方砂漠地帯の地形図、簡潔な指令書、そして一枚の人相書だった。
『西方砂漠地帯における武装傭兵団の武力解体。首領は元闘技場の剣奴、驚異的な体幹と打撃力を誇る女闘士ガゼル。現地の採掘利権を巡り、軍務局の退役将官および地方総督府と結託している疑いあり。――速やかに現地へ急行し、証拠を保全の上、制圧せよ』
添付された人相書には、灼熱の陽光と過酷な砂漠の戦乱で極限まで鍛え上げられた、獰猛な女の姿が描かれていた。
露出した褐色の胴体。
余分な脂肪を極限まで削ぎ落とし、まるで鎧のように六つに割れた鋼の腹筋。
鋭い眼光でこちらを睨みつけるその立ち姿には、数多の死闘を素手と刃物一本で生き抜いてきた者特有の、圧倒的な野生が宿っていた。
「……ふむ」
ヴォルフは無骨な指先で、人相書の割れた腹筋の陰影をなぞった。
(砂漠の過酷な環境と闘技場の死線……己の力だけで生き延びてきた証だな。これほどの体幹の持ち主ならば、何事にも決して動じることなく、俺の隣に立っていてくれるだろう)
背後で装備の点検をしていたレオンが、弾むような声で顔を上げた。
「隊長! 第一部隊に出撃準備の命令を下しますか!」
「ああ」
ヴォルフは人相書を懐に収めると、鋼の兜を深く被り直した。
「行くぞ、レオン!西方の砂漠へ向かう。現地の治安を維持し、帝国の法秩序を取り戻す」
死神は新たな期待を胸に、再び戦場へと歩き出した。
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