↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
2/27

第2話

夜の帳が下りる頃、バルカス伯爵邸の正門を、第一特務部隊の漆黒の甲冑をまとった兵たちが無言で押し開けた。




辺境の荒野に建つその館は、領民の掘っ立て小屋とはまるで隔絶された豪奢な造りだった。


磨き上げられた白大理石の床、壁に掛けられた豪壮な絨毯、そして暖炉から立ち上る上質な薪の香り。


泥と血と飢えにまみれた戦場からわずか半日の距離にありながら、そこにはまったく別の時間が流れていた。




館の護衛兵たちは、甲冑にこびりついた返り血もそのままに入城してきた特務部隊の異様な気迫に呑まれ、誰一人として剣を抜くことすらできなかった。


「な、何事だね! 反乱軍の鎮圧はどうなったのだ!」


二階の豪奢な執務室で、執務机の奥から肥え太った男が立ち上がった。




この地の領主、バルカス伯爵だ。絹の衣服に身を包み、脂汗の浮いた顔を歪めている。


ヴォルフは鋼の兜を脇に抱え、無骨な軍靴の音を響かせながら部屋の中央へと歩み出た。背後には、羊皮紙の束を抱えた副官レオンが無言で控えている。




「鎮圧いたしました、伯爵」


「お、おお! さすがは帝国の死神! であれば、反逆者どもの首はすべて刎ねたのであろうな? 直ちに広場へ晒し首にして、他の農奴どもへの見せしめに――」




バサリ、と重い音が室内に響いた。


ヴォルフが無造作に机の上に放り出したのは、血痕と泥のついた数冊の帳簿だった。


伯爵の言葉が途切れる。その視線が帳簿の表紙に落ちた瞬間、顔から急速に血の気が引いていった。




「……こ、これは……」


「貴方が輸送隊に運ばせていた、真の穀物管理帳簿です。反乱軍の荷から回収しました」




ヴォルフは机に手をつき、低く平坦な声で告げる。




「帝都への上納金を過少申告し、領民の収穫物を横領して私腹を肥やしていた証拠です。さらに貴方は、自らの失政によって引き起こされた飢餓暴動を『反乱軍の組織的蜂起』と偽り、任務帰りの我が特務部隊を私兵代わりに使って隠蔽しようとした。……これは帝国に対する背信行為ですぞ」


「で、でたらめを言うな! 私は正当な領主だ!そのような紙切れ卑しい農奴どもが捏造した偽書に決まっている!」




伯爵が唾を飛ばして喚く。


だが、ヴォルフは眉一つ動かさず、ただ静かに一歩、前へ踏み出した。


空気が軋む。


無数の戦場を潜り抜け、何百もの命を奪ってきた男だけが放つ、皮膚を刺すような重圧。


執務室内の温度が数度下がったかのような錯覚に、伯爵の喉から引きつった悲鳴が漏れた。




「……今ここで貴方の首を刎ね、軍務局へこの帳簿を突き出すのは極めて容易です」


ヴォルフの手が、腰の長剣の柄に置かれる。


伯爵は膝をガタガタと震わせ、たまらず執務机にしがみついた。




「ひ、待て、待ってくれ……! 私は貴族だぞ! 領主を私刑にするなど……!」


「お忘れですか?我ら特務機関は皇帝の親裁。法が許さずとも皇帝が許します。''それ''が正しければ。まぁ今回は斬りませんが」


「ひぃぃぃ!……え?」




ヴォルフはあっさりと剣から手を離した。


拍子抜けした伯爵が息を吐く。ヴォルフは机の上の帳簿を指先でトントンと叩いた。




「貴方を今斬れば、この地が産出する『耐寒鉱石』の採掘ラインが麻痺する。鉱山の利権を巡って帝都の貴族連中が醜い争いを始め、冬を迎えるまでに防寒物資の供給が止まる。そうなれば飢えた領民は全滅し、帝国は重要拠点を一つ失うことになります」




現場の武官である自分には、複雑な貴族法を解釈して領地を再建する能力も、鉱山の流通網を再編成する権限もない。下手に正義感を振りかざして領主を処刑すれば、待っているのはさらなる破滅だ。




「貴方の罪状を裁き、この土地の再建方針を決めるのは私ではありません」


ヴォルフはレオンに目配せをした。副官が一歩前に出て、机の上に一枚の公的書類を広げる。




「死にたくないなら、二つの条件を呑みなさい。一つ、屋敷の隠し穀物庫を直ちに全開放し、飢えた領民へ食糧を配給すること。二つ――領内の統治権、財産管理権、および司法権を一時的に我が機関へ全面委託する誓約書にサインすること」


「な……ッ!? 統治権の委託だと……!? そんなことをすれば、私の権限も財産もすべて帝都に握られてしまうではないか!」


「拒否されるなら、今すぐに処刑します。選択肢はありません」




感情のないヴォルフの眼光に射抜かれ、伯爵は脂汗をだらだらと流しながら床に崩れ落ちた。


軍を欺いた証拠を完全に握られ、目の前には帝国の死神がいる。逃げ道などどこにも残されていなかった。


「……わ、分かった……。サインする、穀物もすべて渡す……だから命だけは……」




震える手でペンを握り、伯爵は誓約書に血判を押した。


それを見届けたヴォルフは、小さく息を吐き出して書類を回収した。


(よし。現場の火種はすべて押さえ込んだ)


穀物を吐き出させれば領民の飢えは止まり、統治権を帝都に委託させれば鉱石の供給ラインも中央の官僚たちが管理してくれる。


反乱軍の処遇も含め、複雑な事後処理はすべて帝都のあの冷徹な上司に放り投げてしまえばいい。




(あの方のことだ。あの女首領――イリヤの卓越した身体能力と能力を見逃すはずがない)


反逆者とはいえ、元は没落したとはいえ騎士の家系だ。筋骨たくましい肉体と指揮能力がある。


帝都近郊の治安維持部隊や後方警備隊あたりに配属し、労働力として使役するのが最も無駄のない人事になるはずだ。




(そうなれば、監視という名目で合法的に毎日あの女の傍にいて…)


あの見事な大臀筋に敷かれながら過ごす夢の新婚生活へのきっかけをつかむことだって夢ではないのだ。




「レオン、穀物庫の開放を急がせろ。反乱軍の捕虜たちにも手当てを受けさせ、帝都への移送準備を整えろ」


「はっ! 直ちに手配いたします!」




手応えと確信を胸に、ヴォルフは帝都への長い帰路を見据えて歩き出した。


面白いと思って頂けましたら、下の☆マークから評価・リアクションマークをポチッと応援をよろしくお願いします!

また作品に対する感想、助言などお待ちしております。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。