第5.5話 公爵令嬢ロザリアのつぶやき
重いオーク材の扉が閉じ、軍靴の足音が廊下の彼方へと消えていく。
特務機関の最奥にある執務室には、再び紙とインクの匂い、そして針の落ちる音すら聞こえそうな静寂が戻っていた。
「……ふう」
ロザリアは、握り続けていた羽ペンを真鍮のペン立てに戻し、深く息を吐いた。
黒革の肘掛け椅子に深く預け、足をプラプラさせる。ピンと張っていた背筋を緩めると、金糸の長い髪がさらりと肩から滑り落ちた。
机の上には、先ほどまでヴォルフと処理していた書類が整然と積まれている。
バルカス伯爵領の財政掌握計画、横領穀物の配分表、そして――副官レオンが几帳面な筆跡で書き殴った、分厚い戦闘詳報だ。
ロザリアは細い指先を伸ばし、その戦闘詳報の表紙をめくった。
途端に目に飛び込んでくるのは、現場の生々しい記録と、几帳面すぎる副官の観察メモである。
『敵首領イリヤ、近接打撃力極めて高し。特に大臀筋および大腿部の筋肉連動は特務隊員の基準値を凌駕』
『制圧完了後、隊長は敵首領の下半身を約四分間にわたり無言で凝視。再起不能の確認、および骨格構造の精密査定を行っていたものと推測』
「……四分間」
ロザリアは誰もいない部屋で、ぽつりと呟いた。
呆れ果てたような、しかしどこか引っかかりを覚えたような声音が、高い天井に吸い込まれていく。
「戦闘後の警戒にしては、随分と長時間の凝視ですこと」
机の端に置かれた冷めかけの紅茶に口をつける。ベルガモットの香りが鼻腔を抜けるが、喉の奥の妙なわだかまりは消えてくれない。
実務家としてのヴォルフ・ガランドは、完璧に近い。
帝国の腐敗した貴族や軍閥の将軍たちは、皆が一様に私利私欲と面子のために動く。彼らは法を歪め、予算を奪い合い、民を食い物にして恥じない。
だが、あの男だけは違う。
「帝国の死神」などと恐れられ、血泥にまみれながらも、ヴォルフは余計な政治的野心を持たない。現場の不正を力ずくでねじ伏せ、証拠を保全し、自分のような子供の前に膝をついて全ての政治的決着を委ねてくる。
『私のような現場の武官が下手に裁量を行使するより、閣下に委ねるのが最も国益に適うと判断しました』
あの兜の奥から向けられる、一点の曇りもない絶対の信頼。
名門公爵家の生まれであることや、年齢の幼さなど関係なく、ただ自分の知性と判断力を信じて背中を預けてくる。皇帝の親裁という孤立無援の立場にあるロザリアにとって、彼の存在がどれほど貴重な「刃」であり「盾」であるか、誰よりも理解しているのは自分自身だった。
……だからこそ。
「……なぜ、そこまで他人の身体に執着するのかしら」
ロザリアは再び戦闘詳報に視線を落とし、眉間を小さく揉んだ。
彼が兜の奥で何を考えていたのか、ロザリアには手にとるように分かっていた。
冷徹な死神の顔を取り繕いながら、その実、女首領の見事な体幹と引き締まった下半身に、鼻の下を伸ばしていたのだ。副官のレオンは純粋な戦術的観察だと信じ切っているようだが、ロザリアの目は誤魔化せない。
(帝都近郊の警備部隊に組み込んで、監視名目で手元に置こうだなんて……あからさま過ぎます)
ふと、執務机の脇に置かれた姿見に視線が移った。
鏡の中に映っているのは、まだ成長途中の小柄な少女の姿だ。
手足は細く、肌は白く、戦場で泥を蹴るような強靭な筋肉などどこにもない。国家の財政を動かし、老獪な貴族たちを舌先三寸で黙らせる知能はあっても、男を力づくで組み伏せるような体幹など持ち合わせてはいなかった。
ロザリアは無意識のうちに、自分の細い手首を反対の手で握りしめた。
指が余るほどに細い。
「…………」
何と馬鹿げた比較をしているのかと、ロザリアはすぐに鏡から目を背けた。
自分が求めているのは帝国の恒久的な秩序であり、国家機能の最適化だ。戦場で暴れる無骨な男の個人的な好悪など、知ったことではない。
(そう。南方開拓騎兵隊への配属は、百パーセント純粋な国益に基づいた人事よ)
ロザリアは自分に言い聞かせるように、心の中で計算を組み立てた。
南方の広大な未開拓地には、強靭な足腰を持つ騎乗戦力が喉から手が出るほど欲しかった。反乱軍を処刑せず、食糧を与え、新天地の開拓に従事させるのは、治安維持と領土拡大を両立する最高の適材適所だ。
私情など一切挟んでいない。……はずだ。
「……帝都から馬車で三ヶ月もかかる僻地ですもの。これで二度と、あの女の足腰を眺める機会なんてありませんわね」
口から漏れ出た言葉に、ほんの微かな棘が混ざっていたことを自覚して、ロザリアは小さく唇を噛んだ。
ほんのわずか。あの完璧な人事案の裏に、「あの男の手の届かない場所へ引き離してやる」という意趣返しのような感情が全くなかったと言えば、それは嘘になる。
「……子供じみているわね、私も」
自嘲気味に呟きながら、ロザリアは引き出しを開けた。
中から取り出したのは、先ほどヴォルフに下したばかりの次なる任務の控え――東方港湾都市の密輸組織に関する調査書だ。
添付された人相書の写しには、荒波で鍛え抜かれた見事な逆三角形の背筋を持つ女海賊の姿が描かれている。
ロザリアは羽ペンの先で、その女海賊の背筋のあたりをとんとんと叩いた。
「下半身の次は、背中の筋肉ですか。……本当に、懲りない人」
呆れ半分、諦め半分のため息。
だが、その瞳の奥には、危険な戦場へ再び向かわせることに対する、主君としての静かな案じの色が確かに宿っていた。
「怪我をして戻ってきたら、今度こそ書類仕事を徹夜で押し付けてやりますからね。私の死神」
ロザリアは冷たくなった紅茶を一気に飲み干すと、再び冷徹な官僚の顔を取り戻し、山積みの書類へと羽ペンを走らせ始めた。
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