第19話
旧離宮の真下に位置する地下廃水路の終点。
湿り気を含んだ闇の中、錆びついた鉄格子と石造りの隠し扉が、地上への道を固く閉ざしていた。
「あたしに任せな」
ヒルダが懐から細い二本の針金を取り出し、鍵穴へと差し込んだ。
指先をわずかに動かし、内部の引っかかりを確かめる。耳を澄ませ、扉の隙間に意識を集中させる所作には一切の迷いがない。カチリと硬い音が暗がりに響いた。
「十秒もかからないって言ったろ。ほら、行きな」
重い鉄扉が、軋み音を立てることなく奥へと押し開かれた。
「見事だ」
ヴォルフ・ガランドは短く応じると、振り返ってレオンを見据えた。
「レオン、貴様はここに残れ。この隠し扉の周囲を確保し、退路の安全を維持せよ。いかなる事態があろうと脱出経路を塞がせるな」
「はっ、承知いたしました。部隊長、ご武運を」
レオンを地下に残し、ヴォルフ、ガゼル、ヒルダの三人は狭い階段を駆け上がった。
地上へ通じる通気口を押し開けると、冷たい朝靄が漂う旧離宮の中庭の隅──外壁沿いに生い茂る手入れのされていない低木の陰へと出た。
中庭を囲むようにして、本館や別棟を繋ぐ屋根付きの石造り列柱回廊が四方に伸びている。その回廊の下には、槍を手にした軍務局の警備兵たちが等間隔で哨戒に当たっていた。
中庭を横切るには遮蔽物がなく、回廊の兵を排除しなければ本館の入口へは近づけない。
「ガゼル」
ヴォルフが低く声をかけると、背負った大剣の留め具を確かめた赤毛の少女が、獰猛な笑みを浮かべた。
「あたしの出番だな」
ガゼルは茂みから音もなく地を蹴った。
低木をすり抜けて回廊の基部へ滑り込み、石柱のわずかな凹凸に爪先をかけると、軽々と屋根裏の梁の上へと駆け上がった。
回廊の屋根裏は、地上と中庭を警戒する兵たちの完全な死角となっていた。
梁の上を滑るように進むガゼルは、歩哨の真上へ回り込むや否や逆さまにぶら下がり、首筋へ正確に当身を叩き込む。声すら上げさせずに崩れ落ちた兵を物陰へ引きずり込み、次なる獲物へと跳躍する。
一人、また一人と、回廊の上の闇から落ちてくる急襲によって、地上の哨戒網が音もなく無力化されていった。
梁の上から、ガゼルが音を立てずに手招きを寄越した。
上はすべて片付けた、まっすぐ突っ走れ──その鋭い視線と手の動きが、雄弁にそう告げていた。
ヴォルフとヒルダは回廊を駆け抜け、倒れた歩哨の脇を通り抜けて本館の通用口へと飛び込んだ。
◆
だが、本館の回廊へ踏み込んだ直後──死角で倒れていた歩哨のひとりが、朦朧とした意識のなかで壁の警報ロープを強く引き絞った。
カラン、カンカンカンカンッ!
けたたましい銅鐘の連打音が、本館の静寂を打ち破って響き渡った。
「曲者だ! 侵入者あり!」
「迎撃配置につけ!」
階上から怒号と、無数の鉄靴が石床を踏み鳴らす足音が押し寄せてくる。
「ちっ、気づかれたかい!」
ヒルダが舌打ちした。
「皇帝の居場所はどこだ」
ヴォルフが走りながら問う。この広大な離宮の中で、どの区画に皇帝が幽閉されているのかまでは事前の情報になかった。
ヒルダは周囲の気配と階段へ向かう兵の動きを見定めながら、即座に言った。
「おそらくは三階、大広間の奥だね」
「根拠は」
「庭で無力化した連中を差し引いても、今あたしたちの前に出てくる兵が少なすぎる。通路に兵を分散させず、本命の部屋の前戦力を集めてバリケードを組んでるのさ。一箇所を固めるなら、構造上あそこしかない」
「了解した。大広間へ直行する」
ヴォルフを先頭に、三人は中央階段を一気に駆け上がった。
だが、二階から三階の大広間へと続く直通階段に差し掛かった瞬間、行く手は完全に塞がれていた。
幅の広い階段の段差を利用し、全身を鋼で包んだ重装歩兵部隊が何重にも隙間なく大盾を噛み合わせ、強固な人の壁──生きたバリケードを構築していたのだ。
盾の隙間からは無数の長槍が突き出され、上段の兵たちが下段の兵の背中を押さえて強固に押し固めている。
「階段を死守せよ! 押し返せ!」
指揮官の怒号が階段に反響する。
「上り階段で盾列かい……力づくで押し止める気だね」
ヒルダが眉をひそめた。
迂回する道はない。背後からも警報を聞きつけた別動隊が階段へ迫っていた。
だが、ヴォルフは立ち止まることすらしなかった。
「問題ない」
低く、押し殺した声。
「叩き割る」
ヴォルフは長剣の柄に手を添え、低く身構えた。
石の階段を踏み砕くほどの力強い踏み込みとともに、巨躯そのものを弾丸と化して上方へ突進する。
全身の筋連動が加速し、突進の質量が胸当ての鋼板と肩口へと集約される。
「──吹き飛べ」
轟音。
上段から突き下ろされる槍衾を、長剣の鞘で下から一気に斜め上へと鋭く跳ね上げる。大半の槍先が宙へと跳ね飛ばされ、敵陣に動揺が走った。
ヴォルフはその刹那、まだ弾かれずに残っていた槍のうち二本の柄を、空いた左手で鷲掴みにした。
「──ウォォォォォオオオオオオオオ!」
腕力だけで一気に下段へ引き抜く。槍を握っていた前列の歩兵二名が前のめりにバランスを崩し、階段の下へと転がり落ちた。
強固だった盾の隊列に致命的な亀裂が走る。
ヴォルフはその隙間に踏み込み、最前列の兵の大盾を力任せに引き剥がすと、奪い取った大盾ごと上段の兵たちへ向けて叩きつけた。
轟音とともに盾壁が崩壊する。
崩れ落ちる兵の兜へ鞘の柄頭を正確に叩き込み、背後から迫る別動隊の槍を身を沈めてかわしながら、足元の兵を蹴り飛ばして下へと転げ落とす。
重装甲の兵たちは自重で玉突きのように倒れ込み、転落していった。
後方の憂いを完全に絶ったヴォルフは、そのまま踊り場を駆け上がり、三階大広間の分厚い樫材の扉へと突進した。
速度を落とすことなく、全体重を乗せた蹴りを扉の中央へ叩き込む。
バキィッ、と蝶番が吹き飛ぶ轟音とともに、巨大な両開きの扉が内側へ砕け散った。
木片と粉塵が舞う中、ヴォルフは大広間の中へと踏み込んだ。腰の長剣に手をかけたまま、大股で煙の中を踏み抜く。
鋭い眼光で、広間の最奥を見据えた。
立ち込める煙の向こう、皇帝の寝所へ続く重厚な扉の前に一人の人影が、微動だにせず直立していた。
装飾を極限まで排した、白銀の重装甲騎士鎧。
煌々と輝く大剣の切っ先を床に据え、両手を柄頭に重ねている。舞い散る粉塵の中でも瞬き一つせず、その姿は氷で削り出された彫像のような。
軍務局の実力者、旧離宮の守護を任された近衛騎士団の女性団長──ブリギッタ・ハーゲンであった。
階段で沈黙した部下たちに視線すら向けることなく、彼女の双眸は、ただ一人、黒衣の巨漢──ヴォルフ・ガランドだけを正確に射抜いていた。
ブリギッタは静かに大剣を持ち上げ、正眼に構える。
「──ここまでだ、反逆者ども」
凛とした硬質な声が、広間を支配する。
「これより先、陛下の御前へ一歩たりとも通さん」
近衛最強の番人と、覚醒した帝国の死神。
二つの圧倒的な質量が、寝所の前で真正面から激突の時を迎えていた。
新作「アメリカをデブらせろ!〜もしファストフード店のワンオペ店長がジャンクフードを西部開拓時代に持ち込んだら〜」公開中!
https://ncode.syosetu.com/n5245ms/
こちらもぜひご覧ください




