第5話
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帝都の北翼にそびえる白亜の宮殿群から、意図的に数百メートルほど離れた区画に、黒漆喰で塗り固められた五階建ての石造建築がある。
帝国特務機関本部。
表札はなく、正門には紋章旗も掲げられていない。だが、帝都を行き交う門閥貴族の豪奢な馬車も、軍務局の将校たちを乗せた騎馬列も、この建物の前を通過する際は必ず速度を落とし、御者たちは視線を正面から逸らす。
ここは、皇帝直属の査察および武力行使を担う独立機関だ。
内務省の行政警察でもなく、軍務局の憲兵隊でもない。帝国の法典に明記されたあらゆる管轄権の外側に位置し、ただ「皇帝の親裁」という一点のみを根拠に動く、帝国の暗部であった。
「隊長、軍務局査察部への報告書の引き渡し、完了いたしました」
長い石造りの廊下を歩きながら、副官のレオンが受領印の押された羊皮紙の控えを掲げた。
ヴォルフ・ガランドは鋼の兜を脇に抱え、無骨な軍靴の音を響かせながら歩調を緩めずに頷く。
「査察官どもの様子はどうだった」
「露骨に顔をしかめておりましたよ。『特務部隊が勝手に地方領主の統治権を接収し、軍務局への事前通告なしに処分を決めるなど明らかな越権だ』と食ってかかってまいりました。ですが、皇帝陛下の御璽が押された特務委任状を提示したところ、それ以上は何も言えなくなっておりました」
「当然だ。連中にとって、バルカス伯爵のような地方貴族は大事な天下り先であり、軍需物資の横流し先だからな」
ヴォルフは淡々とした声で吐き捨てた。
帝国という巨大な国家は、二つの巨大な権力によって動いている。
一つは、広大な領地と私兵を抱え、既得権益を守ろうとする「門閥貴族」。
もう一つは、国境警備と対外戦争を口実に予算と権限を拡大し続ける「軍務局」。
この二つの勢力は時に反目し、時に癒着して帝国の富を食い荒らす。
地方の領主が民から食糧を横領して暴動が起きれば、軍務局の将軍が「反乱鎮圧」の名目で軍を動かし、手柄と予算を中央から引き出す。
現場の民が飢えようが、鉱山の流通が麻痺しようが、彼らの懐が痛むことはない。
その腐敗構造を力ずくで叩き割るために設立されたのが、この特務機関だった。
貴族法にも軍法にも縛られず、汚職の現場に武力で介入し、証拠を押さえ、利害関係を強制的に再編する。当然、貴族院からも軍務局からも蛇蝎のごとく嫌われていたが、誰も手出しができなかった。
理由は二つある。
一つは、現場で暴虐を働く第一特務部隊長ヴォルフ・ガランドの圧倒的な戦闘能力。
そしてもう一つが――最奥の執務室に君臨する、機関長公爵令嬢ロザリアの存在だった。
重厚なオークの扉をノックし、室内に入る。
整然とした紙とインクの匂いが漂う執務室の最奥で、小柄な影が書類の山に向かってペンを動かしていた。
公爵令嬢ロザリア、十二歳。
帝国最高峰の門閥貴族である公爵家の直系でありながら、その異様な行政能力と数字への冷徹さを見込まれ、皇帝直々にこの機関の全権を委託された神童である。
名門貴族の血筋を持つ彼女がトップに座っていることで、貴族院は「身内の領地を不当に弾圧された」と騒ぐことができない。
下手に特務機関を攻撃すれば、名門公爵家全体を敵に回すことになるからだ。
同時に、軍の階級制度の外にいる彼女の命令には、軍務局の将軍たちも軍規を盾にした横やりを入れられない。
貴族と軍閥、双方の急所を握るための、皇帝が配置した楔。それがロザリアという少女の政治的立ち位置だった。
「軍務局への通達、無事に済んだようですね。ヴォルフ」
顔を上げることなく、書類の端にサインを走らせながらロザリアが言った。
「はっ。査察部が多少騒ぎ立てましたが、規定通り書類を受領させました」
机の前で足を止め、軍人としての礼を取る。
ヴォルフはこの少女に対し嘘偽りなく敬意を抱いている。もし自分が正規軍の将校であれば、バルカス伯爵の不正を告発したところで軍上層部のに握りつぶされるか、軍法会議で反逆者に仕立て上げられていただろう。
面倒な政治的根回し、貴族院からの圧力の遮断、軍務局の横やりへの対処――その全てを、この十二歳の少女が机の上で解体・無力化してくれているのだ。
「バルカス伯爵領の再建案、皇帝陛下の裁可が下りました。横領された穀物は領民へ返還され、鉱山の管理権は特務機関の直轄となります。採掘された耐寒鉱石の三十パーセントを帝都の防衛施設へ優先供給し、残りの売却益を南方開拓騎兵隊の維持費へ充当します」
ロザリアはペンを置き、青い瞳をヴォルフに向けた。
「貴族院からは『領主の私有財産に対する過度な介入だ』と抗議文が届きましたが、伯爵が軍を騙して私兵化しようとした証拠を突きつけて黙らせました。文句があるなら、伯爵の首を断頭台に送った上で領地を完全に没収するがそれでもいいかと問うたら、全員引き下がりましたよ」
「……鮮やかな手腕です」
「当然の処理です。貴方が現場で拾ってくる火種は、常に帝国の構造的欠陥そのもの。放置すれば国家の基盤が腐る。だからこそ私は、貴方が武力で固定した盤面を、法と制度を用いて最も効率的な形に再編成しているに過ぎません」
「理解しております。私のような武官が下手に政治や法律に関与すれば、必ず利害関係の泥沼に呑まれる。現場の首を押さえ、閣下に委ねるのが最も無駄がない」
ヴォルフの言葉に、ロザリアは小さく息を吐いた。
「ええ。貴方のその『余計な政治的野心を持たず、現場を確実に制圧する武力』だけは高く評価しています。だからこそ、特務部隊長としての権限を預けているのです」
ロザリアは机の引き出しから、先ほどヴォルフに下したばかりの東方任務に関する詳細な資料を取り出した。
「さて、次の東方港湾都市の件ですが……少々厄介な背景があります」
ロザリアは地図の上に指を滑らせた。
「東方の港湾を統括するバルド港湾長は、軍務局補給部の元高官です。彼は退役後、門閥貴族の息がかかった商工ギルドと結託し、東方航路の関税を不正に操作して暴利を貪っている疑いがあります」
「なるほど。軍務局と貴族の双方が一枚噛んでいる利権というわけですか」
「ええ。現地で暴れているという密輸組織――女海賊マリナの勢力ですが、単なる無法者ではなく、港湾局の重税によって生活を脅かされた沿岸住民や失職した船乗りたちが合流している節があります。軍務局はこれを『凶悪な海賊』として正規軍を派遣し、港湾の警備利権をさらに拡大しようと目論んでいます」
盤面の構図は、先のバルカス伯爵領と酷似していた。
腐敗した官僚が私腹を肥やし、耐えかねた現場が暴発し、それを軍上層部が手柄と利権のために利用しようとしている。
「正規軍が動けば、東方の航路は戦火で封鎖され、民衆は虐殺されるでしょう。そうなれば海上交易が完全に麻痺します。正規軍が介入する前に、我が機関の手で現場を制圧し、不正の動かぬ証拠を押さえなければなりません」
ロザリアは鋭い眼差しでヴォルフを見据えた。
「軍務局の息がかかった港湾長を武力で締め上げ、証拠を保全した上で事後委託の書類にサインさせる。……貴方の得意な仕事のはずです」
「了解いたしました。現場の火種を確実に押さえ、帝都へ持ち帰ります」
ヴォルフは深く頭を下げた。
政治的な駆け引きはすべてこの上司が引き受けてくれる。自分はただ、現場へ急行し、圧倒的な武力で敵首領と腐敗官僚をねじ伏せればいい。
(……そして、あの見事な逆三角形の広背筋を持つ女海賊を無傷で拘束する)
軍事的な任務の完遂と、個人的な野望。
二つの目的を胸に秘め、ヴォルフは兜を深く被り直した。
「レオン、部隊の装を急がせろ。東方へ向かう」
「はっ! 直ちに出撃準備を完了させます!」
国家の急所を握る天才少女の執務室を後にし、帝国の死神は次なる戦場へと歩き出した。
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