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第3話

帝都中央区、特務機関の本部執務室にて。


荒野の土煙と血の匂いが染みついた外套を脱ぎ捨て、兜を小脇に抱えたヴォルフは、執務室の分厚いオーク材の扉を押し開けた。


室内には整然とした紙とインクの匂いが漂い、壁一面に並ぶ書架には帝国全土の法典と統計資料が隙間なく詰め込まれている。




部屋の最奥、窓から差し込む午後の光を背にして、巨大な黒檀の執務机に向かう小柄な影があった。


特務機関の最高責任者、ロザリア公爵令嬢。




まだ十二歳という幼さでありながら、帝国宮廷の権力闘争と軍務官僚組織の双方を手玉に取る神童だ。金糸の髪を背に流し、寸分の狂いもない姿勢で羽ペンを走らせるその双眸には、現場の血生臭さとは隔絶された、怜悧な理性が宿っていた。




「北方国境線の偵察任務、および帰路における治安出動の完了を確認しました。怪我はないようですね、ヴォルフ」


顔を上げることなく、書類の端にサインを走らせながらロザリアが言った。声は透き通っているが、そこに含まれる重圧は歴戦の将官をも凌ぐ。




「はっ。部隊員に致命的な損害はありません」


ヴォルフは机の前で足を止め、一礼した。背後で副官のレオンが直立不動の姿勢を取る。




「バルカス伯爵領における事後処理の委託書類、ならびに現地で押収した物証一式を提出いたします」


ヴォルフが机の端に置いたのは、血と泥の跡が残る伯爵の穀物管理帳簿と、統治権の委託を認めた血判付きの誓約書だった。




ロザリアの手が止まり、青い瞳が机上の書類に向けられる。


彼女は細い指先で帳簿を開き、流れるように数字の羅列を追っていった。


わずか数分で数十ページを走査し終えると、静かに帳簿を閉じた。




「……なるほど。過少申告による帝都への上納金横領、領民からの食糧強制収奪、および失政を隠蔽するための我ら特務機関の私的利用。明白な反逆罪ですね」


「はっ。現場で伯爵を即時処刑することも可能でしたが、それでは耐寒鉱石の流通が停止し、冬を迎えるまでに領民が全滅する危険がありました。そのような稚拙な決着を図るより、閣下の裁量を仰ぐのが最も国益に適う着地点であると判断いたしました」




ヴォルフは主君たるロザリアの知性を高く評価している。感情や面子に囚われず、損得勘定と法制度だけで盤面を最適化するこの少女であれば、現場の泥沼を最も被害の少ない形で再建してくれるという確信があった。


そして、その冷徹な計算高さゆえに、捕縛した反乱軍の首領――イリヤの処分についても、無駄な処刑を避け、帝都近郊の労働力として組み込むはずだという読みもあった。




ロザリアは小さく頷き、手元の白紙に新たな指令書を書き始めた。


「判断として極めて妥当です。伯爵を今すぐ断頭台へ送れば、伯爵家の親族や近隣貴族による鉱山利権の争奪戦が起き、現場はさらに混乱する。ここは伯爵の地位を名目上だけ据え置き、横領した穀物は全量押収して領民へ配給。さらに伯爵家には巨額の軍用罰金を科して財政権を完全にこちらで掌握します」




淀みのない手腕で、辺境の領地再建案が組み上がっていく。


鉱石の採掘ラインを維持しつつ、腐敗領主の権限を骨抜きにし、飢えた民を救済する。


一切の無駄がない、完璧な内政処理だった。




(よし。ここまでは筋書き通りだ)


ヴォルフが内心で胸を撫で下ろしたその時、ロザリアは机の脇に置かれていたもう一つの書類――レオンが提出した『戦闘詳報』を手に取った。


パラパラと羊皮紙がめくられる。


ロザリアの視線が、ある一行で止まった。




「……ヴォルフ」


「はっ」


「副官の作成した戦闘記録を読みました。『制圧後、敵首領の下半身、特に大臀筋を終始凝視』……随分と念入りな観察ですね」




室内の空気が、わずかに引き締まった。


レオンは隣で寸分の悪気もなく直立している。ヴォルフは表情筋を鉄のように固定し、軍規に則った冷淡な声で返答した。




「……接近戦における再起の兆候を見逃さないための警戒です。敵首領は下半身の瞬発力に優れた体躯を有しており、制圧後も関節の可動域と筋緊張を監視する必要がありました」


理屈としては一分の隙もない、軍事的な弁明だった。




だが、ロザリアの青い瞳は、書類の向こうからヴォルフの兜の奥をじっと見据えていた。感情の読めない、冷ややかな観察の視線。


「へえ。……では、その卓越した脚力と体幹を、帝国の国益へ最大限に還元しなければなりませんね」


ロザリアは羽ペンを走らせ、一枚の辞令書に印璽を押した。




「反乱軍の捕虜全員には特赦を与えます。そしてその類まれなる身体能力を活かし――帝国南方の未開拓平原を切り開く『南方開拓騎兵隊』へと即日配属・移送を命じます」


淡々と告げられた人事に、ヴォルフの眉間がわずかに引きつった。




「南方の……開拓部隊、でございますか」


「気候は温暖で食糧の不安もなく、飢餓に苦しんだ者たちへの処遇として異論は出ないでしょう。何より、あの広大な荒野を駆け回るには、足腰の強靭な騎乗戦力が不可欠でした。反乱分子の隔離と新領地の穀倉化を同時に果たす、極めて効率的なリソース配分です」




ロザリアは辞令書を机の端へ滑らせ、静かにヴォルフを見上げた。


「――何か、軍事的な見地から不服でも?」




完璧な正論だった。


私情の気配を察知した上で、国家の人事として一切の反論を許さない鉄壁のロジックで蓋をしてきたのだ。


ここで少しでも異議を唱えれば、自らの観察が「軍事的な警戒」ではなく「私的な執着」であったと認めることになる。


(……一言の隙もない。完敗だ)




「……極めて妥当かつ、無駄のない差配と存じます。至高の知略、感服いたしました」


「結構です。直ちに移送手続きに入りなさい」




敬愛する主君の冷徹な正論の前に、ヴォルフのささやかな夢は、何一つ言い訳を残せず粉砕されたのであった。


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