第7話
港湾を見下ろす高台に建つ、東方港湾局の本庁舎。
海からの夜風が吹きつける白亜の石造建築は、深夜でありながら豪奢なシャンデリアの光で煌々と照らされていた。
正面の重い鉄扉が無言で押し開かれ、第一部隊の黒甲冑をまとった兵たちが足音もなく踏み込んでいく。
廊下には異国の高価な絨毯が敷き詰められ、壁には密輸船から没収されたはずの美術品や金銀細工が惜しげもなく飾られていた。
哨戒にあたるはずの警備兵たちは、潮風と硝煙の臭いを漂わせる特務部隊の異様な気迫に呑まれ、剣の柄に手をかけたまま石のように固まっている。
二階の最奥、港を一望できる広大な執務室。
ヴォルフは分厚いオーク材の扉を押し開け、無骨な軍靴の音を響かせて中へと歩み入った。
部屋の中央、紫煙を燻らせながら長椅子に深く腰掛けていた男が、苛立たしげに視線を向けた。
東方港湾局長、バルド。
元軍務局補給部の中将であり、退役後も軍中枢との太いパイプを誇る男だ。軍服を模した仕立ての良い服に身を包み、肥満した顔に尊大な笑みを浮かべている。
「……夜分に騒々しいな、特務部隊長殿。海賊どもの掃討は終わったのかね?」
バルドは立ち上がりもせず、手元の硝子杯を揺らしながら言った。
「軍務局査察部から話は通っているだろう。あの手合いは情けをかける必要のない害虫だ。首領の首は防波堤に晒し、残りの賊は全員海へ叩き込め。港の愚民どもには、軍の秩序に逆らえばどうなるかを骨の髄まで教えてやらねばならん」
バサリ、と重い湿り気を帯びた音が室内に落ちた。
ヴォルフが無造作に執務机の上へ放り出したのは、海水と油の臭いが染みついた数冊の帳簿だった。
バルドの眉が小さく跳ねる。杯を置いたその視線が、帳簿の表紙に押された特有の陰影を捉えた瞬間、顔から急速に血の気が引いていった。
「……貴様、これは……」
「貴方が商工ギルドと裏で取り交わしていた関税の徴収原簿、ならびに裏帳簿です。密輸船の船長室から回収しました」
「法定関税の三倍から五倍に及ぶ不当な超過徴税、零細商人からの物資不法接収、および市場価格の不正操作による私財の蓄積。さらに貴方は、自らの失政によって生じた物資不足を隠蔽するため、『凶悪な武装海賊団』と偽って軍へ虚偽報告を上げ、我が特務部隊を私兵として使役しようとした。……明白な軍規違反、ならびに帝国通商法違反です」
「……ふん、ふざけた真似を」
バルドは息を荒くしながら立ち上がり、机を激しく叩いた。
「密輸人の落書きを真に受けて、この私を脅迫する気か? 私は元軍務局の中将だぞ! 現在の軍務局査察部にも、貴族院の重鎮たちにも私の息がかかっている! 現場の鉄砲玉風情が、一枚の書類で私を失脚させられるとでも思っているのか!」
唾を飛ばして怒号を響かせるバルドに対し、ヴォルフは眉一つ動かさなかった。
ただ、静かに半歩、前へ踏み出す。
空気が軋んだ。
無数の修羅場で敵を解体し続けてきた男だけが放つ、皮膚を刺すような無機質な威圧感。
執務室の明かりがわずかに翳ったかのような錯覚に、バルドの喉が引きつった音を立てた。
「……今ここで貴方の首を刎ね、帝都へこの帳簿を持ち帰るのに、煩雑な法廷の手続きは必要ありません」
ヴォルフの右手が、腰の長剣の柄に静かに添えられる。
バルドは息を呑み、椅子に足を取られそうになりながら後退った。
「ひ、待て……! 私は元将官だ! 軍法会議の召集もなく、一武官が領内高官を私刑にするなど許されるはずが――」
「お忘れですか。我ら特務機関の行動規範は軍法ではなく、皇帝陛下の親裁です。貴方の首を断頭台へ送るか否かは、帝都の特務機関が決定します。『それ』が国益に適うならば」
「ひぃっ……!」
「……まあ、今回は斬りませんが」
ヴォルフはあっさりと剣から手を離した。
冷や汗を流しながら、バルドは崩れるように椅子へへたり込む。
ヴォルフは机の上の帳簿を指先で軽く叩いた。
「貴方を今ここで斬れば、東方航路全体の運行管理が麻痺する。軍務局の後任人事と商工ギルドの利権争いが激化し、海上輸送が長期間停止すれば、沿岸部の経済は完全に干上がる。それは帝国の損失です」
自分のような現場の武官が、複雑な海上通商法を解釈して港湾行政を立て直すことなどできない。感情に任せて汚職官僚を排除すれば、残るのはさらなる混乱と流通の死だけだ。
「貴方の罪状を精査し、東方港湾の再建方針を決めるのは私ではありません」
ヴォルフの合図に応じ、背後に控えていた副官レオンが一歩前に出た。
レオンは手際よく机の上に一枚の公的書類を広げる。
「今すぐここで首を落とされたくないのであれば、二つの条件を呑みなさい。一つ、差し押さえている物資倉庫を直ちに全開放し、沿岸住民へ公正な価格で塩と医薬品を供給すること。二つ――港湾の管理権、私財の監査権、および航路の運用権を一時的に我が機関へ全面委託する誓約書にサインすること」
「な……ッ!? 全面委託だと……!? そんな権限を渡せば、私の地位も財産もすべて特務機関に握られてしまうではないか!」
「拒否されるなら、直ちに反逆罪として処刑します。選択肢はありません」
感情のないヴォルフの眼光に射抜かれ、バルドは震える手でペンを握りしめた。
不正の証拠を完全に押さえられ、目の前には一切の妥協を許さない男がいる。軍務局のコネを頼る時間すら与えられていなかった。
「……わ、分かった……サインする……物資もすべて引き渡す……だから命だけは……」
脂汗にまみれた指で、バルドは誓約書に血判を押した。
(よし。現場の火種はすべて押さえ込んだ)
倉庫を開放させれば住民の生活は安定し、港湾管理権を帝都に委託させれば不正関税の是正も中央の官僚たちが進めてくれる。複雑な後始末はすべて帝都のあの冷徹な上司に放り投げてしまえばいい。
(あの方のことだ。あの女――マリナの卓越した操船技術と背筋を見逃すはずがない)
反逆者とはいえ、元海軍の操舵士だ。荒波で培われた体幹と、東方の暗礁海域を知り尽くした知識がある。帝都近郊の沿岸警備部隊あたりに配属し、実務戦力として組み込むのが最も無駄のない人事になるはずだ。
(そうなれば、特務部隊の監視任務という名目で、合法的に毎日あの女の傍にいられる)
あの見事な背筋を持つ女に背中を預け、至らぬ点があれば正面から怒鳴りつけられる生活へ、確実に一歩近づいた。
「レオン、物資倉庫の開放を急がせろ。拘束した船乗りたちにも手当てを受けさせ、帝都への移送準備を整えろ」
「はっ! 直ちに手配いたします!」
確かな手応えを胸に、ヴォルフは帝都への帰路を見据えて歩き出した。
数日後、帝都中央区、特務機関本部。
潮風と火薬の煤煙が染みついた外套を脱ぎ捨て、兜を小脇に抱えたヴォルフは、最奥の執務室の扉を押し開けた。
室内には整然とした紙とインクの匂いが漂い、壁一面の書架には帝国全土の法典と統計資料が隙間なく詰め込まれている。
その中央、巨大な黒檀の執務机の奥で、十二歳の機関長ロザリア公爵令嬢が羽ペンを走らせていた。
「東方港湾都市における密輸シンジケートの解体、ならびに港湾行政の査察任務の完了を確認しました。……怪我はないようですね、ヴォルフ」
ロザリアは視線を書類から外すことなく、淡々と言葉を紡いだ。
「はっ。第一部隊員に致命的な損害はありません」
ヴォルフは机の前で直立し、軍人としての礼を取った。背後でレオンが無言のまま直立不動の姿勢を保つ。
「東方港湾局における事後処理の全面委託書類、ならびに現地で押収した不当徴税の帳簿一式を提出いたします」
ヴォルフが机の端に置いたのは、潮水と油の臭いが残る関税の裏帳簿と、港湾長バルドの血判が押された委託誓約書だった。
ロザリアの細い指先が帳簿を引き寄せる。
ページをめくる規則正しい音だけが、静かな部屋に響いた。
わずか数分で数百行に及ぶ数字の羅列を走査し終えると、彼女は静かに帳簿を閉じた。
「……なるほど。法定関税を勝手に三倍から五倍に引き上げ、差額を元軍務局高官と商工ギルドで山分け。さらに支払えない零細商人から物資を不当に没収し、物資不足による暴動の兆候を『凶悪な海賊シンジケート』として軍へ虚偽報告……。明白な背信行為ですね」
「はっ。現場でバルド港湾長を即時処刑することも可能でしたが、それでは東方航路全体の運行管理が麻痺し、沿岸部への物資供給が完全に途絶する危険がありました。稚拙な政治決着を図るより、閣下の裁量を仰ぐのが最も国益に適うと判断いたしました」
軍務局補給部や貴族院の重鎮たちがどれほど利権を主張してこようと、この少女であれば法と証拠を盾に全てをねじ伏せ、現場の破滅を防いでくれる。
そして、その冷徹な計算高さゆえに――捕縛した元海軍の操舵士マリナの処分についても、無駄な処刑を避け、帝都近郊の沿岸警備部隊あたりへ実務戦力として組み込むはずだという読みもあった。
ロザリアは小さく頷き、手元の白紙に新たな指令書を書き始めた。
「判断として極めて妥当です。港湾長を今すぐ断頭台へ送れば、軍務局と商工ギルドが後任の椅子を巡って泥沼の利権争いを始め、東方航路は長期間停止していたでしょう。ここはバルドの身柄を拘束し、不正関税で蓄財した私財を全額差し押さえます」
羽ペンの先端が滑らかに紙を滑る。
「差し押さえた物資は全量、沿岸住民へ公正な価格で緊急配給。さらに商工ギルドには巨額の独占禁止違約金を科し、港湾の管理権と関税査定権を特務機関の直轄とします。文句をつけてくる軍務局補給部の査察官たちには、この二重帳簿の写しを突きつけて黙らせましょう」
一切の無駄がない、完璧な国益の最大化。
流通を止めることなく腐敗の温床を解体し、民衆の生活を安定させ、特務機関の財政基盤を強化する。見事というほかない内政処理だった。
(よし。ここまでは想定通りだ)
ヴォルフが内心で胸を撫で下ろしたその時、ロザリアは机の脇に置かれていたもう一つの書類――レオンが提出した『戦闘詳報』を手に取った。
パラパラと羊皮紙がめくられる。
ロザリアの青い瞳が、ある一行で止まった。
「……ヴォルフ」
「はっ」
「副官の作成した戦闘記録を読みました。『制圧後、敵首領の広背筋および肩甲骨周辺の筋群を約五分間にわたり無言で凝視』……随分と熱心な観察ですね」
室内の空気が、すっと冷えた。
レオンは隣で寸分の悪気もなく胸を張っている。ヴォルフは鉄の仮面を保ち、軍規に則った硬質な声で返答した。
「……元軍人の操舵士ゆえ、上半身の急激な捻転による反撃を未然に防ぐための警戒です。敵首領は広背筋の発達が著しく、制圧後も肩甲骨の可動域と筋緊張を監視する必要がありました」
理屈としては一分の隙もない、軍事的な弁明だった。
だが、ロザリアの冷ややかな藍色の瞳は、書類の向こうからヴォルフの顔面をじっと見据えていた。感情の読めない、冷淡な観察の視線。
「へえ。……では、その卓越した操船技術と強靭な背筋を、帝国の国益へ最大限に還元しなければなりませんね」
ロザリアは手元の辞令書に印璽を強く押し当てた。
「密輸組織の船乗り全員には特赦を与えます。そしてその類まれなる肉体と海技を活かし――帝国西方の外洋において巨大海洋生物を狩る『西方海獣討伐艦隊』へと即日配属・移送を命じます」
淡々と告げられた人事に、ヴォルフの眉間がわずかに引きつった。
「西方の……討伐艦隊、でございますか」
「外洋の巨大海獣から採取される油と特殊皮革は、帝国の軍需産業において不可欠な戦略物資です。しかし、あの荒れ狂う外洋での長期航海と巨大生物の捕獲には、卓越した操船技術と、全身の体重を乗せて銛を打ち込める強靭な背筋を持つ人材が必要でした。反乱分子の隔離と新資源の確保を両立する、極めて効率的なリソース配分です」
ロザリアは辞令書を机の端へ滑らせ、静かにヴォルフを見上げた。
「――何か、軍事的な見地から不服でも?」
完璧な正論だった。
私情の気配を察知した上で、国家の人事として一切の反論を許さない鉄壁のロジックで蓋をしてきたのだ。ここで少しでも異議を唱えれば、自らの観察が「軍事的な警戒」ではなく「私的な執着」であったと認めることになる。
東方の海から、今度は帝国の最果てである西の大洋へ。
またしても、手の届かない場所へ完璧に隔離された。
(……一言の隙もない。完敗だ)
私情をねじ込む余地をミリ単位で削ぎ落とされた敗北感に、ヴォルフは胃の奥をじりじりと焼かれながら、深く頭を下げた。
「……極めて合理的かつ、無駄のない差配と存じます。至高の知略、感服いたしました」
「結構です。直ちに移送手続きに入りなさい」
敬愛する主君の冷徹な正論の前に、ヴォルフのささやかな家庭の夢は、何一つ言い訳を残せず粉砕されたのであった。
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